とある夜更け

2025年5月22日
おはなし

 

とある夜更け

 

 身体の芯から冷え切るような師走の夜、もう日も変わろうとする時分の瀞霊廷は、驚くほど静まり返っていた。
 初めはらはらと落ちてきていた雪は、ものの十分ほどで本格的に降りはじめた。この様子では、明日の朝には銀世界が広がっていることだろう。
 貴族屋敷通りの丁寧に手入れをされた石畳を二人は進んでいた。
 同じ方角の帰路を辿っていた者が数名いたはずだが、一人また一人と横道へと去り、気づけば二人だけである。
 灯籠が点々と照らす道を進む千世の足取りは、ふらふらと心もとない。それを少し後方から見守るように、浮竹はゆっくりと歩を進めていた。

「美味しかったですね、ご飯もお酒も」
「良い銘柄ばかり、贅沢だったな」
「はい、私には手が届かない良いお酒ばっかりで……本当はもっと飲みたかったんですけど……」

 はあ、と千世はあの酒宴を思い出してか、悔しさを溜息に載せるように吐き出す。
 彼女の酒癖はお世辞にも良いとは言えず、それを本人も自覚し最近は特に控えているようだ。今日の宴席での酒量の調整も、彼女なりに努力したのだろう。

 今夜は京楽の屋敷で開かれた宴席に招かれていたのだった。
 宴席に集められていたのは卯ノ花や松本、雀部をはじめとして職位や男女を問わず十数名の酒好きばかりだ。年代物の日本酒や幻とも言われる焼酎、珍しい洋酒がずらりと揃えられた光景はなかなか圧巻であった。

 京楽から声をかけられたのは先月の月例隊首会の後だった。千世の酒好きをどこで聞いたのか知っており、二人で顔を出してはどうか、と誘いを受けた。
 良かれと思ってか、それともただ面白がっていたのか。いずれにせよ、答えるにはほんの僅かに間が空いた。一旦千世に確認をすると伝え、その場は持ち帰った。
 私的な宴席となると、納会や壮行会とは違い、皆それぞれが持つ職位や肩書関係なく食事や酒を楽しむ場となる。そんな場に千世と出席したことは、今までに無い。
 関係に勘付かれることを危惧している訳では無かった。人前で疑られるような行動を互いに取ることはない。
 何を言いたいのかといえば、その先にある実に個人的な感情の整理についての問題である。
 職務の延長にあるような宴席であれば、皆それぞれ同僚としての距離感を心得ている。しかし私的な宴席となればそうとも限らない。
 万が一距離感を違えた者が現れてしまえば、恐らくひとりでに心は乱される。今まで強く意識をしてこなかった淀んだ感情について、いよいよ考えねばならなくなる。つまるところ、この歳にして情けなくもそれを危惧していた。
 所謂嫉妬という感情の芽に気づいたのは、先日知った勉強会の件だ。一年以上前から、千世は隔週で藍染の勉強会へ参加していたと知った。
 不得手と自覚する鬼道を強化するためと、その熱心な姿勢は実に素晴らしく、褒められるべきことだ。しかし素直に頷けなかったのは、確実に彼女の鬼道に指導者の癖が出ることを予測できたからだった。
 その後、彼女には勉強会を欠席した代わりに個人授業と称して若干の矯正を施した。実際見てみれば浮竹の予測通り、彼女の鬼道の練り方には論理派の藍染らしい癖が出ていたのだ。
 千世のような感覚派には、論理的な指導は馴染まない。浮竹の思惑など知らないまま汗を滲ませ、肩で息をする彼女を眺めながら、己の中で芽を出しつつある淀んだ感情に戸惑いを覚えたものだ。
 もっとおおらかでありたかった。年齢の差を思えば、そんな些細な感情に乱される方が可笑しいのだと、頭では分かっている。しかし実際彼女を前にすると、自分の目の届く範囲でだけ笑っていて欲しいと我儘が覗く。
 だからこそ二人だけで過ごす時間は何より平穏で、このまま永く続けば良いと強く思ってしまう。

 しかし勝手な話だ。彼女からの嫉妬には揺さぶられ愛しく思いながらも、自分から彼女に向くそれは嫌悪したくなる。そんな身勝手な理由で彼女の自由を縛ることになるのは本意ではない。
 隊舎に戻った浮竹は千世に出席について聞くと、二つ返事で出席をしたいと返す。彼女の輝くような笑顔を前にしてみればそれまでの葛藤が些末に思え、浮竹もそれにならうことにした。

 結局宴席はつつがなくお開きとなった。あれほど躊躇い思い悩んだ事がいよいよ情けなかったが、しかし誰に漏らしたわけでもない。
 芽を出しかけていた感情にそっと蓋をした。だがそれは一時的に目隠しをしただけのことだ。また何か切欠があれば、おそらく簡単に波立つだろう。
 吐き出す息が白く濁り、冷たい夜に消えていく。雪の舞う中、彼女の足取りを見守っていた。

「雪、このまま積もりそうですね」
「ああ、明日の朝は雪かきかもしれないな」

 千世は空を見上げながら、憂鬱そうに為息を吐く。折角楽しい宴席を終えたばかりで、明日のことを考えたくはないだろう。
 さむい、と小さく呟いた彼女は身震いをすると、懐をごそごそとし始めた。何かが見当たらないのか、立ち止まり袂にも手を差し入れる。

「何か探し物かい?」
「手袋が……片方見当たらなくて。お屋敷を出た時はあったので、その後だと思うのですが……」
「それなら、少し戻って探そうか」

 千世はその言葉に首を振って遠慮するが、浮竹は踵を返し元の道を戻り始めた。毛糸の手袋を片方握った姿が、どうにも切なくて放っておける訳がなかった。
 冬になると、その手袋をつけている姿をよく見た。深めの臙脂色をしており、親指だけが分かれた形をしている。気に入っていたのだろう。
 二人は石畳に目を落としながら、もと来た道を戻る。薄らと雪の積もりはじめる中、目立つはずの色を探すが見当たらない。半分ほど引き返したところで、袖を引かれ立ち止まる。

「もう大丈夫です、早く帰らないと雪がひどくなってしまいますし……ありがとうございます」
「だが……気に入っていただろう」
「そうなんですが……そろそろ穴も空きそうだったので、買い換えようかと思ってたところでした」

 大丈夫ですから、と彼女は浮竹をじっと見上げてさらに念を押す。浮竹を納得させるための適当な言い訳とは分かるが、このまま無理に探し続けたところで彼女は喜ばないだろう。
 片手だけでも十分暖かいからと、左手につけた手袋を彼女は見せる。そう言われてしまえば、頷く他なかった。
 再び帰路を辿りながらふと見れば、千世は袖口からのぞかせた右手の指先を揉んでいる。時折袖口にしまったり、手を握ったりしているが、それでも冷たさを我慢出来ないのだろう。口元ではあ、と息を吐きかける。
 浮竹は少し足を早め、彼女の隣へ並んだ。
 不思議そうに見上げた千世に笑みを向けると、袖口から覗いた指先へと手を伸ばす。一瞬触れると彼女は驚いたように引っ込めたが、それを追いかけるようにして握った。
 ひやりと氷のように冷たくなってしまっていた指先を辿り、手のひらを包む。千世は驚いたように目を見開き、その足を止めた。

「だ、だめですよ」
「だが、温いだろう」

 浮竹がそう微笑むと、千世は眉を曲げて戸惑う。手を振り払われかけたのをもう一度強く握り直すと、彼女は分かりやすく頬を紅くし始める。きっとそれは、寒さが理由ではない。

「誰か来るかもしれませんし……」
「その時はその時考えれば良い」
「え、えっ!?でも……」
「少しこうしていたい」

 今は人通りが無いとはいえ、この先通行人が現れる可能性が無い訳では無い。
 言い訳にも無理があるというのに、堂々と手を引いて進んでいるのは、自分で思っていた以上に、酔いが回っているのだろう。よっぽど、千世のほうが正常に判断ができている。
 一度彼女に触れてしまうと、離れるのが惜しくなってしまった。恋人となった後でも、隊長と副官として過ごす時間の方がすべからく長い。こうして直接触れることは、しばらくぶりだった。
 千世は頬を紅く染めたまま少し笑うと、はい、と一つ小さく答えて再び歩みはじめる。
 雪が互いの肩や袖に薄く積もっていく。それを叩いて落とすこともせずに、足音だけを控えめに響かせ進んでいた。
 彼女に対して、今まで感じ得なかった思いが重なっていくのが分かる。今まさに降り積もる雪のように、一つ一つは微かな欠片でも時が経つほど厚く層を成していく。
 それは愛情だけでなく、藻の漂うような淀んだ感情も同じだけ積もる。その己の濁った感情から目を背けたくなるのは、彼女から向けられる混じり気のない思慕の眼差しを知るからだ。
 彼女の想いに対してただ純粋に返し、与えるだけのことが何故出来ないのかと情けない。彼女を想うほどに、何故か複雑に入り組んでいく。
 しかしいずれは向き合わなくてはならないと理解している。情けなくも、今は未だその勇気が出ずに居た。

「……隊長、此処までありがとうございました」 

 千世の言葉に、はっとする。気づけば彼女の住まう寮と、隊舎へ向かう道とが分かれる丁字路が近い。
 結局誰とすれ違うこともなく、この静けさを二人だけで過ごしていた。
 手を握ってからはほとんど言葉を交わしていない。時折指先を絡ませ擦り合わせながら、ただ石畳に積もる薄い雪を踏みしめ歩いていた。
 名残惜しく、指先が離れる。彼女の髪に僅かに乗った雪を軽く払ってやれば、くすぐったそうに笑った。

「もう少しだけ遠かったら、良かったです」
「ああ、本当に」

 おやすみなさい、と彼女は腰を折り背を向け去っていく。その後ろ姿が闇に紛れるまで、ただ黙って立ち尽くしていた。
 驚くほど心が凪いでいる。何か特別な事があったわけでも、愛を語らったわけでもないというのに。
 この濁りのない思いだけを、彼女に与え続けることが出来るならば、どれほど幸せなことかと思う。まだ指先に残る体温を逃さぬように、袖口へしまった。

(2025.05.22)