ほんものの夢の中

21日

 

ほんものの夢の中

 

 浮竹は紙を捲くる手を止め立ち上がると、日の当たる縁側まで出た。今日も日なたへ出れば、ついうとうとしたくなるような陽気である。だが、先日の同じような陽気の日よりも、空には少し雲が多くて、肌掛け一枚くらいは欲しいところだ。
 日の光を浴びながら頭に蘇るのは、数日前の事である。あの日は本当に良い日だった。朝は冬の訪れを感じるぱりっとした肌寒さだったが、日が高くなるにつれて日なたはまるで春のような陽気になった。
 快晴で抜けるような青空は、いつもより更に高く見えた。毎日がこんな日ならば良いと思ったものだ。

「決裁書の押印をいただきたく伺いました」

 御簾の外から聞こえた声に浮竹は振り返り答える。間もなく顔を覗かせたのは、書類を抱えた朽木であった。
 浮竹の正面へ腰を下ろした彼女は、抱えた書類を畳の上へ下ろすと二つの山へと分けた。少し高い山の方が報告書で、もう一つの山は決裁書だと言う。また今日も随分な量だ。
 昨日も同じくらいの量の報告書やら何やらを確認し署名と押印を終えたばかりだというのに。しかしこれも毎年のことで、時期柄仕方がない。年末を控え、どうにか正月休み前に滑り込もうという皆の焦りが分かる。自分も昔はそうだったと懐かしい気もするが、いざ決裁権を持つ立場になると溜息が漏れるというものだ。

「日なたぼっこですか」
「ああ、うん。良い天気で、うっかり誘われた」

 そう答えると、朽木は真面目くさった表情のまま、同意するようにうんうんと頷く。
 彼女に身体を向けた浮竹は、差し出された紙の束を受け取った。どうやら急ぎで印が必要な分らしい。午後一で千世に渡し、その後勘定方へと回さなければ今年度の予算から漏れてしまうのだと、彼女は実に切実な様子で言う。
 中身を見てみれば、女性用隊舎浴場の脱衣所暖房設備に関する決裁書であった。そういえば老朽化で隙間風が酷いと女性隊士からの強い要望があると千世が言っていた事を思い出す。複数の工務店に手配して相見積もりを取っているという話を少し前に聞いたのだった。
 こんなことまでやらなくてはいけないなんて、とぐったりしていた彼女の姿を思い出し僅かに口元が緩む。海燕も屋根瓦の修繕から白蟻の駆除まで良くやってくれていたものだった。
 浮竹は立ち上がり、文机の前へと腰を下ろす。筆を持ち上げながら、ふと書類の隅に書かれた千世の署名が目に留まった。その署名をぼんやりと眺めたまま、穂先を寸前で止める。そのまま暫く書面をぼうっと見つめたまま、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
 隊長、と細い声に呼びかけられはっと顔を上げると、朽木が申し訳無さそうに僅かに背を丸めていた。

「申し訳ございません……ご署名でなく押印をいただければ……」
「ああ……悪い、そうだったね」

 浮竹は苦笑いで頬を掻いた。押印だと頭では理解していたのだが、どういう訳か筆を握っていた。朽木もいつ言おうかと見計らっていたのだろう。
 こうも集中力が散漫となっている理由は、先日の事が原因であった。
 今日よりもさらに心地よい春のような陽気の日のことだ。あまりに良い天気で、つい、畳に転がりうたた寝をしてしまったのだ。
 うつらうつらとすることはあっても、横になって本格的に居眠りをすることはあまり無い。いや実際、無くはないのだが、誰にも見つからない場所を知っていたから、雨乾堂で居眠りをするなど余程眠くて堪らなかったのだ。
 実際横になってみれば、日が当たってほんのり温かくなった畳の上が実に良い気持ちで、肌掛けもいらない程日差しが温い。あろうことか夢まで見ていた。内容は朦朧としているが、その陽気のように優しいものだったという感覚だけが残っている。
 その甘い余韻を味わいながら、浮上していく意識と共に重い瞼を開く。暈けた視界には殺風景な部屋ではなく、それを背景にして、驚いたように目を丸く見開いた千世であった。
 傍に重ねられた書類を見るに、届けに訪れたところで居眠りを見つけ、興味本位で顔を覗きにでも来たのだろう。恐らく寝顔を暫く眺められていたらしい。目線がかち合い気まずいのか恥ずかしいのか顔を赤くし、必死で言い訳を考えているらしい姿が可愛らしい。
 浮竹は身体を起こすと、彼女が無造作に畳の上に付いていた手に手を重ねる。滑らかな手の甲を撫でながら、彼女の黒々とした瞳を見つめていた。憧憬と思慕が入り交じる瞳は吸い込まれるように清らかで、日の光できらきらと輝いて見えた。
 その瞳を真っ直ぐ見つめながら、映り込むのが永遠に自分だけならば良いとふと思ったのだ。それはまだ寝起きの頭で夢見心地だったのか、もしくは長らく胸の奥で感じていたことなのかは今となっては分からない。
 ただ一つ事実なのは、その瞳を見つめたまま彼女に思いの丈を伝えたことである。一緒になってくれないか、と実に簡単な、しかし切実な一世一代の一言である。

「お加減が悪いのですか。先程から何と申し上げますか……どこかぼんやりとされているようで……」
「いや、いや。そういう訳では無いんだ」

 心配させて悪いね、と浮竹は彼女に向かって笑いかけると、朱肉に付けた隊長印を書類へぎゅうと押し付けた。
 あの日以来、彼女が居ない前ではつい光景が蘇る。後悔をしている訳では無い。ただ、伝えるべきはあの時だったのかと悔やんではいた。おそらくもっと素敵な場所で、素敵な時に伝えられた方が彼女は喜んでくれただろうか。
 あの時の彼女はしばらく無言で石のように固まって、顔を真っ赤にさせながら今にも泣き出しそうな程に瞳を潤ませた。
 何も今すぐに返事を欲しているわけではない。彼女に笑ってそう伝えるとまた暫く固まって、突然ずるずると後退りをした後、畳に額を付けるほど深く頭を下げる。ありがとうございます、と震えた声で返した彼女は立ち上がり、それから力の入らぬ様子でふらふら雨乾堂から去っていったのだった。挙動不審にも程がある。
 内心、脈が止まりそうなほどの緊張の中に居た浮竹は、彼女の背中を見送りを終えると途端に脱力して再び畳に転がった。それからしばらくの間、天井を呆然と見上げていた。
 とその時、隊長、と朽木の心配そうな声に再び呼びかけられる。浮竹は瞬きであの光景を一瞬は追い出しながら、押印を終えた書類を纏めて差し出した。

「最近は日南田殿も調子がお悪いようですし、浮竹隊長もお気をつけください」
「……千世の調子が……?」
「ええ、はい。隊長はご存知かと思っておりましたが……」
「いや、知らなかったよ。……そうか」

 理由には察しが付く。勿論あの場ではひどく動揺をしていたが、その後顔を合わせている時は至って普段通りの様子に見えていた。だからいっそ夢だったのかとも思ったほどだ。
 だがそれを言えば恐らく浮竹自身も、彼女にとって普段通りに見えているのだろう。というのも不思議と、彼女が傍に居る時はこれほどぼうっとすることが無いのだ。
 彼女が居ない時、あの日溜りの中での光景が蘇って胸が騒ぐ。彼女がいつ、どのように応えてくれるかと待ち望んでいた。だがもしかしたらそれは都合の良い期待で、差し出した手を取ってくれると勝手に思い込んでいるだけかも知れない。
 その姿が見えていないと、期待と不安が勝手に膨れて心を揺らすのだろう。年甲斐もない感情だと思う。一人の女性の姿を頭に思い浮かべて、その小さな口から溢れる言葉を心待ちにしている。

「隊長……?」
「ああ、悪い悪い……これで最後かな」
「はい、ありがとうございます」

 朽木の訝しげな表情に、笑顔を見せながら押印を終えた書類を差し出す。精一杯の笑顔に努めていれば、彼女も渋々納得したのか紙の束を胸に抱いて立ち上がった。
 間もなく朽木が去っていった部屋の中、なんとも情けない溜息を吐く。池で鯉が跳ねるのどやかな音を聞きながら、独りぐったりと頭を垂れるのであった。

2023/12/2