悪意の次にあまいもの

21日

 

悪意の次にあまいもの

 

 ごめんごめん、と千世はぐったり机に突っ伏している姿に声をかける。徳利が既に二本脇へ避けられている様子にぎょっとしながら、彼女の正面へと腰を下ろした。

「遅ぉい!」
「ご、ごめんね、ちょっと捕まっちゃって……」

 ぶすくれている彼女を適当にあしらいながら、顔を出した男性店員にぬる燗をお願いする。
 おしぼりで手を拭いながらお品書きを眺めるが、やはりいつもと比べて値が張った。珍しく大衆居酒屋ではなく、個室の居酒屋でゆっくり呑みたいと今夜は松本からの折角の誘いだったのだが、予定外の事で少しばかり遅れてしまったのだ。
 間もなく届いた徳利からぬるい酒を注ぎ、松本をどうにか起こして強制的に乾杯をすれば、ようやくへの字の口を元に戻してくれる。

「何に捕まってたのよ。仕事?浮竹隊長?」
「ええと……何というか……決闘みたいな……」

 は、と松本は千世の言葉に気の抜けたような声を漏らす。それが果たして適切な言葉であるか、千世も不安ではあったのだが、他に表現のしようがなかったのだ。
 千世に決闘もとい真剣勝負を挑んできたのは、今年席官へ上がったばかりの女性隊士である。歳は千世より少しばかり離れるが、学年としては一つ下である。霊術院を二つ飛び級で卒業したとの事で、入隊前は話題になっていたことをよく覚えていた。
 更に言えば良家のご息女で、品もあり容姿も端麗となれば向かうところ敵なしといったところである。勿論前評判の通り彼女は千世よりも早く席官へ上がり、席位も年々上がっていった。が、千世がたまたまある年、運良く続けざまに重要任務での勲功を立てたところ、彼女を抜かして副隊長へと昇進した訳である。
 どうやらそれがあまり面白くなかったのか、つっけんどんな態度を取られているとは度々認識していたのだ。だが今になって突然、勝負を挑まれることになろうとは思わなかった。
 そそくさと帰宅しようと執務室を出たところを呼び止められ、話があるからと道場へと連れられたと思えば防具と竹刀を渡された。呆然としていれば、彼女はその品のある立ち姿のまま、千世に宣戦布告をしたのである。

「それで何、決闘を申し込まれたの」
「そう……でも、今日は乱菊さんとご飯の約束があったから、他の日程でって伝えたんだけど……逃げるのかとか、怖いのかとかやたら煽ってくるから、もうしょうがないと思って」
「へえ……で、勝ったの?」

 まあ、と千世は頷く。確かに彼女は上位席官ともあって、一瞬ひやりとする場面はあったものの、数分も経たないうちに面打ちで一本を取った。松本を待たせているから急いでいた事もあって、その後そそくさと帰宅しようとしたのだが、面を取り彼女の悔しげに歪む表情を見れば流石に足が止まった。
 話を少し聞いてみれば、このところ浮竹の隣に居る千世の姿を見るとどうしても苛立つ気持ちが収まらなかったのだとぽつりと零すのだ。えっ、と思わず顔をしかめそうになったが、ぐっと飲み込み、無言で頷き促した。
 どうやら彼女は隊で過ごすうちに、浮竹の傍に立ち、より近くで役に立ちたいという思いが日を追う毎に強くなっていくのを感じていたのだという。ならば今その場所にいる千世に勝負を挑み、実力を見せつけ認めさせることで、副隊長の立場を自ら明け渡して貰う事を思いついたらしい。
 なんとも良家の箱入り娘らしい、純粋と言うべきか抜けていると言うべきか、力の抜ける告白である。怒りも湧かなければ悲しみが湧くでもなく、むしろ微笑ましささえ感じるほどであった。

「……つまりその子、浮竹隊長が好きって事じゃないの」
「うん……でも、本人はその自覚がないみたいだから……」
「無自覚で?千世の事蹴落とそうとしたの」
「蹴落とそうというよりは、認めて明け渡してもらおうと思ったみたいだけど……」
「だからそれを蹴落とす、って言うんじゃないの」

 ううん、と千世は腕を組み唸る。そんな悪意あるようでは無かったのだが、つまりはそういう事になるのだろうか。
 しかし以前であれば、彼に特別な感情を抱く他の女性に対して非常に敏感になっていた筈だが、今はそこまでの大きな感情の揺れは覚えない。彼の思いに対しての確固たる自信が、今の千世にはあったからなのだろう。そしてその明らかな根拠は、まだ記憶に新しい。
 そろそろ、彼に返さなくてはならないと思っていたのだ。
 これからの時間を共に過ごして欲しいという、彼からの結婚の申し出に対して、言葉がなかなかうまく紡げずかれこれどれほど経っただろうか。いい加減に痺れを切らされてもおかしくないくらいだが、彼は穏やかに、普段と変わらぬ様子で待ってくれている。
 まだそれは、目の前の松本も含めて他の誰にも伝えては居ない。彼の言葉は千世の中だけで何度も反響し、胸を熱くする。自然と漏れ出た甘い吐息を慌てて咳で誤魔化すと、向いた彼女の視線に対し、苦し紛れに牛蒡の煮物を箸でつまんだ。
 松本は尚も千世をじっと凝視したまま猪口へと波々徳利の中身を注ぐと、一息に飲み込んで心地よさそうに大きく息を吐く。

千世、アンタ浮竹隊長と何かあったでしょ」
「何かって、……なに、なんで」
「うーん、何だろ?良いコト。だって、いつもの千世だったらもっとプスプス怒るじゃないの」
「……いっ、いや……べ、別に……何も無いけどな」
「ふうん……」

 彼女の何か見透かしたようなにやけた顔に、千世はすうっと視線をずらす。
 彼女はどうにも勘が良くて困る。いや、千世の態度があからさますぎるのか。つまんだ牛蒡の煮物を口に運んで、奥歯でごりごりと噛み砕く。顎全体で感じる歯ごたえが、少し回り始めた酔いと相まって気持ち良い。

「まあ知らないけど、その余裕が続く間に、何とかしなさいよね」
「……よ、余裕……?」
「油断と隙って、一瞬で狙われて掬われるんだから。特にアンタは、バカ素直だから」
「バカ素直って……それは悪口?」
「あーん!ちょっと、もう一本カラになっちゃったんだけど!千世、お兄さん呼んで!」

 カラの徳利を頭上で揺らす彼女を宥めるように、千世は立ち上がり廊下へと顔を出す。人が通るのを待ちながら、先程までの確固たる自信は何処へやら、俄に滲み出した焦りで早速ほのかな酔いが覚めていくのだった。

2023/12/14