とある朝まだき
ここ数日、そわそわとしてずっと落ち着かない。
今日は休日だというのに、早朝に目が覚めてから二度寝をするような気分にもならなかった。普段の休日は昼近くまで惰眠を貪っている千世にとって、前代未聞の事態である。
意図せず早起きをしたとはいえやることも無いから、まだ日が昇り始めるくらいの薄暗い時間だというのに、寮の台所で燭台の薄明かりを頼りに朝食を済ませた。それでもまだなかなか空が明るくならず、考えあぐねた千世はとうとう身支度を整えて隊舎へと向かうことにした。
このまま自室に居たところで、永遠にも思える待機時間を過ごすだけだ。それならば執務室で書類に向かっていた方がよっぽど良い。幸いにも、まだ未処理の書類はたんまりと山を作っていた。
彼との約束の時間は、正午を指定されている。彼の自宅については、区画と番地が書かれた紙を昨日雨乾堂へ日報を提出した際に渡された。足を踏み入れたことは無いが、各隊の隊長や貴族が住居を構える閑静な住宅地だと聞き及ぶ地域である。
まさか彼の自宅に招かれることになるとは思わなかった。だが、考えてみれば休日二人で出かけられるような場所などこの瀞霊廷にはほぼ無いと言って良い。
流魂街には、丁度今の時期ならば紅葉の名所や、秋冬の味覚が楽しめる行楽地はあるようだが、外出申請を二人揃って提出するというのはあまりに不自然だろう。誰かと鉢合わせてしまう可能性だってある。
となれば、閉鎖的な場所で過ごす他無く、選択肢として自宅が挙がるのは至極当然だろう。
しかし彼の提案を受けた瞬間は、ひどく動揺したものだ。先日松本に色々と吹き込まれたからというのもある。だがまさか、交際が始まって間もない時期にそんな事を求めるような筈はない。まだ手を触れただけの関係だというのに、まさか。
突然のことに混乱して硬直していれば、彼は慌てたように変な意味ではないと弁明を始め、更に慌てた千世は男性との交際が初めてである旨をうっかり零した。我ながらあまりに愚かであったと思う。
その時の彼がどのような反応であったかは、もはや覚えていない。思い出したくもない。記憶から消してしまいたいほど恥ずかしくて堪らなかった。
ようやく濃紺を押し上げて、朝日が昇り始めた頃。執務室に到着した千世は明かりを灯し、事前に休憩室から拝借していた炭を火鉢へと移す。手を揉みながら暫く火に当たっていた。
ぼうっと炭の明かりを眺めながら、考えるのはこの後のことばかりだ。彼とは入隊以来の付き合いではあるが、思えばそう長い時間二人だけで会話をするということは無かった。年に二度ある面談が最長かというくらいで、業務上だからと取り繕うことは出来ていたが、終始緊張は収まらなかった。
だから、耐えられるだろうかと不安になる。彼を自分一人だけが占有するような時間を、果たして素直に楽しむことは出来るのだろうか。昨日の彼の穏やかな笑みを思い出す度に、息が苦しくなって仕方がない。
一つため息を吐き出し、ようやく火鉢の前から重い腰を上げる。椅子に腰をかけると、昨日帰宅する前に広げていったままの書類に早速目を通し始めた。
襖がガタガタと揺れたと同時に、勢い良く開かれたのはそれから間もなくのことだ。在室の確認すらする余裕がないのか清音は髪が乱れており、千世は突然のことに驚いたまま固まる。
「千世さんお休みじゃなかったっけ!?」
「そ、そうなんだけど……ちょっと仕事を思い出したからそれまでと思って……」
「そうなんだ……」
清音はそう呟いた後、千世の事をじっと見つめている。その視線はどこか縋るような、何かを求めるように潤んで見えて実に居心地が悪い。
どうしたのと、とうとう聞いてみれば、彼女は待っていましたとばかりに途端にばたばたと千世の机まで駆け寄った。まるでおやつを見つけた子犬のようだと思った。実は、と口を開いた彼女の言葉に、千世は思わず目を見開く。
「食あたり!?」
「そう……なんだか、昨日の夕食の柴漬けがちょっと古かったみたいで……殆どは回復したんだけど、五人が今日はもう駄目らしいの。千世さんは?食べてない?」
「うん、私は昨日蕎麦屋に行ってたから……清音さんも平気だったんだ」
彼女も昨日は姉の勇音と夕食を共にしていたため、影響はなかったという。
一人二人ならば当日内勤の席官を当てがってどうにでもなるが、流石に五人が同時に欠員となると当番変更などでどうにかなる問題ではない。
「千世さんって今日は予定……あるよねえ……」
「えっ……」
「そうだよね……あたしは早番だったんだけど遅番の通しに変更して、可城丸さんが内勤だったのを早番にしてもらってるから……だからあと一人手を貸してくれたら、なんとか回るんだけど……無理だよねえ……」
彼女の困り果てた顔に、千世はぎくりとする。そう頼まれるとは、もうこの文脈から分かりきったことだった。
普段ならば、休日の予定といえば四番隊の裏山に薬草を摘みに行ったりそれを寮の庭で干したり、古本屋へ行ったりする程度だから喜んで出勤するだろう。だが、今日だけはどうしても外したくない予定がある。
そういう時に限って、こういう不測の事態が起こるものなのだ。副隊長という立場であることを考えれば、二つ返事で承知しなければならないのだろうが、今日ばかりはなかなか頷けない。
清音は縋るような視線を向けたまま、身体を乗り出し千世に無言で詰め寄る。千世は暫く視線をうろうろとさせていたが、とうとうがっくりと項垂れた。
「任務詳細を貰えれば……」
「ありがとう!!いやー助かったあ……ありがとう本当に!」
食い気味の清音は、机に乗り出し千世の肩を掴むと、がくがくと揺らす。
隊士の負傷や体調不良による欠員の穴埋めは、上官の義務である。そうは分かっていても、今から畳の上に倒れたいほど落ち込んでいる。しかしこれは仕方がないことなのだ。何の落ち度もないのに、食あたりで寝込むことになってしまった隊士たちの方がよっぽど不憫である。
必死で自分を納得させながら、浮竹に何と伝えようかと考えれば自然と眉間に皺が寄った。
「千世さん、ほんっとにゴメン……!お休みなのに……」
「清音さんは悪くないよ、私は全然大丈夫だから」
「ああっ、もうあたし行かなきゃ……じゃ、今日ホントにありがとう……!後で詳細は小椿から連絡させるから!」
彼女も急遽任務となった身だ。招集の合図か、鳴り響く伝令神機を手に清音は慌てたように執務室を飛び出していった。
千世は呆然としたまま、ぴしゃりと閉められた襖を眺めていた。こんな事ならば約束の時間まで家でごろごろとして過ごせば良かったか、とやはりどうしても頭は考えてしまう。
しかし、隊の緊急事態はこれで何とか切り抜けた。これで良かったのだ。きっと浮竹は十分なほどに理解をしてくれるだろう。後は千世の心持ち次第だ。彼に伝えている最中で心が折れてしまわないかというのが、今一番の不安要素であった。
「……という訳でして」
「そうだったか……俺も昨日は外で済ませてしまったからな……皆は大丈夫かな」
「五名以外は、皆業務にあたれるくらいには回復しているようですよ」
一通り状況の説明をすると、浮竹は心配そうに眉を曲げた。
雨乾堂を訪ねると、彼は最初随分驚いた様子だった。休日のはずの千世が死覇装姿で訪ねてくるのだから、何事かと思うだろう。しかし説明の最中でもう話の結末は分かったようで、仕方がないねと頷かれてしまった。
「せっかくのお約束だったので、申し訳なく……」
「なに、また日を改めれば良いんだ。申し訳ないなんて思わず、任務に集中するんだよ」
楽しみにしていた、とその言葉が今はどうしても伝えられない。その言葉を今口からこぼしてしまうと、せっかくつけた折り合いを無下にしてしまう。
個人的な感情と、この隊の副隊長としての責任感との攻防が続く中、彼の笑い声にはっと現実へ引き戻される。
「どうかされましたか」
「いや、悪い悪い。なんだか、千世らしいと思ってね」
「私らしいですか……?」
千世は彼の言葉に疑問符を頭に浮かべる。自分らしいことなど何かした覚えはなかったが、彼は何か納得したように微笑んでいて、その表情は満足気にも見える。
もしや、恋人よりも仕事を選ぶ薄情な女だと思われただろうか。恋人よりも仕事を選ぶ薄情さが、千世らしいということだろうか。
しかし確かに、千世は席官となる前から討伐任務については特に情熱を燃やしていた。特に遠征の班が組まれる際は進んで名乗り出るようにし、通常任務でも早めに終われば近い地点での任務を追加で受ける事も厭わなかった。
副隊長となってからは、机仕事ばかりとなり任務へ赴くことは少なくなった。だからこそ時折舞い込んでくる任務には喜び勇んで向かっていたものだ。彼もそれはよく知っていることだろう。
だがそれはそれとして、何を差し置いてでも任務を優先させるという事ではない。もちろんそれは時と場合によるのだが。特に今日はここまで苦しい思いをしながら彼との約束を断っているのだ。表面上必死で取り繕っているが、内心今すぐ倒れたいほどである。
「隊長より任務の方が大切とか、そういう事ではないですよ!?……いや、任務も勿論大切なのですが……隊長とのお約束も同じくらいというか、またそれは別の大切さというか……」
「ああいや、大丈夫。勿論分かっているよ」
引き続きくすくす笑う彼の理由がどうにも分からず、千世は眉を曲げた。とその時、胸元に入れていた伝令神機が鳴り響く。恐らく清音が言っていた、仙太郎からの呼び出しだろう。
後ろ髪を引かれる思いながら、慌てて彼に頭を下げて雨乾堂を出ようかという時のことだ。
千世、と呼ばれたあとすぐの背後から柔らかく包まれる。背にぴったりと張り付く体温に全身の毛が逆立つほど驚くが、声を上げる事が出来ない。尚も伝令神機は鳴り続けているが、まさかこの状況で応答できるはずもなかった。
この事実をこの目で確認したいが為に振り返りたくて仕方が無いが、しかし緊張で身動きが取れない。確かなのは彼の腕が背後から巻き付くように回り、つまり抱きしめられているという事である。
その腕が、二人の間のわずかな隙間をさらに埋めるように、柔く締まっていく。心臓がうるさいほど早鐘を打っていることに、気付かれやしないだろうか。
「た、隊長、あの……」
声は震えている上に掠れて、裏返る。伝令神機の着信音がぶつりと途切れた。
ふふ、と微笑む微かな鼻息が聞こえるほどに彼の顔が近い事が分かる。今彼の方を振り返ったらどうなってしまうのかと、出来るはずもないのにあらぬ想像が勝手に巡り、余計に頭の中は混乱する。
「わ……私、もう行かないと……」
「いってらっしゃい」
耳元で囁かれた声が鼓膜をくすぐった。心地よく響く優しい低音は、初めて知る感情を呼び起こす甘さを孕んでいる。どくどくと鳴り続ける心臓は、一向に落ち着く気配が無い。
間も無く離れた背中がすうっと寒い。意を決して振り返ると、彼は微笑みながら手をひらひらと振っていた。あの一瞬の甘い時間は一体何だったのかと思うほどに彼の笑顔は爽やかで晴れやかで、千世の熱を持った頭は俄に戸惑う。
が、その困惑も再び鳴り出した伝令神機の着信音で吹き飛んだ。流石に二度目を無視すれば、仙太郎の怒号で直々に呼び出されてしまうだろう。深々と頭を下げ、雨乾堂を飛び出す。
渡り廊下を駆けながら取り出した伝令神機を、危うく池に落としかけるほどに指先は震えていた。
(2024.12.14)