稚拙な心臓をとめて

おはなし

 

 ただいま、と戸を開くと途端にばたばたと駆けるような足音が耳に入った。が、その騒がしい足音は途中でぱたりと止み、間もなくすると澄ました顔の千世が玄関へと顔をのぞかせる。
 髪をゆるく結った寝巻き姿の彼女は、緩んだ帯を少し締めながらおかえりなさいと腰を折った。

「まだ起きていたのか」
「丁度今、眠ろうかと思っていたところでした」

 そうかい、と浮竹は思わず顔が綻ぶ。口ではそう言いながら、わざわざ起きて待っていてくれていたのだろう。そのしょぼしょぼとした眠そうな表情を見れば分かる。
 帰宅の音が聞こえ寝室からどたばたと走って、途中で恥ずかしくなったのか平静を装ってみたのだろう。言葉にされるよりも、その様子を見た方がよっぽど分かりやすい。
 ふふ、と漏れかけた笑いを噛み殺しながら、彼女が先導する後を着いて歩く。その足取りは軽くご機嫌なように見えるが、彼女なりにあからさまな態度を控えようと努力しているようだから黙ってその背を追いかけた。
 ここ数日雨乾堂に泊まり込む日が続き、彼女と隊舎外で顔を合わせるのは久しぶりであった。
 一昨日、昨日は屋敷に戻れるかも知れないと伝えていたものの、結局夕方から急な隊首会の召集があり帰れず仕舞いだった。あの一瞬ぱっと輝いたような表情を思い出すと心苦しかったが、急なことでは仕方がない。
 この期末というものは異動や冬賞与の査定やら何やらと重なりやすい。可能な限り業務は千世や仙太郎、清音に抱えて貰っているものの、彼女らには回すことのできない業務が自然と積み上がる。
 散らかっていく部屋を見る度に皆表情が深刻になっていくから、暫くは無用の心配を掛けたくないからと、あまり立ち入らないよう伝えたほどだ。
 とはいえ、皆が言うことを聞いてくれる筈もなく気づけば部屋の外に茶が置かれていたり、菓子盆に饅頭が山積みになっていたり、はたまた生花が飾られていたりと、逆に気を遣わせてしまったようにも思う。

「やっと落ち着かれたんですか」
「大方は。皆には色々心配を掛けたね」

 そう答えると、彼女は心底安心したように微笑み、ほっと息を吐き出す。
 あかりの煌々と灯った寝室には既に布団が二組敷かれ、その端まで丁寧にきっちりと掛け布団が伸ばしてあった。皺一つ無いその様子からして、やはり今眠ろうかとしていたはずがないのだ。
 部屋の隅の文机には、本がまるで今閉じられたばかりの様子で一冊乗っているから、きっとうつらうつらとしながら暇つぶしにでも読んでいたのだろう。誤魔化しが不得手な彼女らしいことだ。いつも詰めが甘いにも程がある。
 待っていましたとばかりに、本を閉じて飛び出してきたのかは分からない。だが自然と目に浮かぶその様子に、また口元が緩みかける。
 と、ふと見れば手を差し出している彼女に、ああ、と浮竹は肩から羽織を落として手渡す。大切そうに衣紋掛けへ吊るす背を眺めながら、帯を緩め、一日纏っていた死覇装を落としていけばまるで順に重しでも外していくような開放感であった。
 いくら美味い茶を飲もうが、甘い饅頭を食べようがこの時ほど疲れの落ちる瞬間というのは無いと思う。いそいそとつま先立ちをして長押に衣紋掛けを引っ掛けている千世の細い背に思わず微笑みながら、寝間着の帯を緩く結んだ。

「隊長、明日はお休みでしたよね」
「いや、それが予定を変えた。昼頃から隊舎に顔を出すつもりだよ。まだ残している事がいくつかあってね」

 浮竹がそう答えると一瞬黙った後、そうですか、と途端に消えそうな声が返る。あまりにあからさまなその声音だったが、恐らく彼女自身はその自覚が無いのだろう。
 布団へと移動しながらふと彼女を見れば、ぼんやりした表情で指先をぎゅうと握っている。合わせた訳ではなかったが、偶々休日が彼女と被っていたのだろう。彼女の中で色々と予定を立てていたのか、それが崩れて呆然としているように見える。
 残念とか寂しいとか、言葉にされるより余程分かりやすいその様子に、また自然と口元が緩むのを感じていた。
 恐らく真剣に動揺しているであろう彼女からしてみれば、微笑まれている場合ではないだろう。そう分かっては居るものの、だがどういう訳か、彼女の不安げに伏した目に妙な高鳴りを覚えていた。
 妙なそれに気付いたのは、つい先日の事だ。
 雨乾堂へあまり立ち入らないようにという言いつけを律儀に守っていた数少ない一人であった千世は、纏めた書類を抱えて朝ぶりに顔を出した。
 書類の山に顔を埋めるような千世を迎え入れながらも、しかし丁度外出の予定であった浮竹は入れ替わるように雨乾堂を後にしようとする。あれ、と目をぱちぱちとさせる千世に外出を伝えれば、途端に消えそうな声で、そうですか、と呟いた。
 まるで散歩を中止された忠犬の耳と尻尾がぐったり垂れ下がる姿と重なる程の、そのあからさまな様子に浮竹はうっかり眦を下げたくなった。
 本来ならば一日は掛かってもおかしくない量を半日で仕上げ、いそいそと持って現れたのだ。雨乾堂に顔を出す理由を作るためにも、恐らく必死に仕上げたのだろうというのが嫌でもわかる。
 その懸命な努力を思うと愛おしく、そしてその努力が彼女の思い通りには実を結ばなかったことに妙な感情の揺れを覚える。おそらくその努力の方向が、真っ直ぐ逸れること無く自分へと向いているからなのだろう。
 忠犬ならば頭を撫で背を撫でて褒めそやすような場面だろうが、彼女はあいにくそう素直に感情を見せない。行ってくるよと伝えれば、書類を抱えたままの彼女は精一杯気丈に、いってらっしゃいませと笑顔で頭を下げるのだ。
 暫くその健気な姿がこびりついて離れなかった。

「そうしたら明日の夕餉は、何時頃にしましょうか。……隊長のお好きなものを作ってみようかと思ったのですが」

 そう少し照れくさそうに彼女は言う。浮竹は綺麗に敷かれた布団の上へと腰を下ろすと、彼女もまた追いかけるように傍へ座る。
 今から楽しみで待ちきれないような様子で答えを待つ彼女に、浮竹は申し訳なく眉を曲げた。

「悪い、明日はまた雨乾堂に泊まるつもりだよ。夕方から招集がかかっていてね、きっとまた長引くだろうから」

 彼女はぽかんとしてまた少し黙った後、そうですか、と先程よりもさらに消えそうな声で答える。今にも吹き飛びそうなほど身体を小さくさせて、しかし流石に落ち込みすぎだと自覚したのか急に背筋を伸ばす。
 大変ですね、といかにも同情し困った様子で、精一杯気丈に見せる姿が痛々しくて胸が詰まる。いくら仕事が理由だとしても、これだけ恋人に放って置かれているのだから何か文句の一つでも言う権利はあるというのに。
 浮竹は彼女が膝の上で暇にしている手を掴み、そっと引く。少し目を見開いて前のめりになった千世は、目線がかち合うと直ぐに逸した。

「そんなに寂しそうな顔をしてくれるなよ」

 浮竹はそう彼女の頬に手を伸ばして言うが、目を伏せ唇をぎゅうと噤んだまま答えない。図星なのだろうが、うんと答えるほど彼女は負の感情に対して素直ではない。
 それがまた、不思議と胸をくすぐるのだ。彼女の中での葛藤がありありと見える。寂しさを口に出してしまえば楽だと分かっていながら、そう易易と情けない感情を口に出す事が許せないのだろう。
 あからさまな態度を出されていれば、今更言葉にしようがしまいが同じことだというのに、その自覚はないのか隠せているつもりなのか。素直なのか、素直でないのか分からない。肝心なところが抜けていることには違いない。
 副隊長としての彼女を知っているからこそ、その対比がより際立ち、ある種この高鳴りは動揺に近いのやもしれない。その揺らぐ心地よさが忘れられず、寂しげに曇る顔がまた見たいと思ってしまう。
 伏せていた目をようやくそうっと上げた千世は、何か言いたげに口を僅かに開き、しかし結局何も言えずにまた閉じる。
 いじらしい様子に自然と息が詰まった。彼女の頬を包む手をそっと顎へ滑らせ、上向かせる。あ、とまた口を開けた彼女に浮竹は顔を近づけると、鼻先が触れるくらいのところで彼女がぷいと顔を横へ逸した。
 まさか避けられたような状況に、浮竹は目を丸くして見下ろす。

「……今は、そういう気分ではないので……」

 彼女はじりじりと後ろに下がると、そう呟き浮竹を見る。彼女に触れていた手を下ろしながら、そんな物欲しげな目をしてよく言うものだと、思わず感心した。瞳を潤ませ頬を薄っすら紅く染め、濡れた唇が薄く開く。
 このまま受け入れたのでは、寂しがっている事を認めることになるとでも思っているのだろう。なにも寂しがったり残念に思うことは罪ではないというのに、どうしてもそれを許せないのだろう。
 だが惜しむらくは、表情の管理がとことん下手くそなことで、全くその内省が意味をなしていないのだ。業務の面で見れば彼女はいつも卒なくいっそ器用な方だというのに、どうしてこう男女になると不器用で鈍くなるのか。
 恐らくそれを含めて惹かれている事には違いない。今だって気まずそうな彼女を前にして、胸が詰まるような愛しさにごくりと唾を飲む。
 浮竹は腰を上げると、膝を擦って千世へと詰め寄る。緊張したように肩をすくめる彼女は、しかし後退りして逃げるようなことはない。再び彼女の顎を指で支え上向かせながら、顔を近づけまた鼻先が触れる。
 今度はどうやら避ける気は無いらしい。そういう詰めが甘いのだ。強情は一貫させなければ意味がないというのに。一度はどうにか我慢したものを、二度目で我慢できない甘さには、いっそ小言を言いたくなるほどだ。
 溜息代わりに唇を重ねると、驚くほど素直に千世は受け入れる。少しは抵抗するものかと思ったが、暫くぶりの甘い感触を目の当たりにして抗う気は起きなかったのだろう。
 ぬるい口内を舌で弄り、舌肉を絡め取る。久しぶりに味わう口づけの心地というのは、柔らかく甘く痺れるような幸福感があった。興が乗りそのまま褥へと彼女を倒すと、覆い被さり齧り付くように繰り返す。
 蕩けるようなだらしのない表情で、自ら舌を伸ばし吸い付く姿は、腹の奥へと欲を堆積させていく。あと少し、もう少しとその区切りの先延ばしを繰り返し、しかし飽くこと無い感触にとうとう唇を離す。
 浅く息を繰り返す彼女は呆然と浮竹を見上げ、濡れた唇を舌で舐め取るような仕草にうっかり息を潜めた。

「今はそういう気分ではないんじゃなかったか」
「そ、それは……今は、隊長の気分に合わせたので……」
「そうか、成程。確かにそうとも言える」

 まさか、二度目にして我慢ができなくなったとは言わないだろう。
 うまく躱したつもりなのか、千世は少しほっとしたような表情を見せる。だがそう悟られている時点でそんなのうまくも何とも無い。上がりそうになる口角に、浮竹はぐっと力をいれた。

「その……お疲れではないのですか、今日だって朝からずっと籠もりきりで……もう眠らないと」
「それがどうも、部屋から出ていない分今日は存外元気でな」
「……そうなんですか……?」

 一瞬、彼女の瞳が期待に揺れるのが分かる。心配を口にしながらも、沸々と湧き出すものを感じているのだろう。膝を擦り、つま先で褥を引っ掻いているのを知っていた。もぞもぞとその行き場のない衝動を逃すような。
 そう先を期待しながらも就寝を促すなど、此処までくれば白々しいというものだ。あれほど懸命に熱っぽく口づけに応えていたというのに。

「でも千世が心配するなら、もう眠ろうか」
「ああ、ええと……はい……そうですね、……その方が、良いと思います」

 途端に混乱した様子の千世に浮竹はくすくすと笑う。素直なのか素直でないのか、少なくともそれが浮竹を思っての言葉だろうというのは分かる。
 少し意地悪をしてやりたくなったのだ。そう白々しくいい子を気取ろうとする彼女を揺さぶってやりたくなった。思い通りの反応が可笑しくて、と同時にあまりの愚直さが可哀想になる。
 いくら揺さぶろうが誘導しようが、今まだこのシラフでは自ら強請ることなんてしてくれるはずがないのだ。ただ悲しそうに眉を曲げ物欲しそうに唇を濡らして、結局誘導されているのは浮竹の方だ。

「嘘だよ」

 泣き出しそうな顔を前にしてとうとう、そう鼻先で一言囁くと彼女は瞳をまた揺らし、その奥は熱を帯びていく。静かな寝室で息を潜めていれば、どくどくと彼女の心臓の音がまるで聞こえるようだ。
 あまりに侵入の容易い牙城は、内側から緩やかに崩壊していく。蕩けた表情を見下ろしながら、背筋の震えるような快感が抜けた。始めからそう素直になっていれば、こんなまどろっこしい事はしなくて良かったというのに。
 焦れた分だけ、この後割りを食うのは彼女自身だということを知らないのだ。今まで散々繰り返したやり取りは、この状況を以てすればいわば丁寧なお膳立てであった。だがなにも初めからこれを望んでいた筈ではなく、つまりそれは、結果論ではあるのだが。
 いっそそれを見通してすらいるのではないかと思うほどの、彼女の呆れるほどの愚直さに、図らずも堆積した腹の淀みは徐々に熱く、肥大する。
 帯の端を一息に引きながら、すっかり従順に待ち続ける彼女へ、今ばかりは精一杯穏やかな笑みを向けてやるのだった。

 

稚拙な心臓をとめて
2023/10/16