芒種

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芒種

 

 地面に叩きつけるような雨を眺めながら、諦めきったように軽い溜息を吐いた。濡れた髪の先からは、ぽたぽたと雫が滴る。
 予報で昼過ぎから雨だとは聞いていたのだ。だが一番隊へ書類を届けるだけだから、雨が降る前には隊舎に戻れるだろうと見越していた。
 実際、書類提出には数分と掛からなかったのだが、同じく一番隊を訪れていた伊勢と鉢合わせ、雑談に興じてしまった。だがそれは数分の事だったから、彼女と会っても会っていなくても結局雨に降られていたのだろう。
 予報通りに雲が動くはずなど無いのだ。
 彼女の手元にあった傘を思い出し、自分の思い違いに呆れる。どちらかと言えば、いわゆる晴れ女だと思っていた。明確な根拠がある訳では無いが、雨予報でも傘を差すことの無い日が多いような気がしていたのだ。
 梅雨に入って少し経つが、隊舎に戻った途端に雨が降り始めたり、丁度外へ出る時には雨が上がったり。そういう事が続いていたような気がしたのだが、単なる偶然だったのだろう。晴れ女を自称するなどおこがましい事だ。
 地面に叩きつけられる雨粒は一向に弱まる気配がない。
 降り始めも急で、ものの一瞬で足元まで濡れてしまったのだが、雨宿り出来る場所があって助かった。偶々空き家の連なる道を進んでいる時に降り出したから慌てて駆け込み、軒下を借りることが出来たのだ。
 もう少し人通りの多い道にいれば、誰か知り合いの傘に入れて貰うことも出来ただろうか。だが千世の今居るこの空き家通りは、いつも不気味がられて昼でも人通りはあまり見込めない。
 元々千世もこの道は滅多に通った事が無かった。昔、栄華を誇ったある貴族の一族がこの一帯の土地家屋を所有していたようだが、何が切欠か没落し瀞霊廷を去って以降そのままとなっているらしい。
 何やら難解な権利関係があるようで、取り壊しも出来ないから百年以上はこの状態のようだ。
 塀や門、屋根には蔦が伸び苔が生し、夜ともなればまさに化け物屋敷のような様相である。死神が化け物に怯えるのもおかしな話だが、得体の知れない雰囲気は気味が悪いというものだ。
 だが副隊長へ昇進して間もなく、隊長の浮竹が一番隊舎への近道としてこの通りを教えてくれた。初めは気が進まなかったが、今では慣れて一番隊舎との行き来以外にも頻繁に利用する。人気がなくて気軽に通れるから重宝していたのだが、今日はそれが裏目に出た。
 止みそうにないまるで夜のような暗さを伴う分厚い雲を見上げ、千世は深くため息を吐いた。このまま雨宿りを続けるか、意を決して飛び出して隊舎に戻るか悩む。
 急ぎの用事は無いが、いつまで続くか分からない雨を待ってこれ以上此処にいても無為に時間が過ぎていくだけだ。せめて少しでも雨脚が弱まればと、ぼうっと空を眺めていた。
 そんな折、近くで水が跳ねる大きな音が聞こえ、思わず千世は飛び上がる。何かと思えば同じ軒下へ収まろうとする白い羽織の男の姿で、軒から落ちる滝のような雨が傘に跳ね返る音だった。
 傘を閉じながら、その男は目を丸くする千世を見て笑う。

「驚かせたか」
「い、いえ…すみません……雨音で聞こえず、気づきませんでした」

 何故此処に、という疑問よりも、呆けた顔をして空を見上げている姿を見られた事の方が恥ずかしくて縮こまる。
 雨に降られました、と千世は縮こまったまま呟くと、見れば分かると浮竹は眉を曲げた。

「朝から雨予報だっただろう。傘は持たなかったのか?」
「それは知っていたのですが、何故か降られない自信がありまして……」
「梅雨の季節に随分な自信だな」

 そう彼は笑うと、懐から手拭いを取り出し千世へと差し出す。咄嗟にいやいや、と断ったのだが、濡れた髪の不快さに負けて受け取った。受け取りながら彼の体温を仄かに感じ、勝手にどきりと胸が跳ねる。
 昼休憩中に、気まぐれで書店へ行った帰りだったという。気に入った本が無かった、と浮竹は残念そうに肩を落とす。その姿を見ながら、申し訳ないと思いながらも彼の気まぐれに内心そっと感謝をしていた。
 この狭い軒下に二人並んで立っていると強雨がまるで簾のようで、この道端だというのに二人きりのように思える。ただばたばたと打ち付ける雨音を耳に、うんざりとしていた時間が今は少し特別になるのだから容易いものだ。
 止みそうにもないな、と浮竹は空を見上げたまま呟く。これだけ勢いのある雨でも、少しすれば弱まるものだが今日はその気配がない。

「傘に入れてやりたい所だが」
「い、いえ、それは流石に……」

 ぶんぶんと首を横に振った千世に、浮竹は苦く笑って頷く。
 雨宿りならまだしも、相傘姿を見られたのでは流石に言い訳のしようがない。一瞬でもその光景を夢見なかった訳では無いが、彼との関係を思えば非現実的であった。
 だが流石に此処でずっと雨宿りを付き合わせるわけにもいかない。大体、彼が付き合う義理もないのだ。ただ千世が根拠のない自信で傘を持たずにいるだけで、浮竹は手に立派な朱色の蛇の目傘を持っている。

「隊長は先に帰られてください、私はもう少し雨宿りしていきます」
「なんだ、そんな寂しいことを言うなよ」
「ですが……いつ止むか分かりませんよ」
「別に急ぎの何かがあるわけでもない。それに、良い場所を知っていた事を思い出した」

 彼は、そう雨に似つかわしくない輝くような笑顔を見せる。ついておいで、と軒下を伝って浮竹は背を向け進み出すと、千世はその唐突な行動にぽかんと背を眺めていた。が、振り返り手招きをされ慌てて追いかける。
 狭い軒下を雨に濡れないよう壁に沿って進みながら、一体何処へ連れて行かれるのかと皆目見当もつかない。この辺りはいつも足早に通り過ぎていたから、何処に何があるとか何件空き家があるかなど全く分かっていなかった。
 暫く進むと、半開きになった門戸まで辿り着き、浮竹は遠慮なく手をかける。思いもよらない大胆な行動に、千世はぎょっとした。

「隊長、良いんですか」
「良いんだ、今は誰の屋敷でもないんだから」

 案外軽い調子で浮竹はそう言って、苔の生した木の門を開き身体を滑り込ませる。千世は戸惑いながらも、彼に続いて屋敷の敷地へと入り込んだ。
 敷地の中は、思っていたほど空き家という様子ではなかった。屋敷へと続く飛び石はその肌を見せているし、背の高い雑草が生え散らかっているわけでもない。
 家屋には蔦が這い確かに古びていたが、放置された月日にしては朽ち果てているような様子は無い。脇に植えられた紫陽花が白や青、赤と色とりどりの花を見せ、青々と濡れた葉と交じりどこか幻想的な光景だった。
 思わず、わあ、と小さく声を漏らす。彼は千世の反応に満足だったのか、嬉しそうに頬を緩めた。

「近所の子供達の遊び場になっているみたいでね。案外手入れされてるだろう」

 浮竹はそう言って、目の前の光景に目を細める。雨は先程より弱まり始め、紫陽花の葉は早速雫を弾いている。根に水分をたくさん吸い込んだのか満足気で、しとしとと地面に染み込む雨音の中一層鮮やかに、品よく佇んでいた。
 隊舎付近の屋敷に住まう子供に浮竹はよく懐かれているというのは、千世もよく知っている。この通りの空き家が子供達の秘密基地になっている事を知ったのは、彼らの遊びに付き合っていた折なのだという。
 空き家となってからというものの、この屋敷を所有していた貴族に仕えていた者たちが不定期で手入れの為訪れていたらしい。人が住まうことは叶わないが、せめてもと子供達の遊び場として安全に使えるよう手入れしてくれていたのだという。

「まだ主が居る頃、特にこの離れは紫陽花屋敷なんて言われて有名だった。俺もよく覗きに来ていたよ」
「きっと昔から大切にされていたんでしょうね。種類も沢山、手入れもよくされていて……こんなによく通っているのに、全然知りませんでした」
「それはそうだ。子供達に秘密だと言われていたから、俺も律儀に守っていたんだ」
「秘密なのに……良かったんですか?」
「大丈夫さ。千世も秘密にしてくれるだろうし、それなら守ってるも同然だろう」

 そう笑う浮竹に、千世は自然と心拍が上がるのを感じる。狭い軒下で雨の中佇むなど、普段ならばただでさえ体が濡れて湿気の不快感で狂いそうなものだというのに、この目の前の鮮やかな光景と、隣で穏やかに微笑む彼のせいで一生続いても良いとすら思う。
 千世もつられて口元を緩めながら、彼の視線に答えるようにうんうんと頷いた。自信を持って傘を持たずに出た自称晴れ女の浅はかさを、今ばかりは許さざるを得ない。

「嬉しそうだな」

 横から掛けられた声に、千世はびくりと跳ねる。この状況が嬉しいのは当たり前だが、それを指摘されるというのはどうにも照れくさい。
 すみません、と咄嗟に恐縮すれば、彼はどうして謝るのかと笑った。

「そうやっていつも素直に喜んでくれるから、色々と見せてやりたくなる」
「隊長は、私が知らない事を沢山知ってらっしゃるから……でも、知っているものでも、隊長と一緒だと、少し変わります」

 そう答えているうちに彼の目線が刺さってまた恥ずかしくなり、顔を逸らした。だが、言葉のとおりであった。
 初めて見るものや事は勿論、よく知った景色や光景であったとしても、彼と共にとなればそれはまた少し違うものとなる。紫陽花だって別に初めて見たわけでもないというのに、雨に静かに濡れた花弁はまるで生まれて初めて知ったような鮮やかさに思えた。
 根が素直なのではない、彼の前では無意識に素直になる。それを取り繕うと思わないのは、彼がいつも穏やかに受け止めてくれるからなのだろうと思う。

千世と過ごす一年は、あっという間に思えるよ」
「それは、私も同じです」

 千世がそう瞬時に返すと、浮竹は目を丸くさせ、ぱちぱちと瞬いた。流石に食い気味過ぎたかと千世は身体を固まらせる。

「……そう迷わず答えられると、案外照れた」
「い、いや、ええと……すみません」

 そう僅かに目線を逸らした浮竹に、照れたのはこちらの方だと言いたいほど、頬がかあっと熱くなる。また雨を浴びれば多少この頬の熱はマシになるだろうか。
 そう思って前を見ると、いつの間に雨粒はほぼ見えないほどになっていた。

「弱まってきたみたいだな」
「本当ですね、少し明るくなってきたような気がします」

 空を見上げると、木々の隙間から僅かに雲の切れ目が見える。雨も徐々に小降りになり、この様子ならもう間もなく太陽が顔を出すだろう。少し長めのにわか雨だったという訳だった。
 雨樋を伝う雨水の音に対して、地面へ落ちる雨音も屋根を叩く雨音も聞こえない。となれば、狭い軒下で過ごす時間も間もなく終わるのだろう。
 自然と込み上げた溜息を、千世はそっと細く吐き出す。

「止まなければ良いと思ったかい」
「えっ!?…い、いえ……何で分かったんですか」
「どうしてだろう。俺もそう思っていたからかな」

 浮竹がそう静かに返した言葉に、千世は黙ってひとつ頷く。そうして静かにしていれば、この小雨がもう少しばかり続いてくれるような気がしたのだった。

(2023.06.14)