とある寄道
今日はとんだ災難だった。否、災難と言うより、自業自得といったほうが正しいだろうか。
昨日締切の書類がまだ提出されていないと一番隊からお叱りの地獄蝶が届いたのだ。
三ヶ月に一度提出するべき書類だったから、すっかり存在を忘れていた。とは言っても席官が日々記録を取ってくれているものだったから、改めてまとめるようなものではない。
慌てて席官執務室へ駆け込めば、仙太郎が呆れたような顔をしながら用意をしてくれた書類を引っ掴んで一番隊へ飛んでいったのだが、一番隊の担当席官が中身を確認するやいなや不備を指摘された。
慌てて仙太郎に伝令神機で連絡して追加の書類を用意して貰い、とんぼ返りで戻ったのだがなんと話が行き違い、書類を持たせた席官が急いで一番隊へ向かわせたのだと言う。千世も慌てて再び隊舎を飛び出て一番隊へとまたとんぼ返りである。
何とか追いついた頃には、一番隊舎の眼の前であった。その後どうにか提出したものの一番隊の担当席官から懇々と説教をいただき、ぐったりとしながら一番隊舎を出た。
帰る間際の説教はなかなか堪えた。提出期限を過ぎた挙げ句書類不備で待たせ、業務を滞らせたのは自分の責任ではあるのだが。
とぼとぼと帰路を進みながら、自然とため息がこぼれた。時折、自分に副隊長としての責務が務まっているのだろうかと悩むことがある。
功績を認められ抜擢されたものの、自分よりも経験のある席官は多い。仙太郎や清音は特に、海燕を失った後の浮竹を傍で支えていた二人だ。
落ち込む暇があるなら精進するべきとは分かっているが、時々自分の中心を通る芯に僅かにヒビが入りかけるような事がある。
人通りの多い道に出ると、この先に有名な鯛焼き店があることを思い出した。何度か松本と一緒に食べに来たことがあるのだが、季節で変わる限定の風味が独特で美味しいのだ。気分転換に丁度よいだろうかと、重い足取りのまま道を進む。
しかし、その希望は早々に打ち砕かれた。鯛焼き店は既に戸が閉まっており、張り紙を見れば本日は売切れとのことらしい。思わず店の前でうなだれる。
不運というのは重なるものらしい。今日昼の時点でこの調子ならば、更に二、三は続きそうなものだと更に鬱屈とした気持ちになり始めている。
「……あ、あれ……」
隊舎に戻ろうかと方向を戻すと、ふと見覚えのある姿が目に入り思わず声を漏らす。少し距離は離れているが、隊長羽織に腰ほどまでの長い白髪を靡かせるような後ろ姿は彼しか居ないだろう。
しかし声を掛けるどころか思わず身を潜めてしまったのは、その隣に見慣れぬ姿があったからだった。
理解するよりも先にどくりと心臓が大きく脈打ち、早まっていくのが分かる。
長く黒い髪と、華やかな色留袖。顔まではよく見えないが、その雰囲気から見目麗しさが分かる。この距離でも目を引くくらいだから、通行人が通りすがりに振り返っているほどだ。
ある程度の霊圧の密度は感じる。つまりあまり霊圧の制御を意識していないようだから、死神やそれに準ずる職業でない事は確実だろう。一体彼女は何者だというのだろうか。
まさか、彼に二心があるとは思っても居ない。きっと何らかの事情があるのだろう。大体、何かしら理由がなければこんなに人目のつくような場所で、隊士でもない女性と二人だけで過ごすはずがない。
それに今日彼は確か休日では無かったはずだ。となると、彼としては仕事の一環として判断している可能性が高い。とは言えども、納得できるかどうかは別の話だ。
往来が多い道で良かった。人混みに紛れながら、徐々に距離を詰めつつ二人を追う。見なかったことにすれば良いのだろうが、つい追ってしまうのは自分の見立てが間違えで無いことを少しでも確かめたいからだ。
それにしても、笑い合う様子は楽しげである。雑貨店の店先に並べられた置物を眺めたり、小物を手に取りながら何やら会話を交わしている。
いくら何か事情があったとしても、実際その様子を目にするとなんとも言い難い、冷たい血液が身体を巡るような感覚だ。
幸運と不運というのは、長い期間で見ると均衡が取れているのだろうと思う。
つい先日、彼から鬼道の手習いを受けた記憶はまだ新しい。彼の仕事を手伝うために隔週で参加していた勉強会を休んだのだが、その代わりとして図々しくも指導を依頼してみたのだ。
結局書類の処理を終えたのは日もすっかり暮れた頃だった。約束は取り付けたものの疲れているだろうかと遠慮を申し出たが、案外強引に彼に訓練場へ連れ出された。
個人授業、なんて変に甘い言葉を囁かれて緊張していたのだが、終わった頃には汗でどろどろに汚れるほど容赦なく、まさかの根性論的な指導方法に面食らったものだった。
しかしあの時間は、今でも思い出しても心浮かれてしまうほど満ち足りていた。威力を高め安定性を上げるためと、数時間絶えず鬼道を発動させ続ける地獄のような時間ではあったが、それでも二人だけで過ごした時間というのは千世にとって特別に感じたものだ。
未だその余韻が続いていたのだ。だからこそ、今の目が覚めきるような落差に衝撃を受けている。
夢見心地でいた罰が当たったのかもしれない。彼と思いが通じ合っただけで余りあるほど贅沢だというのに、人というのは愚かなもので欲をかいてしまうのだ。
だからあまり安直に舞い上がるのをやめ、慢心せず常に己を律して平常心を心がけるべきだというのに。
頭では分かってはいるものの、心というのはそう簡単に制御されてはくれない。
雑貨屋へと入っていった二人の様子を、さりげなく店の前を往復することで垣間見る。子どもの玩具のようなものを手にとって笑う女性を、にこやかに微笑んで見守る浮竹の姿が見え、勝手に傷を負った。こうなると分かっていながら、怖いもの見たさというやつなのだろう。
もうこれ以上はやめておくべきだと分かっているものの、しかし隊舎に戻るような勇気もない。戻ったかといって、仕事が手につくはずがない。せめてこの二人がどういう経緯で、一体どのような関係であるかを明らかにしないときっとこれは落ち着かない。
なんとも余計な感情だと思う。以前はそんな事を彼に対して思うことなどなかったはずだ。彼への感情は崇拝にも近いもので、言葉を交わせるだけでも贅沢だと思える程だった。
しかしやがて席官となり副隊長となり、物理的な距離も心の距離も近くなるほどに恋い慕う思いは強くなっていった。
だが、今抱えるような余計な感情を明確に自覚したのは今が初めてだった。彼の立場から他の女性と会話をする場面や、慕われる姿を見かける事は多いが、苛立ったり寂しくなるような事は無かったはずだ。
そう自信無げになるのは、急に湧いて出るようなものでないと分かっているからだろう。もしかすると今までにも無意識に嫉妬していながら、それに蓋をして気づかないふりをしていたのかもしれない。
彼の前ではいい子で居たいと思ってしまうのだろう。嫉妬とか独占欲とか、そういう面倒な感情を向ければ嫌われてしまうのではないかと思っている。
店内で金銭をやり取りするような様子が見え、千世は慌てて店の傍から離れる。間もなく出てきた浮竹の胸元には、恐らく購入したであろう荷物が抱えられている。
その後も女性と随分楽しげに会話を交わしながら団子を食べ歩き、生花店で花を購入するなど休日を大満喫する様子に神経をすり減らしながら尾行を続けた。
一度くらいはそんな休日を過ごしてみたかったというのは、きっと我儘になるのだろう。お互いの関係上、人目の付く場所で会うことは出来ないというのは、はじめから分かりきったことだ。
それを承知の上での関係だというのに、無い物ねだりである。
だからこそ、こんな様子を見せられ続けたのでは堪ったものではない。果たしてこの後どれだけ続くかも分からず流石に具合が悪くなり始めた頃、二人に動きが見られた。
何やら前方に立派な牛車が停まっており、その前で何やら会話を交わしながら、浮竹の手荷物を初老の翁が手際よく回収していくのだ。
まさかそのまま牛車に二人で乗り込んで移動するのかと冷や汗を浮かべていれば、女性だけが乗り込み、浮竹は去っていく牛車に向けて深く腰を折る。
急な展開に訳が分からず、しばらく物陰に隠れる事も忘れて呆然と眺めていれば、くるりと振り返った浮竹と真っ直ぐ視線がかち合った。びく、と反射的に後ずさったが、どうにか踏ん張って頭を下げる。
「千世、どうしたこんなところで……なんだか随分、疲れているようだが……」
「ああ、はい……色々ありまして」
慌てて髪を手ぐしで直しながら、千世は簡単に書類不備の話をする。だが、今の千世にとってもうそれはとうに過去の話であって、この疲労への影響はもはや僅かだ。
何より、あの謎の貴族と思しき女性と浮竹の関係が気になって仕方ない。まるで休日の恋人同士のような様子を勝手に追っていたとはいえ見せつけられ、目立っていたし妙な噂が立ちでもしたらと思うとどうにもそわそわと落ち着かない。
自然と二人して十三番隊舎へと戻る脇道へと入る。繁華街から逸れて人通りも減り静かな道すがら、何を話しても墓穴になりそうに思えた千世は押し黙っていた。
横からの彼の視線が落ち着かない。彼はおそらく尾行されていたことに気づいていないだろうし、このまま何も言わなければあの嫌な感情も無かった事になるだろうか。
なんてそんな簡単なものだったならば、今頃執務室で机に向かっていることだろう。
一つ、覚悟したように拳を握る。それから一つ短く息を吐き出した。
先程の方は、と千世はおずおずと口にする。先程の方、と浮竹は繰り返して少し考えた様子だったが、思い当たったのかぽんと手を叩いた。
答えるより前に、浮竹はどこか口元の笑みを隠しきれないような様子で、見てたのかい、と笑う。千世は少し気まずく目線をそらしながら、小さく頷いた。
「あの方は、元柳斎先生のお知り合いの御息女だよ」
「総隊長の……?」
「ああ、詳しくは言えないが高貴なお生まれの方でね。繁華街に出向きたいと仰ったようで、案内を頼まれたんだよ」
「案内……だったのですか」
思わず力が抜ける。特別な関係を疑っていたわけではない。
ただ、眼の前で繰り広げられる楽しげな様子に耐えながら様々な可能性を考え、想像を膨らませていた緊張から開放された反動でどっと疲労が溢れたのだ。
「もしかして、妬いてくれたのか」
「え、えっ!?……ど、どうしてですか」
「ああ……どうしてというか……そうだったら良いなと、少し思った」
彼はそう言って柔らかく微笑む。
一体どういう意味なのかと彼を見上げたまましばらく固まった。が、恐らくその言葉の意味なのだろう。そう解釈するしか無いような口ぶりに、千世は道の脇へと視線を逸らす。
余裕な態度で図星を突かれた事に、動揺をしながらも僅かばかり癪である。千世としては彼と女性の姿を見つけてからというものの、気が気でなかったというのに。
先程までの葛藤を思い返しながら、自然と石畳に目線を落として進む。と、ふと隣から小さく息の漏れるような声に、はっと隣の彼を見た。
くすくす笑う浮竹に、千世は驚きながらも分かりやすく口をへの字にする。
「もっとそういう姿を見てみたいな」
「そ……そういう、とは、どういう……」
「そうだな……そうやって拗ねたり、むっとして苛立ったりしているところとか……だろうか」
「隊長……」
千世が思わず眉根を寄せて彼を見上げれば、そういうところ、とまたくすくすと笑う。
どういう意味なのか、その真意が分からない。人が拗ねたり怒ったりするところを敢えて見たいなんて、からかわれているとしか思えない。
しかし彼が人をからかうような場面は今まで一度も見たことが無かったから、物珍しくもあった。
だが思い返してみれば、彼との交際が始まってからは、今まで知らなかった姿を少しずつ知る機会が増えているような気がしている。少しずるい言い方をするところだったり、甘い事を言うところだったり、こうして存外、意地悪な事を言うところもそうだ。
きっとこの立場でしか得られない特権なのだろう。とはいえ、さすがにむっとした表情を抑えきれずに彼に向ければ、その横顔は随分ご機嫌であった。
その時、丁度鳴った鐘の音に自然と二人して足を止める。西日が強くなり始め、気づけばもう夕方の気配を感じる。冬の午後はあっという間だ。
「もう八つ刻か。折角だから、甘味屋に寄って帰ろうか」
「そんなご機嫌取りみたいな……」
「どうせ休憩だって取れていないだろう?あとは、からかってしまったお詫びのご機嫌取り」
「……やっぱり」
「はは、冗談だよ」
相変わらず笑顔の浮竹に、千世はむっとするのも馬鹿らしくなり力なく笑う。
少し甘味屋に寄るくらいならば、別に隊長と副隊長でも不思議ではない。隊首会の帰りには時折あることだ。
しかし、初めて彼にあんな姿を見せてしまった。拗ねたり、苛立った様子なんて今まで彼に向けたことは無かったはずだ。だがそれは隊長と副官という主従の関係を思えば、当たり前のことだった。
千世が彼の知らない姿を知っていくことが特別と感じるように、彼もまたそう感じてくれているだろうか。
少しずつ変わっていっているのだと思う。だがそれはとても緩やかで、気付かないくらいの速度での変化だ。いつになれば彼と恋人になった自覚が出るのだろうと思っていたが、そんな自覚など出ないまま、時は経っていくのかもしれない。
書類を手に走り回っていたことがもう遠い昔に思える。彼の背を追いながら、早くも鯛焼きのことで頭が満たされていくのであった。
(2025.04.12)