ひとりじめ

2025年7月14日
おはなし

 

「……あの」

 何気なく声をかけたつもりだったが、思いのほか響いたような気がした。手元の本を広げたまま、千世は隣の彼を窺うように目線だけで見上げる。
 浮竹は手にした書類から目を離さないまま、少し遅れて「ん?」とだけ返す。普段とあまり変わらぬ様子に見えるが、どうにもそれが今は妙に感じてしまった。
 広々とした縁側だというのに、間を少しも空けないまま、寄り添うように浮竹は腰を下ろしている。多少涼しい風が吹くものの、昼間と比べればという事であって、この距離が続くのではじっとりと汗ばみ始める。
 千世は暫く彼の様子を上目で観察していたが、それに気付いた彼と視線がかち合い、結局目を伏せた。
 帰宅してからというものの、どうにも彼の様子が普段と違うように感じている。
 何が、何処が、と聞かれても具体的な言葉では表現し難いのだが、普段以上に何を考えているか分からない。日頃から飄々とした雰囲気ではあるが、今はいつにも増していた。
 千世は再び、手元の本へと目を落とす。とはいえ、目は紙の上の文字を滑るばかりで、肝心の内容は頭に入らない。

 今日は昼間に何度か隊舎で顔を合わせたが、その時点では特に変わった様子はなかった筈だ。しかし千世の執務が込み入っていたせいで、彼には度々出直してもらうことになってしまったから、まともに会話を交わした訳では無い。
 ちょうど四半期ごとの提出書類の時期で、確認と修正のために席官たちの出入りが絶えなかったのだ。
 申し訳ないと思いながらも、浮竹も急ぎではないから、とそそくさ去ってしまう。その後廊下で姿を見かけた際に用件を聞いたが、後で大丈夫だからと遠慮されてしまった。
 千世自身も浮竹にいくつか確認しなければならない用件があったのだが、結局席官の来訪が途切れず、彼を訪ねられないまま今日を終えてしまった。
 屋敷に帰った時、彼はいつもの通り穏やかな様子だった。簡単な夕餉を共にしながら、他愛のない会話を交わす。特に違和感を覚えることも無く、昼間のすれ違いの事など忘れてしまうほどだった。
 彼の様子が妙だと感じたのは、湯浴みを終えた後のことだ。縁側で夜風に当たりながら書類に目を通しているその横へ、読みかけの本を手に腰を下ろした。まだ眠るには早い時間だったのだ。
 しばらくは言葉も交わさずに、隣同士で各々の時間を過ごしていた。しかし彼は何を思ったか、不意に少し空いていた二人の距離をそっと隙間なく詰めた。
 始めは驚いたものだ。身体を預けるように身を寄り添わせ、その僅かな重みは身体の熱と相まって甘やかさを帯びている。
 恋人となって少し経つが、明らかに甘えるような姿というのは珍しい。どちらかといえば、千世が彼の優しさや寛大さに甘えてばかりであった。
 それは年齢の差というよりも、単に彼が他人に甘えるような性質を持ち合わせていないのだろうと思っていた。八人兄妹の長兄であるとは聞いていたし、隊長として多くの部下を導く立場も長い。
 と言ってもそれは今まで彼との付き合いの中で千世が勝手に感じていたことであって、彼に聞いた訳では無い。わざわざ聞くような事では無いだろう。
 彼と身体を寄り添わせながら、自然と千世の心拍数は高く保たれている。何度か彼の様子を横目で窺うのだが、手元の書類から目線を変えないまま普段通り穏やかな表情であった。

「……少し暑くはないですか」
「そうかな。今日はいつもより涼しい方だと思ってた」

 距離が近いことを暗に伝えてみたのだが、恐らく彼はそれを分かっていながらしれっと返している。
 そう答えられてしまっては、千世もそれ以上何も言えない。思うようにこの状況を誘導できないもどかしさに、千世は口を少し尖らせ俯いた。
 手元の本の頁はまるで進んでいない。かといって、本を閉じてこの場を離れるというのも惜しく感じて、彼の温もりと重みを片側に感じながら頁の端を指先で摘み、手持ち無沙汰に遊んでいる。
 しかし、この状況を悪くないと感じているのは確かだ。理由の分からないまま甘えられる幸福感というのは、野良猫に擦り寄られる時のそれにどこか似ている。
 その時、紙が擦れる音が聞こえ、ふと横を見ると彼が手元の書類を脇に避けるところだった。もう夜も更けてきた事もあり、そろそろ就寝の準備でも始める頃だろうか。
 千世は黙って彼の動向を見守っていたが、しかし彼は立ち上がるどころか更に身体を寄せた。
 千世が本を開く手に手をするりと重ね、柔く握る。指先で擦られる擽ったさは、手の甲から弱い電流のようにぴりぴりと甘く痺れ、全身へ流れた。
 やはり今の浮竹はどうにもおかしい。無言のまま続けられている手の甲への愛撫を、千世もまた黙って受け入れている。
 心臓はどきどきと拍動しているというのに、しかし驚くほど感情は凪いでいる。彼の珍しい様子に緊張を覚えながらも、敢えて言葉にする必要もない有り余るような愛情に頭の先まで沈むようだった。
 千世は彼に握られた本の上の手を見下ろしながら、思わず口元を緩ませる。

「……今日はどうされたんですか」

 とうとう千世はそう彼に尋ねれば、うん、と穏やかで少し眠たげな声が返る。手のひらをまるで粘土でも捏ねるかのように、やわやわと握ったり擦ったりを繰り返した。

「今くらいしか、独り占め出来ないような気がした」

 囁くような呟くような声に、思わず千世は息を止め固まる。思ってもいなかった言葉だったが、しかし思い当たりはしたのだ。

「最近千世は人気者のようだからね」
「ち、違いますよ、ただ書類の修正とか確認を席官の皆さんから依頼されているだけで――」
「はは、分かってるよ」

 千世は焦って彼を見上げると、いつもの笑顔でくすくすと笑う。
 何も彼を寂しがらせたい訳では無かったのだ。いや、きっと彼もそれは分かっているのだろう。
 職場で上司と部下である以上、切り離せばならない感情に中々折り合いがつかないということは珍しくない。ただそれは、まだ感情の未熟な自分だけの問題だとばかり千世は思っていたのだ。
 だが今の口ぶりでは彼もまた同じ悩みを抱えて居たかのようだ。年齢も経験も千世を遥かに上回る彼が、千世と似通った感情の揺らぎを抱えていたのかと思うと自然と息が詰まる。
 動揺で震える指先に気付いたのか、彼の手のひらがきゅうと握った。

「もう少しこうしていたいな」

 浮竹はそう呟くと、優しく目を細める。
 千世は消えそうな声で、はい、とひとつ呟くと、それを攫うように夜風が吹き二人の髪を揺らした。

2025/07/14