夢は夜に見る

おはなし

 

 暖かな日差しに伸びでもしたくなるような日が続いている。朝夕はまだ冬を思い出すような冷え込みが厳しいが、昼間は眠たくなるほど心地よい。書類の山に埋もれながら、何度うたた寝をしてしまおうかと思ったか分からない。
 弥生月に入り、溜まっていた今期中に処理をしなければならない書類と、来期の予算やら目標やらと過去と未来に追われる日が続いている。どれもこれも、寒さのあまり先月一月近く体調を崩していたのが悪かった。
 取り急ぎの書類や業務は千世や清音たちが処理をしてくれていたから助かったが、年度末資料や来期資料となれば流石に自分が手を付けなければならない。熱も下がり咳も落ち着き、ようやく復帰したのが五日程前のことだ。
 ほぼ雨乾堂から出ること無く寝泊まりし、自宅には勿論帰れていない。部屋を出るのは厠と風呂と食事の受取くらいなものだった。
 一ヶ月予定がずれ込んでしまっているのだから仕方ない事だが、座り仕事続きで腰も痛ければ背も固まっている。出来ることならば按摩にでも世話になりたいところだが、その時間すら惜しいほど切羽詰まっていた。
 毎年、余裕を持って終えられるよう大雑把ながらも予定を組んでいた。というのも先代の隊長がこの年度末の時期に書類に追われている姿を散々見ていたから、自分はそうなるまいと強く誓っていたのだ。
 とはいえ、初めからそう上手く行くはずもない。隊長へ就いて暫くははこの時期、先代と同じように眠れない日が続いたものだ。必要な書類が出揃うのがこの三月中旬という事を考えると致し方ない。むしろこの三月を期末とする事が誤りなのだと思うほどである。
 しかしそれから百余年と過ぎれば嫌でも慣れるものだった。恒例となっている年末年始の体調不良を考慮しても余裕を持って提出できるよう予定を組んでいたはずなのだが、失敗した。今年は年末年始の気温が高く、油断したところで二月の豪雪であった。寒気に嫌な予感を覚えた翌日から案の定高熱にうなされる羽目になった。
 このままでは期初の隊首会に出席できるかすらも怪しい。総隊長へあらかじめ頭を下げに行く事すら頭に浮かび始めているのだから、いよいよ追い詰められていた。
 しかし、いっそ懐かしいと思えば良いのだろう。就任して間もなくの期末を思い出す。まだ今より少しは若かった当時と比べれば体力の多少の衰えが否めず、時の流れを感じるものだった。

「隊長、すごい眉間の皺ですよ……何かお手伝い出来ることがあれば仰ってください」
「ああ……うん。ありがとう。いつも悪いね、本当に」
「そんな、謝らないでください」

 茶を届けに来てくれた清音は心配そうに眉を曲げる。その表情を見ながら、申し訳なくて浮竹は少し身体を萎めた。いくら期限に追われてるとはいえ、この状況が皆に心配をかけている事は分かっていた。
 だが皆理由を分かっているからか、邪魔をしないようにとの配慮のようで極力顔を出さないようにしてくれているらしい。席官が一日に二度ほど食事の前後で、まるで生存確認のように恐る恐る訪ねてくる。
 恐らく誰が行くかと皆で決め、順番に来てくれているのだろう。またいつ倒れるかと、皆の不安を痛いほど感じている。
 今の所はこの山になった書類をどうにかせねばならないという気力で保っているが、提出が終われば力が抜けてまた寝込むことになるような予感もしている。そしてその予感は高確率で当たる。
 何しろこの数日間全く気を抜く暇が無く、張り詰め続けて疲労の蓄積も限界に近い。皆が生存確認で訪れる度に香を焚いてくれたり、茶菓子の差し入れをくれるから多少誤魔化されている気もするのだが。
 換気してくれていた部屋の襖を閉める清音の姿をぼうっと眺めていれば、その視線が気になったのか彼女はその手を止める。

「ど……どうされましたか」
「悪いが、千世を呼んでくれるか」
「は、はい!千世さんですね、今呼んで参りますので!」

 ばたばたと駆けて行った清音をぼうっと見送ったあと、ふと我に返る。呼んでどうするのかと思ったのだ。
 別に何か用事があった訳では無い。恐らく彼女も彼女で、彼岸が近づき増加している虚討伐に伴う報告書の山に埋もれているに違いない。復帰してから数日間、彼女とほぼ顔を合わせておらず想像でしかないのだが。
 体調を崩していた二月の殆どは四番隊の病棟に世話になっていた。回復してからはその後自宅に帰り療養となったが、千世は現世任務や合同演習などが重なったようで、何度か合間を縫って顔を出してくれたがそれきりだった。
 つまりひと月以上まともに会話を交わしていないことになる。何度か書類の確認で顔を合わせることはあっても、忙しいのか用件が済めばすぐに去ってしまう。浮竹も手を離せないのは同じではあるのだが、寂しい気持ちが無い訳では無い。
 彼女との交際が始まってから、一週間二週間ほどの期間会わない事はあったが、ひと月以上というのは初めてのことかもしれない。だが本来隊首と副官の会話といえば、その程度だとは分かっているのだ。必要な時に業務上必要なことをやり取りする程度だと。
 とは言っても、前提として彼女にはそれ以上の感情を向けてしまっている。恋人としての関係が満たされていれば、何も隊舎では隊首と副官以上の関係を求める必要はないはずだ。
 ほぼ無意識で千世を呼ぶように清音に頼んでしまったのは、つまりそのせいだろう。体調を崩すまでは毎日のように自宅で顔を合わせ、他愛ない話題で二人して笑っていたのだ。今では遠い昔のように感じる。
 今更ながら、千世を呼んでもらった事を僅かに悔いていた。決して手が空いた訳でもなく、刻一刻と時は過ぎているというのに、彼女が間もなく来るのではないかと思うと妙に緊張して文字を目で追っても頭に入らない。
 その時、近づく足音が耳に入り思わず背筋を伸ばす。浮竹を呼ぶ彼女の声に、一瞬息を止めゆっくりと振り返る。どうぞ、と声を掛ければ彼女は簾を避けて顔をのぞかせた。

「ご無理されてませんか」
「ああ、いや……まあ、無理は仕方ない。自業自得だよ」
「私も何かお手伝いできれば良いのですが……すみません」
千世千世で忙しい時期だろう。気持ちだけで嬉しいよ」

 実に単純なものだと思う。眉間に深く刻まれていたはずの皺が緩み、締まりの無い表情になっているのが分かる。存外落ち着いた様子だったことに彼女は安心したのか、不安げな表情を緩めた。
 あちらこちらに紙や帳面が散乱していて情けないしだらしがないが、今は気にしている余裕がない。その中央に腰を下ろした千世は、目を丸くしながらあたりを見回している。前回彼女が訪れた頃から一層荒れた様子に面食らっているのだろう。
 浮竹は文机から彼女の方へと身体を向け、緩んだ表情のままその姿を眺める。特に言葉をかけるでもなく、目をぱちぱちとさせる千世の姿をただ視界に入れていた。そわそわ落ち着かない様子で、うろうろと視線を泳がせる。

「何か急ぎの御用があると聞いたのですが」
「……急ぎの?」
「はい、清音さんからそう聞いたので……」

 ああ、そうだったと浮竹は手をぽんと叩いた。
 実は別に用がある訳では無いなどと伝えたら、彼女は帰ってしまうだろうか。それとも、とうとう不可解な言動を始めたと不安に思うかもしれない。しかし顔が見たかったとか、話したかったなどとそんな女々しい本心を伝えるような空気でもない。
 如何しようかと浮竹は暫く無言で千世を見つめていれば、彼女は不思議そうに眉を曲げる。ぱちぱちと瞬きを繰り返す彼女の困り顔が可愛らしくて、ついまた眺めた。あの、と不可解そうな彼女をおいで、と手招きする。猫を呼ぶような気持ちに似ていた。彼女は引き続き不可解そうに少し考えたようだったが、頷き膝を擦って少し前に出る。
 まだ手を伸ばしても少し遠いくらいの距離である。もう少し、と浮竹は言う。彼女は浮竹の真意の分からぬ言葉に少し戸惑ったようだったが、渋々頷く。膝を擦って進みながら、阻むように散らばる書類を重ね、丁寧に脇へ避ける。もう目前へと近づくと、浮竹は身体を乗り出し彼女のその手を掴んで引く。
 体勢を崩した彼女の身体を支え抱き止め、慌てたように顔を上げた千世に浮竹は微笑んだ。その微笑みに何かを察したのか、逃げ出そうと背を向けた彼女の腰のあたりを掴んで引き戻す。そのまま膝の上へと乗せ身動きが取れないように、腕の中へと収めた。
 流石に千世も諦めたのか、力を抜いてぐったりとその身体を浮竹へと預ける。腕に包んだ体温と柔らかさに、思わず笑みがこぼれる。この春の陽気と相まって、抱きかかえたまま横になりたい程に気持ちが良い。彼女の首元に鼻を寄せれば、練り香水の甘ったるい香りがくすぐり、胸いっぱいに満たされる。
 今までの疲労が嘘のように今は身体が緩んだ。久しぶりに肺の奥まで空気を入れたような心地を覚えながら、この単純な身体の構造に呆れたくなる。

「このまま眠ってしまおうかな」
「隊長、それは色々と問題が……」
「冗談だよ。気が済んだら仕事に戻るさ」

 彼女は何か言いたげだったが、巻き付けた腕へ少し力を籠めると、喉元まで出かかった言葉を小さなため息に変えて吐き出したようだった。
 おそらく初めは顔を見たかっただけだった筈が、実際顔を見て言葉を交わせば気が抜けた。そこまでの自覚は無かったが、このじわじわと追い詰められるような息苦しさに参っていたのだろう。
 とは言っても、顔を見て声を聞けば満足するかといえばそういう訳もなく、もう少しと求めてしまう。今日は朝から籠もりきりだったのだ、あと数分くらいは抱えていても良いだろう。
 出来ることならばこのままのんびりと一日を過ごしたいものだが、そうは問屋が卸さない。視界に嫌でも入ってくる紙と帳面の山に、浮竹はぐったりと頭を垂れる。
 いくら千世を腕に抱いて現実逃避に励んだところで、ただ時が進むばかりで現状の何の解決にもなっていない。少なくとも、一時的な疲労や心労は緩和されたように感じるが、それによってこの積み重なった帳面が減るわけでもない。
 自然と漏れた深いため息に、千世は不安げに眉を曲げて振り返る。情けないとは分かっているが、迫る期日を前にしてどうしようもなく憂鬱であった。

千世、何か……もう少し頑張れるような言葉をかけてくれないか」
「頑張れるような言葉ですか……?」
「自分が悪いとは分かっているんだが、ほとほと疲れてしまってね。いい大人が、励まして欲しいんだよ」
「それは、ええと……私でよろしければ」

 彼女は考えたように宙を見る。この情けない状況に付き合わせている事を申し訳なく思いながらも、その素直さに付け入っている自覚はあった。

「お仕事が終わったら……ええと……じゃあ、私からご褒美とかどうでしょうか」

 ご褒美、と浮竹は小さく繰り返す。とても簡単で良い響きだ。期日までに仕事を納めることが当然であるものの、景品をぶら下げられたならば気の持ちようも変わる。まるで子供だましだが、だからこそ今まで思いつきもしなかった。なかなか良い案だと浮竹は微笑む。
 とはいえ、褒美と急に言われてもすぐには浮かばない。菓子などはよく差し入れや見舞いで貰うし、好きなものは普段から自分でも買っている。何か欲しいもの、と思考を巡らせるがなかなか思い浮かばない。もともと物欲というものが強い方ではないのだ。

「えっ、あ……あれっ!?駄目でしたか!?」
「いいや。何をくれるのかと思ってね、考えていた」
「ああ、ええと、そうですね……萩乃屋の高級おはぎとか、桜花堂の最上級くず餅とかを考えていましたが……」
「そうだな……それも勿論良いんだが」

 どちらも思い出しただけで頬が落ちそうになる程美味な一品だが、この疲労を乗り越えた褒美というには少し物足りない。彼女は少し振り返って、嬉しそうに笑う。

「隊長がお好きなもので良いですよ。お金は気にせず、決められてください。たまにはご馳走させてください」
「そうか……何でも良いのかい?」
「何でも……ええ、はい。ご褒美は良いものにするほど、きっと期待で頑張れますから!遠慮しないでください」

 やけに千世は張り切った様子である。何が良いかと一緒になって考える彼女のつむじを見下ろしながら、その健気さが可愛らしくて頭を撫でた。柔らかい髪を指で梳き、毛先まですべらせる。練り香水と、石鹸の香りが鼻をくすぐると、どうしてか腹の奥がむずりとした。
 浮竹は背後から名前を呼ぶ。半身を振り返らせ見上げた千世に、浮竹は顔を寄せる。びく、と彼女の身体は強張ったが、逃げようとはしない。睫毛が触れそうな程に鼻先を寄せ、ゆっくりと瞬きをする。彼女の瞳がゆらりと潤んで揺れた。
 ぽかんと小さく開いたままの唇に軽く触れる。は、と息を呑んだあと彼女は逃げるように身を引こうとした。この距離で目線を交わらせていながら、驚くなんて白々しいと浮竹は笑う。からかわれているとでも思ったのか、頬を染めた千世はじたばたとしたが、暴れるほどに巻き付く腕の仕組みに気づいたのか、やがて大人しく力を抜いた。
 ふっくらと柔らかい唇には、紅がもうほぼ残っていない。忙しい中で、紅を差し直す時間も無かったのだろう。業務の呼び出しと思って合間を縫って顔を出してくれただろうに、愛玩動物かのように腕に収められ、甘えているのか甘えられているのか、好きにされていることには違いない。
 申し訳ないなと思いながらも、疲労感から開放されるような解ける心地が堪らなく心地よい。その僅かに残った紅を拭ってやるように甘く唇で食んで舐めた。
 暫く振りの感触に思えた。腕に抱える彼女の身体の柔さや温さも十分心地が良かったが、唇の柔らかさと絡み合う舌のぬるりと淫靡に粘膜同士の混じる感触は、他に代えがたい快感がある。甘い唾液を舐め合い、吸い付く。舌を深く差し入れればびく、と震える彼女の身体の強張りを腕に感じる。
 その反応が続き、重なるほどに調子に乗って図々しく、増長していくのが分かる。もう終わらせようと何度か思うが、懸命に応えようとする彼女の姿に欲が溢れ、中々止めることができない。
 衣服越しの体温では物足りず、頬に触れた手のひらを首元まで滑らせ、死覇装の下に手を差し入れ肩から鎖骨をなぞる。なめらかで柔らかい肌は熱を持ち、心臓はどくどくと期待に早鐘を打つ。このまま合わせを崩すことなど造作のないことだったが、寸前で呑み込み、手を止め唇を離した。
 目をぱちぱちとさせる千世は、拍子抜けをしたのか、状況が未だに飲み込めていないのかはわからない。理性が寸前で勝った事に安堵しながら、浮竹は自らの乱れた襟を正し、髪を軽く梳いて後ろへ流す。

「な、何なんですか、今の……!?」
「だって、ご褒美をくれるんだろう」
「えっ、いや……ご褒美は、お仕事が全部終わったらという話で……今のは……」
「ああ、勿論。分かっているよ」

 まさか、この程度でご褒美の前借りとでも思ったか。頭の上に疑問符を無数に浮かべる彼女を膝から下ろすと、浮竹は傍らの紙束を手に取りぱらぱらと捲る。
 のそりと立ち上がった千世は崩れた死覇装を丁寧に直しながら、相変わらず腑に落ちない表情だ。きっと自分で言ったことを覚えていないのだろう。

「ご褒美の期待が高くなるほど頑張れると、聞いたんだが」
「は……えっ」

 彼女はようやくこれまでの意味を理解したのか、頬をかあっと染めて固まる。
 彼女の言葉に、その通りだと浮竹も合点したのだ。これだけの書類を例年の半分以下の期間で終わらせようというのだから、それなりの期待感が持てる褒美でなければ納得がいかない。
 失礼します、と部屋を出ようとする彼女は振り返ると、精一杯むすっとした表情をして見せる。しかし隠しきれない頬の紅さとその口元の緩みに、満更でもない様子がわかる。彼女が去った後の簾の揺れを眺めながら、ふふと笑みが漏れた。
 まだ唇に残る甘い感触と、身体に残る体温がじくりと奥で疼く。気分転換というには少し深すぎただろうが、お陰で気力は満たされていた。十二分なほどの期待を胸に秘め、この重なる書類を見てため息が漏れる隙が無い。
 きっと男というものはいくら歳を重ねたところで、欲しいものを前にすると驚くほど幼い。情けないほどに単純な男のさがを、一人笑うのだった。

 

夢は夜に見る
2024/04/10