もう会えない淡い微睡み

2023年12月13日
21日

 

もう会えない淡い微睡み

 

 今でもよく覚えている。彼の姿を隊舎で見かければ胸が躍り、彼が通りかかりそうな場所を、通りかかりそうな時間に敢えて出歩いたりした。
 確かいつもこの週のこの曜日は、五番隊近くの食堂で昼食を取る筈だとか、隊首会のある日は確か海燕と定食屋に寄っていた筈だとか。この時間になると池の鯉に餌をやって、この月の月末は雨乾堂に籠もりきりになるとか。自分の中で彼の行動習慣を、分かる範囲でなんとなく把握していた。流石に誰にも話したことのない、気味の悪い執着心である。
 それは当に憧れから来るものだった。いや、憧れにしても行き過ぎていたような気もするが、そうでもしなければ彼の目に入ることなど無いと当時は思っていたのだ。実際、そうでもしなかったら彼には名前すら認識されていなかったのではないかと思う。
 ただ彼に毎日、挨拶をしたかったというだけなのだ。自分がこの隊に所属して、浮竹に名前と顔を覚えられて存在し、あわよくば挨拶だけでも言葉を交わしたい。それだけが当時の千世にとっての生きる意味であったと言っても良い。それが表現として大袈裟ではないのだから、余程重症であった。
 千世は勿論名家の出身でもなければ、特別な能力があったわけでも無い。目立たず届くはずのない距離だと思っていたから、あんな形振り構わない真似を出来ていたのだろう。思い出すたびに、穴があったら入りたくなる。だからだろうか、今でも時々夢に見て思い出す。
 必死に浮竹と偶然を装って出会おうと様々画策をし、挨拶が出来れば三日は浮かれていられた頃のことだ。当時は十分それで幸せだったのだ。彼が隊長を務める十三番隊に所属できたことがまず奇跡だったというのに、更に名前を覚えてもらった上、おはようと笑いかけてくれる。
 何も見返りを求めない純粋な幸せというものは、盲目に恋い焦がれていたあの頃だけ感じられていたものだった。

「あれ……珍しい」

 天井に向かって欠伸をした千世は身体をわずかに起こすと、まだ隣で寝息を立てている姿を思わず眠い目のまままじまじと眺める。
 休日はいつも千世が寝坊で、浮竹はとうに目を覚まして庭で体操をしていたりする。朝起こしてくるような事は決してないから、日によっては存分に昼近くまで眠ってしまう事がそう珍しい話ではない。
 時計は間もなく正午を指そうとしていて、珍しいこともあるものだと彼の寝顔を見てくすくすと笑った。千世は身体を再び布団へ倒し、大きく伸びをする。
 懐かしい夢を見たのだ。その余韻が胸に残って、すっきりとした寝覚めとは言い難い。細かい部分までは覚えていないが、まだ彼に片思いをしていたあの必死な頃の夢だった。
 恐らく夢で浮竹と何かしらの会話を交わしたような気もする。だが、本当に僅かな時間だった。それだけでも夢の中の千世は、今まで生きていてよかったと神に感謝を捧げるのだ。
 あの頃の自分ならば確かにそれだけで十分だった。それ以上を望んでは不幸になると、幸福を噛み締めながらも戒めていたものだ。
 その時、隣の布団がごそごそと音を立てる。ふと顔を向ければ、浮竹が眠そうに目を瞬かせて欠伸を一つした。

千世、おはよう」
「おはようございます。珍しいですね、こんな時間まで」
「寒くて布団に潜っていたら、二度寝してしまったよ」

 千世が笑うと、浮竹は布団から腕を出して手を伸ばした。おいで、と囁くような声に手招きをされながら呼ばれる。一瞬千世はどぎまぎとして固まっていたが起き上がり、のそのそ浮竹の布団へ這いずって移動した。
 途端に腕を掴まれると布団の中へと引っ張り込まれ、まるで蛸の如く身体に柔く腕と足が巻き付く。彼の体温を吸収した羽毛に蓋をされ、息苦しいが心地よい。柔く抱きしめられれば、襦袢越しに感じる彼の肉体にぴたりと触れれば飽きもせず心拍が上がる。
 しかし少しすれば流石に息が苦しくなり、藻掻いて布団から顔を出せば、彼は力なく可笑しそうに笑った。
 いつからあの謙虚さが失われてしまったのだろうかと、夢の余韻を思い返して思う。名字でなく名前で呼ばれるだけで、後ろを歩けるだけで、二人で過ごせるだけで、手を握られるだけ、唇に触れられるだけそして、と、徐々に求める幸福が厚かましくなっていた。
 厚かましい自覚はあるのだ。物足りないとは思わないが、望むだけ与えてくれる彼の優しさに甘えていた。そして彼もまたきっとそれを分かっている。甘やかしたい者と甘やかされたい者の利害が一致していることを、互いに口にすることはないがきっと理解していた。
 始めは疑わしいと思っていた彼の好意は、時間が経つほどに深く、やがて愛情と認識して良いものを気づけば与えられるようになっていた。二人で過ごす時間は、昔は欠片ほども想像し得ない程に密度も濃度も増し、浸り続けた挙げ句に、慎ましやかであったはずの部分が麻痺してしまったのだと思う。

「ぬくいな……もう一眠りしたくなる」
「今日は寒いですし、ずっとこのままでも良いですよ」
「確かに……それも良いかも知れないな。偶には一日、くっついて過ごそうか」

 ふふ、と浮竹はまだ夢の中に居るような様子で柔らかく微笑み、そうしよう、と続けて独り言のように呟いて千世の額に頬を寄せた。薄い襦袢を通じて、身体の熱が直に伝わる。
 恐らく今叶いうる最も上質な幸福の中に居るのだと思う。だがこの幸福にもいつか慣れて、さらに求めようとしてしまうのだろうか。どこまでも欲深い。挨拶をしただけで浮かれていた、あの微睡みのように微笑ましい頃には戻れるはずもない。
 混ざり合う体温はまるで徐々に蝕む毒のように身体と瞼を重くする。正午の二度寝などあまりに怠惰だ。起きた頃には夕日で空が赤く染まっていてもおかしくない。
 だが恐らく後悔をしないだろうと思うのだ。別にこの怠惰な二度寝に限らず、例えこれが二度と覚めぬ眠りでも、彼と共に決めたことならば喜んで共に眠るだろう。いや、むしろそれこそ最上の幸せなのやもしれない。最後にこうして彼と体温を分け合えるなんて、夢のようではないか。もしも次に望む幸福を尋ねられたら、そう望んでみようか。
 びく、と身体が震えて一瞬目を開く。うつらうつらと、すでに半分夢を見ていたらしい。混濁した意識の中で訳の分からない事を考えていたような覚えがあるが、夢現に飲み込まれてしまったのか、はっきりとした記憶はない。だが、なにか満たされたような名残だけがはっきりと胸にある。
 それがどうにも心地よくて、再びゆっくり瞼を閉じる。次こそより一層深い底まで沈む為、千世はそっと意識の手綱を手放すのだった。

2023/12/13