さかさゆびきり-11

さかさゆびきり

 

 繁華街からの帰路は、敢えて暗く人通りが少ない道を選んだ。自宅に帰るような気にはならず、大回りどころかこのままでは真逆の方向に向かってすらいる。
 京楽が珍しく俺に向けた不安げな目線が、どうにも忘れられない。妙なことに巻き込まれていないかと、茶化したような口ぶりではあったが本心で言ってくれていたのだろうと思う。
 今夜京楽と会っていたのは、先の丸薬の成分についての結果を聞く為だった。彼女の部屋で拾った薬包紙に包まれた数粒の丸薬が、鎮痛剤であることを確信したかったのだ。
 らしくない事をしたとは自覚している。彼女の部屋に落ちていた、おそらく彼女が常用していると思われる薬を俺はあろうことか持ち帰った。健気にも朝餉を手にして部屋に戻ってきた彼女は、どこか落ち着かない様子で時折部屋を見回していたから、きっと探していたのだと思う。
 申し訳ないことをした。だが、興味を抑えきれなかった。俺が知らない彼女を知ることができるのではないかという期待と、罪悪感を同時に抱え込む不快感にに目眩がしたものだ。
 結果から言えば、あの丸薬は避妊薬だった。京楽は実に訝しげな表情で、どこで手に入れたのかと流石に聞いた。それはそうだろう。何しろ、花街の遊女が常用しているものだという。毎日服用することで月のものが止まり、つまるところ避妊の効果があるらしい。
 丸薬が鎮痛剤かどうかを調べて欲しいと京楽に頼んだのが、一月前になる。詳しい理由も聞かず、時間はかかると思うけど、と受け取る京楽に全く頭が下がる思いだった。だが、まさか京楽も結果が避妊薬とは思わなかっただろう。
 そういう薬があるらしいというのは聞いたことがあった。男性隊士の宴会があれば必ず触れる低俗な会話の中でのことだ。
 だがおかしな話だ。彼女は子が出来ない故に、親族から責められ肩身の狭い思いをしてやつれていた。思い悩んでるのだと、それは彼女自身から聞いていたことだ。
 彼女が避妊薬を服用していた理由が分からず、俺は暫く呆然としていたと思う。頭の中で彼女の様々な言動が蘇り、事実として受け入れるまでに時間が要った。
 今まで幾度となく彼女と密通していたわけだったが、夫との行為も並行して続けているような様子であったのだ。つまり、俺との行為の保険として避妊薬を服用していたというのならばまだ意味は分かるが、夫に対しても同じく避妊しているということになる。
 月のものを止めるのだから、その場だけの効果があるわけではない。俺がその事実を全く理解できないのはそのせいだった。
 彼女の夫も義両親も、一族皆が子を強く望んでいると言っていた。それはそうだろう。瀞霊廷でも指折りの名家の一人息子ともなれば、確実に跡継ぎを焦るに決まっている。
 ならば何故、とおそらく俺が考えた所で分かるはずもないのだ。誰に言うつもりもない彼女の、なにか意図があってのことなのだろう。
 何を思いながら、彼女は俺に抱かれていたのだろう。彼女の隅々までを知ったはずが、今はまるで手が届かない場所にまで行ってしまったように感じる。あの心地よい体温が今はあまり思い出すことが出来ないでいる。
 いっそ夢だった方が、今はましに思える。得も言われぬ感情が渦巻き淀んだ。

 

 

 梅雨時は体調を崩しやすかった。木造の校舎や学生が住む長屋は湿気でどうしても黴が増え、それを吸い込み咳が悪化する。咳のし過ぎで眠れず体力も奪われ、結果、熱を出し長引くのだ。
 天井をぼうっと眺めながら、静かに呼吸を繰り返していた。一時期よりはましになったが、胸がまだひゅうひゅうと鳴っている。乾いた咳は一度出ると暫く止まらず、せめて気管に刺激を与えないようにと、まさに息を殺していた。
 もう授業は一週間出席できていない。板書は戻ってきたら見せてやるから、と見舞いに来てくれる友人らは言ってくれているが、実技授業が殆どだから板書を写したところですぐ皆に追いつけない。
 どうしたものか。熱は下がってきたが、まだとても戻れるような状況ではない。明日の体調にもよるが、これまでの経験からすると、こうして過ごすのもあと三日程だろうか。
 中途半端に体調が戻りつつあるから、早く戻らねば、早く治さねばと気が急いて眠れない。明日あたりから食欲も戻って来るだろうし、しかし急いては事を仕損じる。どうにか眠らねばと目を瞑っていた。が、その時、戸がガタガタと揺れ、目を開ける。
 暫く耳を済ませていればゆっくりと戸を引く音が聞こえ、思わず起き上がる。隙間から覗いていたその姿に、俺は思わず大きく噎せた。
 胸痛にうずくまりながら激しく咳き込む。感染る咳ではないとはいえ、彼女に余計な心配をかけたくない。だが思いとは裏腹に一向に収まらず、布団に顔を押し付け落ち着くのを待っていれば、慌てたようにその姿が俺の横へ駆け寄ってくるのが分かった。
 大丈夫、と不安そうな声とともに、背を擦られている。恥ずかしいほどに情けない。だが、不思議と気分は落ち着いた。咳が落ち着くと、枕元の湯呑みからぬるま湯を喉に流す。鼻に抜ける息は、鉄の匂いがした。

「すみません、お見苦しい姿を」
「驚かせるつもりはなかったんだけど……ごめんね、急に。お見舞いにと思って」

 彼女はそう言い、脇に置いていた鮮やかな青色をした紫陽花を手にして見せる。こっそり訓練場の紫陽花を取ってきたのだと、少し申し訳無さそうに眉を曲げ笑った。
 確かに訓練場の周りには紫陽花が無数に植わっていたが、学院内の草花は許可なく摘むことを禁止されていたのだ。彼女が決まりを破ることなど珍しく、そしてそれが俺の為である事実に、思わず口元が緩み身体が熱くなった。
 だがしかし困ったことに、実は紫陽花があまり好きではなかった。この時期になると昔から必ず体調を崩したからだ。紫陽花が徐々に生き生きとし始めるのを実家の庭や近所で見かけるたびに、子供ながらに憂鬱だった。とはいえ、そんな事を彼女に言えるはずがない。
 せっかく見舞いにと、善意で持ってきてくれたのだ。それにわざわざ、決まりを破ってまで。俺は存外単純なようで、今まで良い印象を抱いていなかった筈の紫陽花の美しさが、今だけは少し分かる気がした。
 あいにく俺の部屋に花瓶なんて気の利いたものはなかったから、適当な湯呑みを彼女に頼んで戸棚から出してもらった。湯呑みに挿さった紫陽花と、それを眺める彼女の顔とを順番に見る。

「俺が休んでいる事、どこで知ったんですか?それに、この部屋だって」
「ああ、ええと……それは、京楽君が」
「京楽……?珍しいですね」
「……実は、今日浮竹君の教室に伺ったんだけれど、その時に」

 どうして、と思わず聞く。今まで俺と日南田さんは、放課後の訓練場でしか会話を交わしたことが無かったはずだ。訓練場で放課後を二人だけでの時間を過ごしていたが、校舎では極稀にすれ違うくらいで目線も合わせない。それが秘密の関係のようで、俺は勝手に気に入っていたのだ。
 だが今日、訓練場に長らく姿を現さない事を不思議に思った彼女は、俺の教室まで足を運んだのだという。女性に対して誰よりも目敏い京楽が、真っ先に彼女を出迎えたのだろう。幸いというべきなのかもしれない。
 俺は彼女との放課後のことを誰にも話したことは無かったが、京楽にだけは薄っすらと悟られている気がしていたのだ。京楽はああ見えて人をよく見ているから、細かい変化に敏い。今回の件でそれは確信に変わってしまったが、かと言って敢えて俺から話すつもりも無い。
 ついでに何か気を利かせたつもりで、俺の部屋を彼女に教えたのだろう。したり顔が目に浮かぶ。
 だが彼女を出迎えたのが他の者でなくてよかったと、心の底から安堵する。彼女の方からわざわざ教室まで会いに来た相手が俺だったなんて事が知られれば、一瞬で学院中に広まり、噂に尾ひれ背びれがつき針の筵だろう。
 それほどの存在だったのだ、彼女は。こうして二人で過ごす時間が増えるほど、それを忘れかける。彼女の存在はこの学院で特別なものだった。その実力も容姿も人柄も、高嶺の花とはまさに彼女のことだった。
 静かな部屋で、すぐ傍に腰を下ろした彼女の息遣いが聞こえる。普段の広い訓練場の一角ではなく、広いとは決して言えないこの部屋の中で二人だけだ。
 手持ち無沙汰なのか、彼女は湯呑みに挿した紫陽花の茎を指先でくるくると回す。それが堪らなくいじらしかった。目を伏せ、少しだけ口が尖っている。話しかけるべきだろう。そう難しいことではない。今日はどう過ごしていたのかとか、昼は何を食べたとか、そういう何でも無い事を聞いてみれば良い。
 いつも彼女が俺に聞いてくれることだ。聞いてくれることが嬉しくて、日々のことを彼女にいつもべらべらと話しては、心地の良い相づちと笑い声に頬を緩めてばかりいた。調子に乗って、大して面白くもない自分の話ばかり。
 俺は彼女のことをもっと知りたかったのだ。だが、彼女のことについて聞くことが、果たして彼女にとって好ましいことなのか分からない。聞かれて嫌な気分になりやしないだろうか、根掘り葉掘り聞かれて気味が悪いと思われはしないだろうか。
 言葉が出る前に彼女の気分を害すのではないかという心配がよぎり、口を噤む。京楽なら、もっと気の利いたことを言えるのだろう。俺は本当に女性を知らない。何が嬉しいのか、何を求めているのか分からない。
 俺は結局、この続く無言にどうすれば良いか混乱して無言を続けた。悪手であるとわかっている。あまりに気が利かない性格に、我ながら失望する。

「浮竹君が居ないと、つまらないな」

 日南田さんが呟いた言葉に、俺はぽかんとしながら彼女を見た。視線に気づいた彼女と目が合い、慌てて逸らして自分の手元を見下ろす。今まさにつまらない時間を提供している自覚があった俺は、彼女の言葉と自分との認識の乖離に固まってしまった。
 思ったより、俺は彼女に好かれているのではないかと、一瞬でも考えてしまった。安直な俺らしいことである。
 たとえそれが、動物とか植物に向けられるような単なる興味のようなものであっても、この部屋で二人きりの中だからというのもあるのだろうが、俺だけ特別に向けられる感情のように今は思えてしまった。
 俺はつくづく単純な男だと、愚かさにため息をつきたくなる。好意を抱く相手に同じく好意を抱いていて欲しいと思うのは当たり前の感情なのだろうが、如何にそれが甘い妄想なのだと、現実を理解するにはまだ未熟すぎたのだ。
 せっかく下がりかけていた熱が上がってくるようだ。心拍数も恥ずかしいほど上がっている。俺が無言でいた事にとうとう彼女は痺れを切らしたのか、もう帰ろうかな、と立ち上がった。
 話しかけなかった事を後悔してももう遅い。寂しく思う権利が無いとは分かっている。

「わざわざ、ありがとうございました――紫陽花も」
「心配で、勝手に来ただけだから……逆に気を使わせてごめんね」
「いや、そんな。とんでもない」

 そこで、嬉しかったとどうして素直に言えなかったのだろうか。たったそれだけのことだというのに、気恥ずかしさが勝ったのだ。口から出かかった言葉を飲み込んで、彼女の背を見送る。扉を彼女が閉める間際、隙間から見えた彼女の横顔が、どうしてかどこか寂しげに見えた。
 また色を失ったようなこの殺風景な部屋だったが、彼女のつける練り香水の甘い香りと、鮮やかな紫陽花の青だけが残った。

 自宅に戻り、ばったりと畳の上に倒れ込んでどのくらいの間呆然としていただろうか。直線距離であればそうかからないはずが、うろうろと数時間瀞霊廷を彷徨い、ようやく帰宅した頃には明け方近かった。
 眠れるはずがなかった。これほどの衝撃を受けたことはない。今までの全てを覆されるようなことだ。
 彼女の痩せた体を抱きながら、可哀想で仕方が無かったのだ。子が出来ぬのは必ずしも女性が原因ではない。それを彼女のせいだと決めつけ、責める親族を俺は軽蔑していた。
 今も変わらない彼女への恋心と思慕の念は、後悔と怒りと哀れみが混ざり複雑な形をしていた。それは彼女の身体に触れる度に濃く濁って、どうしようも無いほど深く俺の中に癒えない傷のように刻まれていく。
 俺は畳の上に倒れながら、昔のことを思い出していた。学院に居た頃、梅雨の時期に酷く体調を崩した頃のことだ。彼女はわざわざ、俺の自室まで訪ねてきてくれたのだ。
 あの時、もっと気の利いたことを言えていれば俺と彼女との今は変わっていただろうか。もう少し傍に居て欲しいと手を引いていれば、今頃彼女は隣にいてくれたのだろうか。
 思い返してみれば、あの時に限らずもっとそういう瞬間は時々あった。彼女は隠しきれていない好意を、俺にだけ漏らしてくれていた。
 それを当時の俺は気付く訳もなく、無下にしていた。きっと無意識で傷つけたこともあっただろう。あまりに女性に対しての気遣いも理解も無かったのだ。言葉の裏を読むとか、空気を読むとか、そういう事が俺は全く出来なかった。
 今も出来ているとは思わない。だが、当時に比べれば多少は学んだ。だが皮肉にもそれを学んだのは、彼女と身体を重ねるその行為の中でのことだ。その眼差しや息遣いやから彼女が求めることを、彼女が口で言うその言葉の裏に隠れた本心を、俺はその少ない情報から必死で読み取ろうとする努力が出来るようになった。
 つまり結局、俺と彼女は遅かれ早かれこうなっていたのだろう。彼女は家を守るため名家へ嫁入りし、俺はそれが悔しくて夢中でしがみつく。肌の熱を知ってしまった俺は、一時の快楽と幸福に朦朧としているのだ。そういう惨めな結末を薄く伸ばして、いつまでも抜け出そうとしない。
 だが、それももう限界を迎えたのだろう。このまま関係を続けていてはいけない。分かってはいたが、ようやく身を持って理解することが出来たように思う。
 一人部屋で天井を見上げたまま、俺は細く長く息を吐き出す。もともと始まっても居ない身勝手な恋が、静かに消えていくだけだ。だというのにあの梅雨の日のように胸が痛かった。

2025/04/16