まぼろしを整える

21日

 

まぼろしを整える

 

 甘しょっぱくて香ばしい良い香りがする。ぐつぐつと鍋の中で具材が煮立つ音に、火を弱めると布巾を手にその蓋をそっと持ち上げる。もくもくと瞬く間に立ち上った湯気に思わずおお、と声を漏らしながら、この土間に満ちた香りに思わず口を緩ませた。
 がたがたと鳴る玄関の音に千世は一瞬振り返り、火を止める。そろそろ帰ってくる頃だろうと思っていた。流しで軽く手を洗い、前掛けで拭う。急ぐような足音が徐々に近づき、暖簾を潜って現れた姿に千世は微笑んだ。

「おかえりなさい」
「ただいま……あれ?まだ帰ってきてないのかい」
「今日は朽木隊長の所でお習字の教室だって、朝あの子が言ってたじゃないですか」

 千世の言葉に、そうだったと十四郎はぽんと手を打つ。
 週に一度度開かれる朽木家での子供向け習字教室に、今月から参加させていたのだ。元々はルキアの自宅へ遊びに行った際、偶々訪れていた白哉が気まぐれに手習いを見せてくれた事が切欠だったのだという。子供達がそれに大喜びした姿に手応えを感じたのか、朽木家の一室を教室用に改築し、瀞霊廷の子供向けにと始まった。
 だから今日は夕方朽木家へ送った帰りに夕飯の買い出しをして、掃除を済まして夕飯を作りながら珍しく一人きりで十四郎の帰りを待っていたのだ。まだ交際中の頃や、新婚の頃を思い出す。
 普段は日中の塾と稽古が終わると、一度帰ってきたかと思えばすぐ友人達と遊びに飛び出し、夕方にはへとへとで帰宅して居間で倒れるように寝ている。だがこの時間になると、帰宅する父の物音に飛び起きて玄関まで迎えに行くのだ。
 それが今日は無かった事が、十四郎は寂しかったのだろう。白哉か、どこか悔しそうにも聞こえる声で腕組み呟きながら、土間に降りると下駄を引っ掛け千世の背後へと立った。

「ぶり大根じゃないか」
「あなたが食べたいってこの前仰ってたから」
「覚えててくれたのか……美味そうだな」
「美味しいですよ。味見しますか?」

 する、と頷いた十四郎に、千世は匙を渡そうとするが彼は受け取ろうとはせず、ただ口を丸く開く。千世は一瞬考えたが、誰の目があるわけでもないと、その匙で鍋の中の大根を僅かに割り、汁と一緒に乗せた。
 湯気が上がる匙を彼の口へ運ぼうとするが、しかし彼は顔を僅かに背ける。えっ、と千世が声を上げれば、熱い、と少し不満そうに眉を曲げる姿に思わず固まった。千世の顔が火照るのと比例するように、十四郎の口角は徐々に上がっていく。
 別に意地を張る理由もないからと、千世は観念して自分の口元に匙を持って行くとふうふうと息を吹きかけた。十四郎も満足したのか、しかめっ面で千世の差し出した匙を笑顔で口に入れて、幸せそうに咀嚼する。

「君は変わらないね」
「な、何がですか」
「その反応だよ。結婚をしても子が生まれても、ずっと照れてくれるんだな」
「それは、だって……隊長が……」
「ん?俺はもう隊長じゃないよ」

 からかうように鼻先で笑う彼の顔が近づき、千世は思わず逃れるように隙間から流し台の方へと移動する。
 彼が隊長を退いてから随分経つというのに、焦ったり慌てていると昔のように彼を呼んでしまう事がある。それを彼は楽しんでいるのか、二人だけになると敢えてそう仕向けるきらいがある。
 誤魔化すように着替えてきてください、と彼に伝えながら洗いかけの鍋を持ち上げた時、背後にぴったりと張り付く熱に千世はぎくりと身体を反応させた。予想をしていなかったといえば嘘になるが、後ろから腕がするすると腹へと回り込み、抱え込まれるように抱きしめられる感覚に身体は勝手に熱くなっていく。
 普段はこの台所で子と一緒に夕飯を作る事も多い。今はこの屋敷に二人きりとはいえ、だからこそこの明らかに下心が詰まった手つきに、心臓が飽きること無くばくばくと早鐘を鳴らす。
 まるで羞恥を耐え忍ぶように俯いて固まる千世だったが、追い打ちをかけられるかの如く名前を耳元で囁かれ、素っ頓狂な声を上げる。どうしようもない千世の様子に十四郎はくすくすと笑いながら、柔く優しく身体を抱きしめる。

「そろそろあの子に、弟か妹をどうかな」
「そ、それは、さ……授かりものですから……」
「ああ、勿論。仰る通りだね」

 まさかそれをこの場での了承の言葉だと思ったのか、彼の手がゆっくりと裾をたくし上げる感覚に背がぞくぞくと痺れる。だめ、と呟いてみるが恐らく逆効果なのだろう。一段と荒くなった吐息に恍惚としていれば、突然大きな鐘の音が鳴り思わず飛び起きる。

「あ、あれっ、あなたもうお迎えに行かないと」
「お迎え……?」
「あの子の、お迎え……?」

 あの子、と繰り返した後にぽかんとした様子の浮竹を千世は寝ぼけ眼で見上げ、そのまま無言で暫く互いに瞬きを繰り返していた。夕方を知らせる鐘の音が庭から聞こえている。
 飛び起きたそこは台所でもなく土間の上でもなく、寝室の畳の上であった。身体には毛布が一枚掛かっていて、浮竹が心配そうに傍へ来て腰を下ろす。隣には本が一冊落ちており、読書を楽しんでいた途中で、いつの間にかうたた寝してしまっていたらしい。
 夢か、と千世は思わず呆然と呟く。こんなにもはっきりした夢を見たのはいつぶりだろうか。夢の内容を思い返しながら、我ながらなんと都合の良く幸せな夢を見ていたのだろうかと赤面したくなる。だからこそ、夢というのだが。

「どんな夢を見ていたんだ?」
「い、いえ……なんだろうな……あんまり……というか全然、何も覚えてないです」
「そうか……その夢の中じゃ俺のことをあなた、と呼んでるようだったが」

 ぎく、と千世は浮竹の言葉に視線をすっと逸らす。一瞬は落ち着いていた心臓が、再びあの光景を思い出してばくばくと打ち鳴らし始める。夢だというのに、夢にしてはあまりに現実味のある幸福感だったのだ。
 だがそれを彼に悟られてしまうのは照れくさくて、今更と思いながらも、覗き込む顔から逃れるように毛布を被って丸まった。

2023/12/24
お題箱ありがとうございました!