いつかといつかを繋ぎ合わせたら

21日

 

いつかといつかを繋ぎ合わせたら

 

 紙の上を走らせる手を時折止める。しばらくぼうっと宙を見て、慌てて手元に視線を戻す。
 かれこれここ数日はその調子であった。仕事が進まない訳では無いが、明らかに効率が落ちている。繁忙期というわけでも無く、むしろ暇なほどだ。急な呼び出しも無く、怪我人も無い平和な日々が続いていた。そんな今こそ、普段手を付けられていない古い書類の整理等に時間を使いたいのだが、これではそこまで辿り着きそうにない。
 集中しなければ、と思うほどに散漫になっているように感じる。気づけば手元をぼうっと見つめていたり、硯に溜まる墨を見つめていたり、集中力がぷつりぷつりと途切れて仕方ない。
 その時、ねえ、と呼びかけられた声に千世はびくりと跳ねて背を伸ばす。暫く前に執務室に入ってきた清音が、長椅子の上で転がったまま千世をじっと見ていた。その眉は困ったようにハの字に曲がっている。

千世さん、最近どうしたの」

 えっ、と思わず千世は声を上げ、長椅子で横になる怠惰な様子の清音を見る。彼女は千世をじっと見つめたまま、手元の煎餅を一口かじった。
 ああそうだ、彼女が居たのだった。珍しく静かにしているから、一瞬忘れかけていた。清音は千世の顔をじっと見つめたまま、豪快な音を立てて煎餅を噛み砕く。

「何か変かな……」
「うん、すごく変。朽木さんも言ってたし、というか皆言ってるんだけどね」

 えっ、と千世は再び漏らした口を閉じ、そのまま真一文字に結び押し黙る。清音はまさか自覚がなかったのかとでも言いたげに、じっとりと呆れたような目線を向けた。
 自覚が無い訳では無い。自分の様子が妙であるとは分かっていた。明らかにぼうっとする時間は増えているし、雲の上を歩いているような感覚が続いている。
 だが自覚しているからこそ人前では気を引き締めていたし、なるべく他のことを考え意図的に紛らわせようとしていた。だが、そう思っていたのは自分だけだということだろう。

「何か悩んでることがあるなら、あたしで良ければ聞くけど」
「いや、そういうわけでも無いんだけど……」
「うっそだぁ。あたし暫く見てたけど、書類見たまま固まってたり、空中見つめてたり……」
「いや、ええと……風邪かな、少し頭がぼーっとして……」

 千世が咄嗟に適当な言い訳を返せば、清音はそれを見透かしたようにふうんと目を細めた。
 ここ暫く頭を巡っているのは、数日前の雨乾堂でのことだ。間違いなくそれが全ての元凶である。
 冬を目前にした薄ら寒い日だった。しかし空は真っ青な快晴で、日の当たる場所はまるで春のような心地である。
 うっかり、執務室の縁側でうつらうつらしたくなる気持ちを抑え、纏めた隊員の日報の束を手にして雨乾堂へと向かった。
 外から何度か呼びかけても返事がなく、不在かと思い恐る恐る部屋を覗く。あ、と思わず声を漏らしたのは、浮竹が随分気持ちがよさそうにうたた寝をしていたからだった。
 珍しい姿だった。病床に臥せっている事は度々あれど、業務時間中に昼寝に勤しむ姿今まで見たことがない。畳に転がり、すうすうと眠る姿へ足音を忍ばせ近寄り、傍で腰を屈める。寝顔は見慣れているはずだったが、真っ昼間に雨乾堂でこう無防備に晒されている物珍しさに、思わず眺めた。
 穏やかな寝顔を眺めて気が緩んだのか、その一瞬で浮竹の瞼がぴくりと震える。まずい、と思った頃にはもう目を開けた彼の双眸はしっかりと千世を捉えていた。
 すみません、と普段ならば咄嗟に口にしたのだろうが、どうにもその日は様子が違った。思わず開きかけた口を結ぶ。浮竹は黙ったまま身体をゆっくり起こし、畳の上へ置かれていた千世の手の甲へ、手のひらを重ねる。
 日溜りのように暖かな眼差しだった。慈しむような眼差しを向けられ、不思議と心が凪ぐようだった。そのままどれほどの時間無言で見つめあっていたか分からない。そこが隊舎であることを忘れかける静寂だった。
 やがて、沈黙を割いたのは浮竹だった。

千世さん?おーい」
「……え?」
「ホントちょっと休んだほうが良いって、あたし本当に心配になってきちゃったんだけど……」
「ああいや、いや。大丈夫、ほら書類も一束処理したし」

 平気平気、と千世は立ち上がると清音の元へと歩み寄り、足をぱしぱしと叩く。菓子盆を持ち上げ、渋々と立ち上がった彼女に餞別とでも言うように押し付けながら、そのまま襖まで追いやった。

「次ぼーっとしてるの見つけたら、浮竹隊長に報告するからね。千世さんに有給あげてくださいって」
「え、えっ!?い、いや、ちゃんと貰ってるから、それは本当にやめて」

 言うから、と清音の脅しのようなじっとりとした目線を最後に浴びせられ、襖がぱたんと閉じられる。
 途端に静寂が戻った執務室で、千世は呆然と立ち尽くす。やはり清音にはまだ居てもらったほうが良かったのかも知れない。このままでは詰問が始まりかねないからと追い出してしまった事を、早速後悔している。
 数日経つというのにあの光景が頭から離れず、彼の言葉が反響して仕方ないのだ。
 一緒になってくれないか、と一言静寂を破って呟かれた言葉に、千世は暫く理解が出来ず石のように固まっていた。これから先を君と共に過ごしたいのだと、彼はさらに続ける。
 つまりそれはどう考えたところで、紛うこと無く求婚であった。穏やかな笑みと手の甲から伝わる体温に、徐々に身体が内側から熱くなっていくのが分かる。
 どうして今、この何でもない時にと、心も身体も何も準備ができているはずもない千世が固まり続けていれば、とうとう彼は笑い出した。そして、答えは今でなくて良いと言う。
 混乱を極めた千世は訳がわからないまま、一先ずありがとうございますと深く頭を下げ、ふらふらとおぼつかない足で雨乾堂を出た。その後は執務室で筆を握ったまま呆然と過ごしたものの、夜は結局恐る恐る彼の屋敷に帰った。
 さらに調子を狂わせたのは、彼がまるで昼間の言葉など無かったかのように普段通りの様子であったことだ。もしかしたらあれは夢で幻だったのかも知れないと思うほど、普段通りの様子に千世は拍子抜けをした。と同時に、多少ほっとしたのも事実だ。
 それ以来、彼とは普段通りの会話を交わしながら、一人になった時や気を抜いた時、ついあの日の事を思い返して宛も無く思考が彷徨う。日常を送りながら、常に並行して幻が追いかけてくるような状況だ。

「……どうしよう」

 はあ、と深く息を吐き出しながらしゃがみ込む。何に悩んでいるのかが分からない。大好きな恋人からの求婚なんて飛んで跳ねるほど嬉しいはずだというのに、二つ返事で答えるような気分になれない。
 申し込まれた以上、答えなくてはならない。だが、どう答えれば良いのか分からない。このまま続くと思っていた関係に変化が訪れることへの動揺か困惑か。飲み込むまでには、まだ暫く掛かるように思う。
 しかしそう悩みながらも、あの光景を思い返せば身体は熱を持ち、頭は幸福にふやける。熱くなった頬を冷ますように手のひらで包みながら、本日何度目かの溜息を深く吐き出すのだった。

2023/12/1