おやすみなさいの祈り

21日

 

おやすみなさいの祈り

 

 立ち昇る湯気を暫く見上げていた。湯船の淵に頭を載せて呆然としていた。かれこれ半刻ほどはこの態勢のままでいる筈だ。もうそろそろ上がらなくては身体がふやけそうなものだが、あまり動く気にはならず、ややぬるくなってきた湯の中で石のように固まっていた。
 今朝はまだ空が暗いうちから目が醒め、そのまま二度寝が出来なかったのだ。いつもならば休日の朝など二度寝、三度寝が当たり前だったが今日はどうにも朝から頭が冴えて仕方ない。昨晩の寝付きも決して良いとは言えなかったが、かと言って寝不足のような疲れは無い。
 少し身体でも温めれば眠くなるだろうかと、寝室をこっそり抜け出し湯を張った。確かに冬の痺れるような寒い朝に、熱い湯船は芯まで染みる。年寄りくさく溜息を漏らしながら浸かる湯は実に心地が良かった。
 しかし、かと言って眠気が訪れる訳ではなかった。湯船にどっかりと浸かりながら、頭を巡るのは彼との昨晩のやり取りである。
 ひと月前に彼から伝えられた結婚の申込みに、ようやく昨晩答えたのだった。もっと伝える場所も、伝える言葉も良いものをと悩んでいたはずなのだが、彼におやすみと微笑まれたあと、それはほぼ衝動のようだった。
 毎晩繰り返されていた挨拶でなぜ今更とも思うのだが、いつも感じていた幸福がこの先もずっと変わらぬ事に気づいたからなのだろう。時の許す限り、眠る前に挨拶を交わす相手がずっと彼であってほしいと思う。そして願わくば、彼にとってもその相手が自分であれば良いと思う。
 これからを約束した夜にしては、あっさり浮竹はすぐ眠りについてしまった。すうすうと穏やかな寝息を聞きながら、時折その寝顔を眺めたりして居たが結局あまり眠れず、そして今この早朝の朝風呂へと続いている。
 きっと頭がまだ興奮しているのだ。ただひたすらに憧れていた相手との未来が、今は交わろうとしている。ただ姿を見れるだけで、名前を呼ばれるだけで良かったはずが、今はこの先を約束し合う相手にまでなってしまった。夢だとしても贅沢なくらいだろう。
 此処に辿り着くまでに色々とあった事には違いない。甘い日々ばかりではなく、喧嘩も叱られたことも数しれず、破局の危機も無かったという訳では無い。その度に彼へ抱く気持ちが更に濃く、強く大きくなるのを感じていた。
 これ以上大きくなるはずがないと思っても、その限界を何度でも超えるのだから恋とは恐ろしいと思う。

「私どうなるんだろう」

 これ以上に彼を好きになる事が恐らくこの先も続くのだろう。それを思うと、自分がどうなってしまうのかと不安になるのだ。恋の期限は三年、などと聞いたことはあるがそれは嘘だ。恋をし始めてゆうに数十年を超えているというのに、未だに衰える気配はない。それにきっと、この先も変わることはないのだと言い切れる。
 今だって彼の事を思い出すだけで胸が熱くなって息苦しい。驚くことに、片思いの頃と何も変わっていない。
 そう悶々と湯気を目で追っていれば、流石にのぼせてきたのか頭がぼうっとする。きっと浮かれて脳天気なことばかりを考えていたせいだろう。
 その時、がたがたと脱衣所から物音が聞こえる。へ、と咄嗟に千世は一時間ぶりに身体を起こし、戸の方を見た。

「朝風呂かい。珍しいね」
「あっ、えっ!?す、すみません……!」

 顔を洗いに来ただけだと戸の外で言う彼に、千世は思わず湯船の中で姿勢を正す。もしかして、先程の独り言を聞かれていただろうか。まさか彼がそこに居るとは思わず、はっきりと呟いてしまった自覚があった千世は自然と心拍が上がるのを感じていた。
 彼があの言葉を聞いていなかったのならば、それに越したことはないのだ。だがもし彼が戸の外で聞いてしまったとして、あの一言だけではどう捉えられるか分からない。結婚に対する動揺か、それとも後悔のように聞こえてしまうだろうか。
 表情も何も見えないままでは中々動くに動けない。せめて静かに耳をすませていれば、何かをいくつも取り落としているかのような音が聞こえ、不安が漂い始める。うわ、と彼の驚いた声と同時に何かが盛大に崩れ落ちるような音が耳に入り、千世はとうとう慌てて湯船を飛び出て戸を開けた。
 戸棚から小物や重ねていた手ぬぐいやらを落とした様子の浮竹は、千世の姿を見て慌てたように手元の手ぬぐいを渡す。咄嗟に前を隠したものの、そのまま逃げ出そうとする浮竹の腕を掴んで引き止めた。
 暫くその状態のまま、無言で二人は固まっていたが千世が彼をおずおずと呼ぶ。聞いてましたか、と小さく呟けば、彼はこくりと顎を僅かに引いた。

「まだ不安があるのなら、俺はいくらでも待つよ」
「違うんです、隊長……さっきの独り言は……」
「結婚を急いでる訳じゃないんだ、千世の気持ちの整理が出来て、本当に俺と――」
「ち、違うんですって!」

 千世は浮竹にしがみつく。身体の水分が、彼の寝間着にじんわりと染み込んでいくのが分かるが、しかし今離してしまってはそのまま遠くへ逃げ出されてしまう気がした。
 やはり聞いていたのだ。独りで朝風呂に浸かりながら、どうなるんだろう、などと物憂げに呟いていれば誰だって何か悩んでいるのだろうかと思うに決まっている。さらに昨晩あの出来事からの今朝なのだから、それは彼を不安にさせても仕方ない。
 千世は恐る恐る彼を見上げれば、不安げに眉を曲げた彼の目とかち合う。あの、あのと中々言葉にする勇気が出ないでいると彼の眉尻は更に不安げに下がっていくから余計に焦った。

「隊長を、これ以上好きになったらどうしようって!今もこんなに大好きなのに、結婚なんてしたら、もっと好きになってしまって、どうしようもなくなるんじゃないかと、そういう、その……不安というか、何というか……す……すみません……」

 自分で口にしながら、あまりの恥ずかしさに消えてなくなりたくなった。誤魔化している訳でも何でもなく、ただ真実を述べているだけなのだから恥ずかしい。更に全裸であることが余計にこの滑稽さに拍車をかけている。
 洗面所に充満する湯気の中、火照った身体は冷めていくどころか更に熱くなっていく。はあ、と諦めたように熱い溜息を吐き出し彼を見上げれば、思わぬ様子にえっ、と声を上げた。
 顔を真赤にした浮竹が驚いたように目を丸くして見下ろしており、呆れたように額を抑えて息を吐く。相当恥ずかしい事を口にした自覚のあった千世以上に羞恥を感じている様子に、千世はそのままぽかんと固まった。

「君は、何というか……偶に、どうしようもなくお馬鹿さんだな」
「お、おば……お馬鹿……!?」
「大丈夫、褒めてるんだよ」

 浮竹がそう言うのなら、と千世は渋々頷いていれば、眉間のあたりを彼の人差し指でぎゅうと押された。そういうところ、と呆れたように呟いた彼がなんだかおかしくて、千世はくすくすと笑い出す。この先もこの人と過ごし続けるのだと思うと、湧き上がるような笑みが抑えられなかったのだ。

2023/12/26