とある昼下がり
もう師走を迎えるというのに、春のような日が続いている。確か先週までは木枯らしが吹く寒さだったはずだが、一転、冬を飛ばしもう桜の蕾でも膨らみそうな日和であった。
窓から差し込む陽にうつらうつらとしたくなるような昼下がりに、千世は何度目か分からない欠伸をひとつする。
「こんなに暖かいと、眠くなられてしまうのも分かります」
「さっきから、本当に申し訳ありません……」
千世が恐縮すると、朽木は手元の帳面を纏めながら品よく笑った。我ながら、あまりにひどい欠伸の数に呆れていたところだ。噛み殺そうとしても、どうしても湧き出して口から勝手に溢れてしまう。
今日は年末の大掃除に向け、朽木には手を借りていた。この一年で立派な層を部屋の隅で作り上げていた、書類の整理をお願いしていたのだった。不備がないかの最終確認を行いながら、月毎、種別に纏める。これが兎に角地味ながら手がかかる。
夏が終わったあたりから危険を感じ徐々に手をつけ始めていたものの、通常業務や時折舞い込む急な任務などが立て続けに重なった。気付けばもう年が終わろうとしていたのだから驚きである。
流石にこの状態のままでは年を越せないと、清音と仙太郎に頭を下げ朽木の内勤の時間を借りたのだった。
去年までなら断られていただろう。しかし今年は下期に他隊からの異動があり、不足していた分の人員の補填がようやくされたのだ。長年人員不足には悩まされていたのだが、しつこく雀部へ訴え続けた甲斐があった。
師走というのは例年現世、流魂街と虚の活動が活発になるため隊舎はがらんとしている事が多くなる。人手が足らないと身も心にも余裕がなくなり、ぎすぎすとする事も少なくなかったのだが今年は実に皆穏やかで良い雰囲気を保っていた。
そんな平穏も相まってか、欠伸が再び漏れ出す。ちら、と朽木に目線をやるとしっかりと目が合い、気まずく肩をすくめた。
「日南田殿、仮眠を取られてみてはいかがでしょうか」
「ごめん、さっきから何回も……でも、仕事は進んでいるので……」
「ああ、いえ、そういう事ではなく……このところお疲れのようですし、あまり無理されて体調でも崩された方が心配ですから」
天へ伸びる竹のように真っ直ぐで、窓から差す日だまりのように暖かな彼女の言葉に千世は思わず胸が痛む。ありがとう、と罪悪感を目いっぱいの感謝の気持ちで包んで返す。朽木は少し眉を曲げて笑った。
この欠伸の数と、ぐったりと疲れた顔は寝不足が原因ではあるものの、何も彼女が心配してくれているような業務過多によるものではない。もちろん手を付けなければならない書類の量は増えているが、去年に比べれば全く大したことは無いのだ。
つい先日自分の身に起こったことが未だに信じられないでいたのだ。どうにも夜になると、その光景が頭を巡って離れない。いくら目を閉じてじっと布団に埋まっていても、まるで眠れない日々が続いていた。
――と、いうのも。
「この決裁書ですが、浮竹隊長の――」
「は、はい!?」
「えっ、ええと……浮竹隊長の押印が無いものがありまして……」
「あ、ああ……押印……は、後で隊長に回すから、どこかに分けて置いて貰えれば大丈夫」
まるで授業中に居眠りを指摘された生徒のように、きれいに背筋を伸ばした千世は、誤魔化すように貼り付けた笑顔を彼女へ見せる。朽木は疑問符をうっすら浮かべながらも、わかりました、と小さく頷き再び手元へと顔を戻した。
浮竹隊長、というこの隊ではごく普通に聞く名前を耳にしただけで飛び上がるなど、おかしな話である。おかしな話だとは分かっているのだが、今はどうにもその名前に敏感になっていた。
と、いうのも――。
「浮竹隊長、この頃お加減がとても良さそうですね」
そういえば、と思い出したように朽木はそう雑談を切り出す。千世はまた勝手に背筋を伸ばしながら、至って落ち着いた様子で、そうなんだと頷く。
「はい、皆言っておりますよ。この所暖かいからでしょうか?それとも、本当に何か良いことがあったとか……」
「良いこと……?」
「ああ、これは虎徹殿が仰っていたことなのですが。良いことがあった時の浮竹隊長は、どうやら存外分かりやすいらしいのです」
朽木は、まるで噂話でもするかのように少し声を落とす。良いこと、と聞きわずかに千世の心拍数が上がる。
「浮竹隊長はもともと穏やかな方ではいらっしゃいますが、その表情や口調や仕草にそこはかとない色気が出ると」
「……そ…そこはかとない色気……?」
「はい。私はあまり分からないのですが……虎徹殿は大変浮竹隊長のことを尊敬していらっしゃいますから、その僅かな変化にもよく気づかれるのでしょうね」
「なるほど……でも、良いことって、どんな良いことなのかは分かるの?」
「それは分からないようです。何やら美味しいおはぎを召し上がられた後にも、そのそこはかとない色気を出されるようなので」
「その情報一気に怪しくなったような……」
ううん、と朽木は至って真剣な様子で腕を組む。良いこと、と聞いて心当たりが無いわけではないが、しかしそれを、彼にとっての良いことと決めるのなど甚だ厚かましい。
一通り雑談をして満足をしたのか、黙々と書類を捲り始めた朽木を見習い、千世も手元に視線を落とした。しんとした部屋で筆を走らせながら、ぼんやりとまた例の光景が頭に浮かぶ。寝不足の元凶である。
と、いうのも。浮竹は入隊時から長らく千世にとっての上官であったが、つい先日からその関係性は少し形を変えることになったのだった。
業務上での関係だけでは無くなった。つまるところ、恋人となった。あれが千世の行き過ぎた妄想幻覚でないのならば、の話である。
入隊時から千世は長らく実るはずのない想いを寄せており、報われないことは自分自身が強く理解していたはずだった。だが、人生とは何が起こるか分からないもので、一生仕舞い込んでおくと決めたはずの想いをうっかり彼へ伝えることになり、あろうことかそれを受け入れられてしまったのだ。
一週間ほど経った今でも混乱が続いているのは、致し方ないことだろう。前提として諦めていたはずの想いが、まさか受け入れられたのだ。彼に手を取られた時は夢かと思ったものだ。いや、夢にしてもたちが悪い。目覚めた時の絶望を思えば。
何度かその場で確認をした。気を使っているのではないかとか、実は具合が悪過ぎて正しい判断が出来ていないのではないかとか。勢い余って想いを告げてしまったものの、もともと諦めていた恋だから断られたところで今更傷つきはしない。そうしつこく伝えたが、彼は眉を曲げてくすくすと笑いさらに手を強く握った。
想いを伝えておきながら、それを受け入れられている状況にもかかわらず、そんなはずはないと食い下がる姿に困惑した様子であったことを覚えている。
あの時手を握られた強さと、温かさが未だに残っている。自分だけに向けられた困ったような笑みの穏やかさと、同じ思いだと返してくれた低く柔らかな声が蘇り、一瞬にして訓練場を百週走り込んだくらいの心拍数まで跳ね上がる。
いっそ、夢ならばよかったと思うほどだ。彼と交わした会話の数で一喜一憂していた頃の方が、平和だったのかもしれない。すれ違った際の単なる挨拶であっても、今は何か特別なものに思えて緊張してしまうのだ。
とはいえ、まだあれ以来二人きりで過ごすということもないし、言及することもない。もしかしたら白昼夢だったのかもしれないという可能性は捨てきれない。むしろそれで良いとすら、思ってしまうことが恐ろしい。
一方的な報われないをしているという状況が、日常だったからだろう。そうすぐに受け入れようということが難しい話なのである。
そう静かに突っ伏していれば、日南田殿、と朽木の不安げな声に呼ばれ顔を上げた。
「日南田殿……本当に大丈夫ですか、そんなに頭を抱えて……頭痛ですか」
「ああ、うん、大丈夫……ちょっと、考え事をしていて」
「そうでしたか……私で何かお手伝いできることがあれば、仰ってください」
彼女の言葉に、千世は再び胸が痛くなる。ありがとう、とそのあまりに純度の高い思いやりに胸を打たれながら、己の情けなさに内心天を仰ぐのだった。
(2024.12.08)