例え話だけ上手にできる

2023年12月25日
21日

 

例え話だけ上手にできる

 

 へ、と思わず息が漏れた。実に情けない、間の抜けた表情をしていたと思う。
 どういう顔をすればよいか、どんな言葉を返せば良いかが咄嗟に分からなかったのだ。突然のことに理解が出来なかった、とかではない。時折焦燥に駆られるほど、待ち望んで仕方がない言葉だった。
 謹んで、お受けいたします。と彼女の声も態度も実に堅苦しく息苦しそうで、昇進の内示でもしていただろうかと一瞬混乱しかかった。それが先日の結婚の申し込みに対する答えだと気づいたのは、彼女と呆然と見つめ合って数秒後のことだ。
 彼女からの答えを待ち望んでいたというのに、その後の事は何も考えていなかった。結婚を申し込むという行動を起こした事で、自分の中で一段落でもしてしまったのだろう。その後が肝心だというのに。
 思い出してみれば、彼女に結婚の意志を伝えたのはかれこれ一月近く前になる。暫くは一日が果てしなく長く感じたものだが、少し経てば変わらぬ毎日になっていた。勿論忘れるはずはない。ただ求婚をしたことが夢だったのではないかと思うほど、彼女との間に流れるすべてが変わらなかったのだ。
 だが、ただ関係性を変えたいがために申し出た訳ではなかった。この先伸びる未来に彼女が傍に居て欲しいと、半ばそれは願いのようなものだったのだと思う。そして願わくば、彼女も同じ思いであって欲しいと望んだ。
 それはあくまで現在の関係の延長線上に婚姻という過程があったというだけで、それを目的に彼女との交際を続けていた訳ではなかった。むきになって主張するような事ではないのだが、この年での結婚となれば焦りだの何だのと邪推される事も多い。しかし何しろ、結婚という言葉を意識した事がこの人生で一度として無かったのだ。
 立場上、そして年齢を考えればそろそろ、と周りにせっつかれる事は度々あった。だが一向に気は進まず、気づけば持ちかけられる縁談を断る事に抵抗も罪悪感も無くなっていた。
 相手を幸せにする自信が無かったのだと思う。だがそれは今、千世に対しても同じことを思っている。でありながらも彼女を伴侶として望んだのは、その不安を含めて彼女と歩む未来が数多の選択肢と比べても最良であると判断したからだった。つまり実に短絡的で衝動的で、自分本意な思いの丈であった。
 隊長、と彼女は少しむくれたように口をぎゅっと結び、浮竹を呼ぶ。ああ、悪い。動揺するあまり暫く無言で呆然としていた事を彼女に苦笑いで謝った。
 彼女が不意に答えを口にしたのは、さて眠ろうかと枕元の灯りを落とそうかという時だった。身体を起こし、布団を抜け出しおもむろに正座する。そしてはにかんだ表情で、ひと月前に浮竹が伝えたことを覚えていますかとおずおず呟いた。
 覚えているも何も、彼女の答えを日々、今か今かと待ち望んでいたというのに。まさかそれに気づかぬほど鈍感ではないはずだ。だが彼女自身も、答えを伝えた事実を徐々に噛み締め動揺しているのか、目線をうろうろと泳がせている。
 浮竹も彼女に倣って正面に正座しながら、彼女の動揺した姿に目尻を下げる。

「沢山考えてくれたんだろう」
「答えは、決まっていたのですが……どうお伝えしようかとずっと悩んでしまって……」

 しかしそれがまさか、就寝直前の寝室になるとは誰も思わないだろう。だがせめて、灯りを消す前で良かった。さもなければ、真っ暗闇の中で彼女の答えを聞かされそれこそ翌朝には夢とでも思いそうなものだ。
 行灯の淡い橙色に照らされる彼女のはにかんだ表情に、浮竹は微笑む。自然と握りしめていた拳をほどきながら、驚くほど汗が滲む手のひらが僅かに震えていた。無自覚であったことにほとほと情けなく呆れたくなったが、しかしこの歳で訪れた転機への緊張と思えば、それは普通なのかもしれない。

「本当はもっと、素敵な場所とかでお伝え出来れば良かったんですが……今、急に伝えたくなりました」

 ふふ、と息を漏らすように幸せそうに笑った千世を見ながら、まるで同じだと思った。
 本当はもっと素敵な場所で、思い出に残るような言葉で思いを伝えたかった。この人生できっとたった一度の出来事ならば、何一つケチをつけられないような思い出にしてやりたいと思うものだろう。
 だが実際、実に衝動的であったことに驚いた。元々器は波なみ満たされていて、その最後の一滴がいつ落ちて溢れるかというところだったのだと思う。その最後の一滴が、あの時居眠りから目覚めて一番はじめに見た、彼女だけがぽつんといる光景だったのだろう。
 徐々に血液が身体を巡る感覚と共に、実感が湧き始めているのが分かる。そして同時に頭を過ってしまうのは、この後の報告や公的な手続きの事であった。

「親しい人達に報告をして、ああ、いや……まずは元柳斎先生からか」
「えっ、総隊長からですか……!?」
「総隊長殿は俺たちの直属の上司に当たるんだ、まずは話を通さないと」

 確かに、と千世は渋い顔をして頷く。隊長格の婚姻手続きとは色々と面倒だと噂に聞いている。まず初めに総隊長へ話を通して間違いはないだろう。浮竹は腕を組みぶつぶつと独り呟き、ううんと唸る。

「祝言はどうしようか。俺はあまり派手でなくても、親しい人達を呼べれば良いと思ってる」
「ええ、はい……私も同じです」
「会場は此処を使うか、それとも料亭を借りようか。あとは日取りと衣装と……」

 あまり大々的に開くのは恐らくお互いの希望ではない。招待の人数を絞って、小ぢんまりとした祝いの席くらいがきっと二人らしいだろう。浮竹は少し部屋を見回し、寝室から客間まで襖を取り払った広さを目算する。恐らく二十余名くらいの膳は置ける広さは取れる。
 日取りも今から良い日を決めないとならない。それに合わせて彼女と呉服屋に足を運んで、色打掛の仕立ても頼む必要がある。まだ先の話にはなるだろうが、しかしきっとあっという間だ。楽しみなことほど、すぐに過ぎ去ってしまうものだ。

「子供は何人欲しい。俺もそうだったが、兄弟は多いほうが良い」
「は、はい……それは、私もそう思います……」
「この寝室なんてすぐに狭くなってしまうだろうな……早めに次の家を考えようか。確か南西の地区にもう少し広い土地が売りに出されていてね」
「えっ!?ち、ちょっと待ってください、色々と話が早すぎます……」

 千世の言葉に、浮竹はぴたりと固まる。いや、確かに。まだ互いに結婚の意志を確認し合ったばかりの段階だというのに、流石に子供の話や新居の話までは早すぎたか。だが、自然と彼女と過ごす未来の光景が、頭に浮かんで仕方ないのだ。
 浮かれているのは否めない。せめて少し落ち着かせるように、浮竹は深く息を吐き出す。少し背を正すと、彼女の膝の上に置かれていた手のひらへと手を伸ばす。びく、と固まった手を体温でほぐすように握りながら、くすぐったそうに笑った彼女と目線が交わった。
 これからこの先、時が許す限り共に過ごすことになるのだろう。まだ拘束力など持たない二人だけの口約束ではあったが、果てのない未来を夢見るには十分なほどに明瞭で牢固たる誓いだった。

2023/12/25