とある追憶

2024年12月15日
とある

 

とある追憶

 

 彼女との出会いは、遡れば五十年以上前になる。霊術院の生徒であった千世は、二週間の実務研修として十三番隊に配属をされた。
 霊術院の小袖に腕を通した彼女は、他の班の仲間に比べてどこか気怠そうに、退屈そうに見えた。恐らくそれは気のせいという訳では無い。
 事前に配属の生徒たちの情報は受け取っていた。ざっと目を通したところ、彼女は特進学級にもかかわらず成績が芳しくなかったのだ。唯一飛び抜けていたのは薬科のみで、一年時から秀を外していない。しかし悲しいことに進路希望にはあまり影響のない、選択科目であった。
 変わった生徒がいるものだと、顔を合わせる前から印象深く興味があったのだ。特進学級での入学が出来ているということは、つまりある一定の霊力の素養があるということだ。しかも彼女は流魂街の出身であったから、そう簡単に選抜されるものではない。にもかかわらずなぜこうも主要科目の成績が悪いのかと、どのような生徒か実に興味があった。
 実際顔を合わせて見れば、随分聡明で品の良い顔立ちをしているし、最低限の礼儀もある。一見成績が学級最下位とは思えなかったが、どこか虚ろな雰囲気を漂わせているのは少しして分かった。
 他の生徒については席官に付かせたが、彼女については副隊長となってまだ間もない海燕に付かせた。海燕は初め随分面倒くさがったものだが、数日もすればその理由に察しがついたのか随分と楽しむようになっていたと覚えている。
 その間、事あるごとに彼女とは話す機会を設けた。話したのは他愛もないことだ。昼食や夕食の献立の話とか、庭に咲いた花の話とか。気のせいでなければ、彼女の表情は日増しに柔らかく、よく笑うようになっていたように見えた。
 二週間の実務研修を終える頃には、見違えたと感じたものだ。海燕との間でどのような指導があったか詳しくは聞いていない。しかし彼女の入隊時に霊術院から受け取った修了時成績を見るに、少なからずは良い影響ではあったようである。
 あれから随分月日が経った。かつて海燕が居た場所に今彼女が居るというのは、当時を思い出せば想像も出来ないことだった。あの頃の千世を知る海燕がもし今の彼女を見たら、驚くどころか笑い転けるだろうか。

 玄関の戸ががたがたと揺れる音が聞こえた。そろそろかと湯を沸かし始めたと同時だったから、なかなか勘が冴えている。
 自宅で過ごすのはいつぶりだろうか。時折帰ってはいたものの、庭の様子を見たりするくらいで寝泊まりはもっぱら雨乾堂であった。いつも賑やかな声が遠くに聞こえていたから、この家の静けさにあまり慣れていない。
 玄関まで出迎えれば、千世が死覇装姿に襟巻きを何重にも巻き、恐縮した様子で俯いている。予想した通りの縮こまった様子に浮竹は笑った。
 休日なのだから普段着で来てくれて構わなかったのだが、結局その格好が落ち着いてしまうのだろう。それは浮竹も同じであった。結局隊長羽織が一番丈夫で風を通さないし、何より着慣れているから落ち着くのだ。

「いらっしゃい」
「お……お邪魔いたします」

 本来ならば、こうして彼女を招くのは数日前になる筈だった。だが、急遽彼女が休日返上で欠員の補充要員として任務に向かうことになり、今日へ予定変更となったのだ。
 あの日、彼女の色々な感情がせめぎ合いながらであろう報告は、申し訳ないと思いながらつい微笑んでしまった。副隊長としての責務と、個人的な事情との間で揺れ動く彼女の感情があまりに手に取るように分かって可笑しかったのだ。
 きっと自分を納得させることで必死だったのだろう。どうにか彼女の中で折り合いを付けてきた努力が分かる、あの複雑な表情を思い出しては、その日一日自然と口元が緩んだ。
 よほど楽しみにしてくれていたのだろう。浮竹とて同じであったが、しかし五名もの欠員が出てしまったのでは、それは致し方ない。結局彼女は流魂街と現世を行き来することになったようで、帰ったのは深夜近くだったと翌朝聞いた。

「この辺りは閑散としてただろう」
「はい、初めてこの地区へ来ましたが大きなお屋敷ばかりで……静かですね」
「周辺に上級貴族の別邸が多いんだよ。お陰で人の気配があまり無いのが少し寂しい」

 客間の襖を開け、千世を通す。火鉢は予めいくつか用意をしていたから、外に比べれば大分空気は温まっていた。今日は風も吹いているから余程冷えたのだろう。
 彼女に伝えた通り、この付近は閑静な住宅区画としてよく知られていた。其の実、花街から身請けされた貴族の愛妾が多く囲われている地域でもある。だから別邸とは言いながらも、表札のかかっていない屋敷は多い。時折艶やかな着物を纏った女性と素朴な女中を見かけ、夜になればぼんやりと所々で灯りがともる。
 だがそこまで事情を説明する必要はないだろう。彼女のことだから相当周囲には警戒をしながら来たのだろうが、あまりの静けさに多少なりとも拍子抜けをしたに違いない。
 火鉢の近くで手を炙るようにしている千世は、遠慮がちに客間を目線だけで見回している。生活感がまるで無い部屋だから、特別面白くもないだろう。

「今まで何かされていたんですか?」
「いいや、特には。千世がそろそろ来るだろうかと思って、湯を沸かしていたくらいかな」
「あ……ありがとうございます……」

 恐縮しきりの彼女を居間に置いて、台所へと向かう。湯気を吹き出すやかんを持ち上げ、茶葉を入れた急須へと湯を注いだ。少し蒸らした後湯呑みへ注げば、良い色をしている。立ち昇る爽やかな香りを吸い込みながら、用意していた最中と共に盆に乗せた。
 居間へ戻ると、千世は障子を開け日が良く当たる縁側に腰を掛けていた。勝手にすみません、と立ち上がりかけた千世をそのまま待たせる。盆を持ったまま、浮竹は彼女の横へと腰を下ろした。
 そういえば冬はこの時間になると、陽の光が丁度差すのだった。板の間はほんのりと暖かく、風は冷たいが心地よい。湯呑みと最中を差し出せば、彼女は頭を下げ嬉しそうに頬を緩ませた。

「学院生だった頃、隊に研修に来た事があっただろう」
「ああ……懐かしいですね……二週間志波副隊長について回っていました。学生相手に、結構厳しかったんですよ」
「はは、そうだったか。どう指導をしているかという事までは聞いていなかったんだよ」
「それはもう手厳しくて……今思えば有り難かったのですが、当時は必死になるしか無く……でも、時々隊長がお話しかけてくださったのが嬉しくて、頑張れました」

 そうか、と浮竹は微笑む。あの時徐々に変わっていったように感じていたのは、気のせいでなかった。随分時を経てしまったが、当時の自分の判断が間違っていなかった事を知りひどく安堵している。
 他の生徒に比べ、多少気にかけすぎかとは思っていたのだ。だが、当時の彼女のままでは折角の素養を無駄にしかねないと感じた。結果、図らずも海燕とは飴と鞭の効果のようになったのか。それが今の彼女に繋がっているのかと思うと不思議なものだ。
 見立ては間違っていなかった。入隊してからの彼女の弛まぬ努力もよく見ていた。後輩が彼女を追い抜くように続々と昇進し、悔しい思いもした事だろう。そんな中で慕っていた海燕が突然去り、しかしそれでも決して折れず一層の努力に励んでくれた姿は、浮竹にとってどこか救いのようにも思えた。
 二年前の任官式の際、海燕の遺した副官証を受け取った彼女の決意に満ちた表情は、忘れることはないだろうと思う。
 千世、と隣の彼女を呼ぶ。庭の雪吊りを終えた松を見上げていた彼女は、はっと表情を明るくさせて浮竹へと顔を向けた。贅沢とも言えるほど、穏やかな時間である。

「どうされましたか」
「いや。君を呼びたくなった」
「……揶揄わないでください」
「揶揄ってなんて無いさ。昔を思い出していたんだよ」

 歳のせいだろうか。昔を思い出して、今の姿とつい重ねてしまう。その成長は尊く誇らしくて、そして同時に愛おしくも思う。
 浮竹は手を伸ばし、彼女の頬に触れた。風に当たっているせいかひやりと冷たいが、撫でたくなるような滑らかな肌である。ついその心地を楽しみたくなって、親指の腹を滑らせる。
 千世は緊張した面持ちで、しかし頬を徐々に色づかせていく。指先は頬から徐々に顎の線へと下がり、つうとなぞる。なぞりながら上向かせるように手前へ滑らせれば、千世はその瞳を期待に潤ませるようだった。
 わずかに開いた唇を塞ぐように重ねる。その唇はふっくらと柔らかく、その心地が堪らず甘く唇で食む。啄むような口付けを味わいながら、己の中で湧き出す欲求をどうにか抑え込むことに必死であった。
 先日、彼女の身体の感触を知ってしまったのが恐らく良くなかった。二人で過ごす約束が先延ばしになってしまったことを彼女が可哀想なほどに残念がっているから、その代わりを与えてやりたくて、その背後から抱きしめたのだ。
 華奢な身体だったが死覇装越しでも分かる女性らしい肉付きの柔さと、体温がそれからずっと忘れずにいた。そんなつもりで抱きしめた訳ではなかったが、結果的にそれは己の欲深さに気づく出来事になってしまうとは思わない。
 口付けは、時間としては十秒にも満たなかったと思う。だが、これほど満たされるような時間は無かった。ようやく手に入れたのだと、彼女の蕩けたような表情を見つめながらようやく実感する。

「……吃驚しました」
「逃れる隙はたくさんあった筈だよ」
「そ、れは……確かにそう、でした……」

 そうして目を逸らす彼女に、浮竹はくすくすと笑う。やはり彼女の素直さはつくづく飽きない。気恥ずかしさを誤魔化すように最中を頬張った彼女の横顔を浮竹は目を細めて眺める。
 いつもは不気味なほどにも思うこの家の静けさが、今は二人の時間を際立てるようで存外悪くなかった。

(2024.12.15)