夜がいくつ壊れても

21日

 

夜がいくつ壊れても

 

 帰宅後の彼は口数が少なく、千世が話しかけても言葉少なで会話が途切れた。疲れているのだろうかと、茶を入れようかとか香を焚こうかと提案をしてみるのだが、良い、と一言だけ素っ気なく返る。
 文机に向かい筆を走らせる背を眺めながら、何か怒らせることがあっただろうかと、自然と頭は心当たりを探していた。
 今までにも何度か言い合いや小さな喧嘩のような事はしていたが、ここまで明らかな不機嫌を見せられるということはあまり無い。表情は見えないが、その背で分かる。普段穏やかな浮竹の静かなる怒りというものは、物珍しくも息が詰まるほど居心地は最悪であった。
 敷いた布団の上で正座をしたまま、彼の背をじっと見つめる。何に怒っているのかと、怒らせてしまったのかとすぐに聞くことが出来るのならば世話はない。
 このまま眠って目覚めたら、彼の様子も普段通りに戻ってはいやしないだろうか。だが、その勇気もない。彼は背を向けているというのに突き刺されるような視線を感じ、俯いて固まるしか無かった。
 千世、と突然の呼びかけに身体が飛び跳ねる。はい、と緊張した声で応えた千世は自然と身体を固く縮めて息を潜めて待った。

「今日も、稽古をつけていたね」
「は……はい……どうしてもと、頭を下げられてしまって……」

 彼の口調はあまり穏やかとは言えない。その口調以上の荒々しい感情を御しているような刺々しさを感じる。つまり、彼の怒りはその稽古が原因である事は明らかである。
 今日の昼頃、まだ入隊して数年の男性隊士に稽古をつけて欲しいと頼まれたのだった。彼から頭を下げられるのは始めてではない。少し前までは月に一度くらいだったが、ここ数ヶ月はほぼ毎日のように千世の執務室に顔を出し、稽古をつけてくれとねだるようになった。
 彼は決して手のかかる子では無かった。元々の太刀筋も悪くなく、注意したことはその通り直す事が出来た。理由をよく考えるし、応用も効く。咄嗟の判断も悪くないし、あとは実地での経験さえ積んでいけば確実に席官を目指せるだけの素養があった。
 しかし、彼に見られているとは気づかなかった。あの時間の浮竹はいつも昼食で隊の食堂に居るか、近所の定食屋に向かっていることが殆どだ。稽古自体も四半刻ほどで終わっている。

「……別に良いんだ。稽古をつけるまでは。終わった後、あれは何を話していたんだい」
「終わった後は、いつも反省点を伝えていますが……」
「そうか、あれは反省会だったか。随分、親密な様子に見えたからね。……他の子も噂していたよ、実は二人が付き合っているんじゃないかと」

 まさか、と千世は顔を強張らせた。おそらく、稽古の一部始終を浮竹は知っているのだろう。パチン、と筆を机上へ置いた後にゆっくりと立ち上がった彼は、ゆっくりと畳を踏み近づくと千世が正座する布団の上へと足を載せた。
 自然と心拍数が上がっていく。何もやましいことがあったわけではない。千世は真摯に対応をしていたし、彼に見られて困るようなものではないはずだった。
 だが、すぐ目の前に腰を下ろして胡座をかく浮竹の目を見ることは出来ない。

「彼は――誰に対しても、あのような様子です。――私だけじゃなくて、清音さんとか他の席官にも……稽古は、確かに最近毎日せがまれますが……そんな、まさか私そんな訳ないです、隊長」
「ああ、そうだろうね。手を握られて、腰を抱かれていたが、まさかそんな訳がないに決まってる」
「そ、それは振りほどきましたし、距離を取りました」

 浮竹は無言のまま、ただ長い溜息を吐き出す。言いたいこと、求めている言葉がそれでない事は分かる。
 稽古の後、彼は必ず反省点を求めた。道場の隅に移動し、立ったまま手短に伝える。竹刀を持つ手を、彼が綺麗だと褒めてくれたのが初めだったように覚えている。よく見せて欲しいと言われ、手を差し出せばそのまま握られた。
 勿論、驚いて振りほどいた。驚くからやめて欲しいと伝えたが、それが悪かったのだろう。驚かせないのならば、やめなくて良いと彼は解釈したらしい。
 もともと距離の近い男性だとは思っていた。だが彼の様子を見ていれば他の女性隊士に対しても、似たようなものだと感じていたから初めは特段気にしていなかったのだ。
 一見素っ気なそうに思える切れ長の瞳とツンと高い鼻立ちは一部の女性隊士の中では話題で、気さくで明るく人懐っこい性格は弟のようだと皆に好かれていた。千世自身も、同じく悪い印象は無かった。
 だが明らかにおかしいと感じるようになったのは、とうとう身体に触れられる事が増えてからだった。日南田副隊長、と甘えるような熱の籠もった声で呼び、背へ手を回して寄せようとする。ぞわりとする嫌な心地に、やんわりと拒否を伝えて逃げればそれ以上追われることはない。しかし次の日にはまた繰り返す。
 歳も少し離れているし、初めは単にからかわれているだけなのだろうと思っていた。拒否をしていればそのうち飽きてくれるだろう。しかし結局彼が飽きるよりも、千世が慣れる方が先だったという訳である。

「彼は悪い子ではありませんし、実力もありますから……」
「だから、手を握られても、腰を抱かれて口説かれても無碍に出来ないと?」
「無碍に……と言いますか、私はそんなつもりは無いのですが、彼は少し気分屋な所が――」
「やる気を削がない為にも、好きにさせている、か」
「ち、違います、少し……違います」

 思わず千世は彼の言葉を遮るように返す。挑発的で責め立てるような言葉が続き、明らかに動揺していた。
 頭が回っていない。動揺と、初めて聞く彼の冷え冷えとした言葉に思考が停止していく。氷柱が脳天から脊髄まで突き刺ささるかのように冷たい血液が体を巡って、冷や汗が滲む。

「何が違う」
「好きに、させている訳では無いです。触るのはやめて欲しいと、いつも伝えています」

 千世の震える言葉に、浮竹は明らかな苛立ちに呆れを混ぜた溜息を吐き出す。

「彼が、何故いつも昼時に千世に稽古をねだるのか分かるかい」
「それは……単に空き時間だからだと……」
「違うな、俺の目が確実に無いからだ。以前は用心深く俺が隊舎外に居る時間を狙っていたようだが――最近は、君への想いを抑えられないんだろう。――だが、彼は勘が良いね。俺と千世の関係に気付くまでは無くとも、俺の目に入ると不都合があるとは分かっているんだ」

 浮竹は何も今日だけの事を指しているのではなく、全て知っていた。どくどくと心臓が強く脈を打つ。
 滔々と話す彼に、千世はただ黙って俯くしか出来なかった。暫く無言の時間が続いたが、不意に彼に腕を握られ千世は咄嗟に顔を見上げる。締め付けるように強く握られる痛みに顔を歪めたが、彼は険しい表情でただ見下ろすだけである。
 視線までもその眼差しに掴まれ、身動きが取れずにいた。

「伝えているか、強く。厳しく、やめろと。その気は無いと、相手の目を見て誠実に」
「……つ……伝えているつもりですが、あまり怒ると彼は萎縮してしまうので――」
「君の――その態度が、相手をつけ上がらせているという事が分からないのか」

 強まった語気に、びくりと身体が震えた。身体の裏まで突き刺さるような強い視線に、息が詰まる。
 浮竹の言うことはご尤もだと、分かっていなかった訳では無い。明らかに自分へ向けられている好意を知りながらも、稽古をつけてくれと子犬のように纏わり付かれると無碍には出来なかった。
 他の同期よりも抜きん出た実力が有り、それを取り零さぬように伸ばしてやりたいと思うのは未熟ながらも上司として当たり前の感情だと思う。
 確かに少々過剰とも思える彼の好意と接触に、困惑していたのは事実だ。だが叱ればその芽を摘んでしまうのではないかと危惧し、彼の指摘する通りその好意に対しての態度を曖昧にしていた。彼の怒りと指摘はご尤もである。

「君は優しい。だが優しさを履き違えているよ。千世の彼に対するそれは、単に勘違いを増長させているだけの、未熟な優しさだ」
「そ……そんなつもりは、毛頭無いです」
「当たり前だ、あったら困る。だから俺は、君の甘さを指摘してる。千世が見せているのは優しさではなく、隙だ。それが相手にとって正しく必要である言葉や態度か、相手を一番に思い考えなくてはいけない。……分かるか」

 畏怖させようとしている訳では無いとは分かる。言い聞かせるように、しかし多少の威圧をもってその言葉を重く重く落としていく。
 眉根を寄せ強張った表情と、沸々とその奥で煮えるような苛立ちを飲み込むように震える喉。彼に握られた腕はじりじりと焼けるように痛い。明らかな力の差の前では、振り払うことなどという考えにまで及ばない。
 今まで彼との関係は限りなく良好で、喧嘩など数えるほど、そしてほんの些細な原因でしか経験をしたことは無かった。彼も千世自身も争い事を好む方ではないし、多かれ少なかれ互いに何か思うことがあっても、指摘するより受け入れることの方が容易かったからだ。
 ごめんなさい、と千世は掠れた声でようやく絞り出す。未熟な優しさだと指摘され図星だった。浮竹の誰に対しても平等な、人を守る力強い優しさに憧れていた。上っ面だけで、相手の機嫌を取る為の優しさは単なる見せかけで、何にも意味を成さないのだ。
 恥ずかしい。浮竹を失望させ、彼に対しても悪いことをした。後悔と羞恥で身体が震える。ごめんなさい、と再び伝えて頭を垂れた。

「君を謝らせたいんじゃない」
「で、でも……私の未熟な態度が、彼を増長させて居たのは、確かで……ごめんなさい、私――」
「謝らないでくれ、千世が悪いみたいだろう」

 そう彼は千世の腕を引き、抱き寄せられる。きつく抱かれているというのに、彼は決して握る腕を離そうとはしない。逃げ出すはずなど無いというのに、まるでそれを恐れているかのように思えた。
 
「俺の名前を縫い付けてやりたいな、よく見える場所に」

 爪の先で千世の首筋をつつ、となぞりながら、浮竹はそう呟く。
 息を詰まらせ、何も答えられないまま千世は彼の目を瞬き一つせず見上げていれば、なんてな、と一変破顔した。途端に肌が粟立ったのは、浮竹が半ば冗談で言ったのではないように思えたからだ。
 ようやく腕を握られていた手が解かれ、その手のひらは千世の頬を包む。驚くほどその手のひらは熱く、千世の冷えた氷のような頬を溶かしていくようだった。彼はその冷たさを憐れむように眉を曲げて、あの刺す視線から一変、慈しみに満ちた眼差しを落とす。
 ごめんなさい、と再び彼に伝えれば、少し悲しげに笑った後そっと唇を落とされた。甘く柔らかく、徐々に深く繰り返される。

 その翌日から、ぱたりと昼の訪問は無くなり、同時に彼の姿を隊舎でめっきり見かけなくなった。やがて男所帯の十一番隊への転籍となっていた事を知ったのは、それからほどなくしてのことであった。

2023/12/6
お題箱ありがとうございます!