とある薄暮
千世は椅子に腰掛けたまま、大きく伸びをする。
気づけば午後三時を回ろうとしている。今日は昼食後の眠気も特に無く、集中して進めることが出来た。書類をまとめた千世は、次の山へ手を付ける。
その前に一口すすろうかと湯呑みを手にすれば、中はもう空になっていた。一度休憩しても良いだろう。
千世は急須と湯呑みを手に立ち上がると、火鉢の傍へと屈む。下半分を上げた雪見障子の硝子越しに見える庭には、まだ数日前に降った雪が薄っすら残っていた。
急須の蓋を上げれば茶葉が残っている。新しい茶葉を足そうかとも思ったが、まあ良いかと鉄瓶の湯を注いだ。
部屋の中央の長椅子に腰を下ろす。薄っすらと色のついた茶をすすれば、その色の割にはしっかり風味がついていた。浮竹から以前譲られた茶葉だったが、流石質が良い。
そういえば今日はまだ浮竹と顔を合わせていなかった。朝から外出の用事があったようで、昨日の日報も不在の雨乾堂に書き置きと共に残してきた。
そろそろ戻っているだろうか。と言っても、特に顔を合わせる理由もないのだが。庭の残った雪をぼうっと眺めながら、自然と思い浮かぶのはあの日の夜の光景だ。
雪が降った深夜、京楽の邸宅で開かれた宴席からの帰路を浮竹と辿っている際、寒いだろうからと手を握られたのだ。
確かに手袋を片方無くし、寒かったことには違いないのだが、そんな解決方法を望んでいたわけではない。
深夜の貴族屋敷街とはいっても人通りが無いとは言い切れないし、もし誰かと鉢合わせたとして言い訳のしようがない。
千世は慌てたものの彼は存外強引で、平気だよ千世の動揺など気にも留めず、結局寮の近くまで手を握られたまま送られてしまった。顔には出ないものの、彼も酔っていたのかもしれない。
二人以外誰も居ない深夜の瀞霊廷を手を握られ進むのは、夢でも見ているような不思議な感覚だった。
凍えるほどに寒かったが、包まれた手のひらと絡めた指先だけは熱かった。指の腹で優しく擦られた感触を思い出すと勝手に身体が熱くなり、自然と溜息が漏れた。
まずい、と千世は茶を一息にすする。喉を通っていく熱が胃へ落ちた頃、襖を叩く音が聞こえて慌てて姿勢を正す。
はい、と返事をすれば顔を覗かせたのは、今まさに頭に浮かべていた相手であった。
「千世、今手隙だったりするか」
「は、はい、全然……大丈夫ですが、何かありましたか」
思い浮かべていた相手が実際に現れると、多少なりとも動揺するものだ。
浮竹は執務室へと入ると、手元に持っていた帳面を見せる。千世は立ち上がり彼へと近づき、その帳面を受け取りまじまじと眺めた。収蔵品台帳、と表紙にある。
収蔵品、ということは蔵の備品の話だろうか。中をぱらぱらと捲ってみるが、記載されているのは見慣れぬものばかりだ。
「奥の蔵でお願いしたいことがある」
「はい、奥の蔵……北のですか?」
「ああ。千世はまだ中を見たことがなかったかな」
記憶を辿りながら、千世は一つ頷く。隊舎には目的別に三つの土蔵があるが、最も端にある隊舎北の土蔵は確か一番規模が大きいはずだ。
他の蔵には備品の出し入れで何度も出入りしているが、奥の蔵には入ったことはおろか、何が所蔵されているかというのもよく知らない。
「わかりました。詳細を教えてくだされば、後で見ておきますよ」
「ああ……いや。一緒にお願いしたいんだよ。少し量がある」
「それでしたら、私と誰か席官でやっておきますよ。隊長はお忙しいでしょうし」
「気持ちは有り難いんだが……所蔵品が、副隊長以上でないと確認できないものでね」
千世は浮竹の言葉にはっとする。その土蔵に一度だけ入った記憶を思い出したのだ。
奥の蔵というのは通称で、正式な名前は別にあったはずだ。一度急ぎの用事で海燕を探していた際、その蔵に居ると聞き足を踏み入れたことがあったのだ。
中は他の蔵以上に暗く、迷路のように並んだ木棚には収蔵品が丁寧に保管されていた。しかしどれもが容易に触れてはならないと明らかに分かるほど、異様な雰囲気を漂わせている。壁沿いに複数置かれた黒漆の箪笥には頑丈な錠前がかかっており、蔵全体が不気味であった。
特に手を触れるわけでもなく、その独特な雰囲気に呑まれて暫く呆然と見回していた覚えがある。間もなく棚の陰から現れた海燕は驚いており、慌てたように追い出された。
所蔵品については気になったものの、結局何も聞かず海燕には要件だけ伝えて終えた。その後も特に尋ねることはなく、そのまますっかり土蔵の存在を忘れてしまっていた。
浮竹の言葉で、海燕のあの慌てた理由が分かった。まだ席官でもない千世が触れるには、危険なものだったのだろう。
浮竹の頼みとは、蔵の収蔵品の棚卸しとのことだった。台帳と突き合わせ、状態の確認を共にしてほしいと言う。今日からおよそ一週間ほどかけて行う予定のようだ。
千世が二つ返事で了承すれば、浮竹はほっとしたように微笑んだ。まさか断るはずなど無いというのに、不思議な人だと思う。
「今からでも良いのかい」
「はい、急ぎの仕事もありませんので」
「助かるよ。量もあるから、早いところ今日の分を進めてしまおうか」
そう彼は千世の手に台帳を残したまま、颯爽と去っていく。
浮竹と書類の受け渡しや相談は頻繁にあっても、共同で行う仕事というのは珍しいことだ。仕事とは分かっていても、自然と浮足立つ。
あの暗い蔵の中で、二人だけの作業になるのだろう。その光景を想像し、どきりと胸が鳴る。いや、まさか何かが起こるとは期待している訳では無いのだ。
これは仕事なのだと、自分自身に言い聞かせる。部下という立場にある以上、早くこの関係に慣れ、仕事だと割り切れるようにならなくてはいけない。
千世はこの静かな胸の高鳴りを落ち着けるため、一度深呼吸する。彼は以前と変わらない態度で居てくれているというのに、自分ばかりが意識して情けないというものだ。
呼吸を整え廊下に出ると、執務室の脇にかかった札を在室から不在へ裏返す。随分遠くなっていた彼の背を小走りで追いかけた。
隊舎の北側には資料庫や書庫、食料貯蔵庫等あまり馴染みのない部屋が配置されている。席官となってから時折足を運ぶようになったくらいだ。
この先、突き当りに見えるのが土蔵だ。隊舎と廊下続きになっていて、一見単なる部屋のようにも思えるが、その戸は重厚で大ぶりの錠が掛かっている。
浮竹は懐から鍵の束を取り出し、錠へと差し込んだ。金属同士が触れ合う控えめな音に、千世は自然と息を潜める。それに気づいたのか、浮竹は千世に目線をやり少し微笑んだ。
「正式には重要機密品収蔵庫と言ってね、基本は隊長か副隊長だけしか入れない。ちなみにこの鍵は、代々隊長が決まった場所へ保管するようになってる」
「随分厳重なんですね」
「十三番隊創設期からの重要な装具やら何やらが保管されているからな……仕方ないと言えば、仕方がないんだが――」
二つの錠を外すと、重い戸を二人がかりで引いて開く。蝶番が鈍い音を上げて軋んだ。
彼の後ろについて恐る恐る薄暗い土蔵に入れば、底冷えするような空気が漂っていた。この冬の寒さだけが理由ではない。あの時ほど気圧される感じはないが、やはり妙な雰囲気だ。
改めて見回せば、かなり広い。いくつも並んだ木棚には葛籠や漆器などが並び、奥には階段も見える。少し埃っぽいが、機密品の収蔵庫ということもあってか清潔に保たれている。
入口からの光が届く範囲しか全貌は見えないが、恐らく反対側にも同じような光景がまだ続いているようだ。この広さ、そして暗さで棚卸しとは今から少し気が遠くなる。
浮竹は蔵の入口に置かれていた手燭へ火を灯すと、土壁に陰がゆらりとうつる。
さて、と浮竹は千世を連れて蔵の奥へと進む。入口からの光は届かず、浮竹の手燭だけが頼りである。
「年に一度とはいえ、とにかく量が多いから骨が折れてね。今年からは千世が居てくれるから助かる」
「これだけの量をお一人でというのは流石に大変ですよ……お力になれて良かったです」
「ああ、本当に大助かりだよ」
木棚が一定間隔で配置されている。ひとが一人通れるくらいの細さで、まるで迷路のようだ。一人では目的の棚に辿り着く事もきっと難しい。
隊舎の敷地内だというのに驚くほど静まり返っていた。ぽつぽつとした会話もこの暗闇に飲み込まれてしまう。流魂街の深い森の纏わりつくような空気に似ていたが、もう少し穏やかではある。
端の木棚の前で立ち止まった浮竹は、手燭を適当な場所に置く。手の届く範囲だけしか照らさないくらい、心もとない灯りだ。
千世は手元の台帳の表紙を捲ると、そこには収蔵品の名前がずらりと並んでいた。
「少し暗いが、見えるか」
「は……はい、大丈夫です。全然」
台帳を覗き込む為だとは分かるが、腰を折った彼の顔が近づいて思わずどきりとする。
浮竹は台帳にある収蔵品名を指でなぞり、木棚のものと見比べる。その指先に、どうしてもあの帰り道を思い出す。するりと絡み、優しく撫でたあの指の腹の感覚がまだ手に残っていた。
千世、と名前を呼ばれ、はっとする。やはりどうしようもなく意識してしまっている。袖が触れ合うくらいの距離で、息が詰まりそうだ。
これは仕事であって、慣れるため練習なのだと言い聞かせ、静かに呼吸を整える。
「品名と状態を伝えるから、記入を頼むよ」
「はい、分かりました……この一番上からで大丈夫ですか」
「うん。合ってるよ」
浮竹の読み上げの通り、千世は小筆を執って記入していく。
聞いたことのないものばかりだ。装具だとか武具だとか、斬魄刀の柄や鍔だけ。馴染みのないものばかりだが、そのどれもが濃厚な霊力を纏っている。
副隊長以上にしかこの場が許されないのはその機密の重要性もあるのだろうが、それ以上にこの収蔵品に篭められたものの性質によるものなのだろう。
「他の隊にも、機密品収蔵庫ってあるんでしょうか」
「ある隊が多いんじゃないかな。此処ほど品数があるかは分からんが……」
なるほど、と千世が頷いたその時、何やら入口の方から物音が聞こえ二人は固まる。
入口は閉じずに隙間を開けていたが、誰かが誤って入るような事は無い場所の筈だ。誰かが入ってくるとすれば、きっと意図的なものだろう。
二人してじっと動きを止めたまま、耳を澄ませる。
「ちょっと小椿、此処入っちゃ駄目だって知ってんでしょ!?」
「何も触りゃしねえって。隊長探すだけだから心配するんじゃねえよ。隊長――!」
「うるっさいなデカい声で……後で良いってば。中も暗いし……急ぎじゃないんだから」
あの聞き慣れた応酬は、仙太郎と清音だ。清音は止めているようだが、仙太郎がどうやら浮竹を探してこの蔵に足を踏み入れたらしい。
恐らく道行く隊士の目撃証言を頼りに、此処へ辿り着いたのだろう。入口のあたりで揉めているようだが、そのまま進まれてしまえば、この手燭の灯りを見つけるまでそう時間はかからない。
だが、何も疚しいことをしているのではないから、見つけられたところで何ら問題はない。むしろ、返事を返すのではないかと彼の顔をちらと見上げて伺った。
浮竹は何も言わず、入口の方を見遣っている。やがて静かに手燭を持ち上げると、何を思ったか炎を吹き消した。
突然の暗闇に、目が追いつかない。
何が起こっているのか分からないまま立ち尽くしていれば、手首を引かれる。戸惑う間もなく、どこか棚同士の間の狭い隙間へ身を導かれた。
この柔らかな感覚からすると、恐らく彼の腕の中へ収まっていた。背に棚の冷たい感触を感じる一方で、正面は彼の温もりに包まれている。衣擦れの音とともに背へ回された腕に寄せられ、距離がなくなった。
すぐ傍で聞こえる静かな息遣いと、雨乾堂でよく焚かれている香の匂い。
動揺で思わず囁くように彼を呼べば、し、と唇の隙間から漏らす音で優しく言葉を封じられた。
近づく二人の声に、二人は隙間で身を隠すように息を潜めている。胸の鼓動が聞こえてしまうのではないかと思うほど密着し、何も考えられなくなっていく。
隠れずとも良かっただろうに、二人の言い争いに巻き込まれる事を避けたかったのだろうか。それとも、この状況を変に茶化される事を避けたかったのか。もしくは――。
彼の胸元に頬を寄せたまま、身動きは取れない。息遣いと身体に籠もる熱を感じ続けるしかなかった。
「隊長、奥か上に居るんじゃねえか?声聞こえてねえのか、居ねえのかあ……?」
「とにかく此処は駄目だって言われてるでしょ!アンタ隊長に迷惑掛けたいの!?」
「わーかったって、うるせえな……折角この蔵入れたのによ」
「はあ……やっぱりそれが狙いじゃないの」
清音の説得にようやく仙太郎は応じ、二人の声は徐々に遠ざかっていく。やがて蝶番の金属音が響くと、蔵は再び静けさを取り戻した。
こうして抱き寄せられるのは、初めてという訳ではない。ただどうしても浮竹の身体の温もりに慣れず、心臓はばくばくと早鐘を打つことをやめない。
清音たちがもう少し居てくれても良かったとくらいに思ってしまっている。この熱に包まれている時間が、終わってしまうのが惜しかった。
浮竹はきっとそんな千世の混乱など知らず、いつも通り涼しい顔をしているのだろう。自分ばかりが意識をして、動揺し戸惑う余裕の無さが恥ずかしい。その情けなさに耐えられず、千世は逃げるように隙間から抜け出した。
すみません、と千世は謝る。何に対する謝罪なのかは分からない。ただ言葉にしなければ、余計に居心地が悪かった。
彼の気配が動き、手燭に再び火が灯される。ぼうっとした炎に照らされた彼は、やはり変わらぬ穏やかさを保っていた。
「急に悪かった。驚かせてしまったな」
「い、いえ、驚いたと言いますか――緊張というか、……意識をしてしまって」
伝えるにはどれも適切でない気がして、余計に言葉が多くなった。
逃げるように抜け出したことで、彼に気を遣わせてしまったのではないかと不安になった。嫌だった訳ではなく、あの状況を幸運だと感じてしまった自分の幼稚さが恥ずかしかったのだ。
浮竹は少し驚いたように眉を上げる。やはり何を考えているのか、表情からはまるで分からない。
「仕事とは分かっているんですが、まだ慣れなくて、勝手に意識してしまって……隊長は普通にしてくださってるのに――私恥ずかしいですよね。早く慣れないととは、分かっているんですが」
はは、と千世は引きつった笑みを浮かべる。気まずさに耐えきれず、言葉だけが勝手に続いたが、結局余計に気まずい。
取り落としてしまっていた台帳と小筆を拾い上げながら、まだ身体に残る彼の熱の余韻に指先は震えた。
彼の顔を見上げることが出来ないまま台帳を開くが、記載されている文字を読んでもあまり頭に入らない。
「俺も、そう大して変わらないよ」
呟くように零した声を聞き、千世は思わず顔を上げる。
彼は手持ち無沙汰に、棚の上へと指を滑らせていた。薄い埃を掬うと、それを軽く息で吹き飛ばす。
「今だって仕事をしているだけで、隠れる必要もなかった筈なんだが――二人でいる時間が途切れるのが、惜しく感じてしまってね」
そう浮竹は眉を曲げて微笑み、千世を見た。
彼の声音は穏やかではあったが、皆に向けるものとは違う、どこかじっとりとした湿度を帯びている。
二人の間の空気が僅かに変わる。細く吐き出した息が震えた。
「……隊長も、意識してくださってるんですか」
「勿論してるさ。隠すのが少し上手いだけでね」
そう目を細めた彼の眼差しは、静かな熱を湛えていた。
少しの空白の後、浮竹はおもむろに棚の上の品物を手に取る。まるで何事も無かったかのように札に書かれた品名を読み上げ始め、千世は慌てて台帳に記し始めた。
筆を進めながら、彼の言葉が耳の奥で蘇る。彼の表情はまたいつもと変わらない穏やかな笑みに戻っていたが、その裏に何を隠しているのだろう。
胸の奥が静かに疼く。重ねてきた想いの底に、言葉にしきれぬ熱が潜みはじめていた。
(2025.05.31)