明日

おはなし

 

 風呂上がりにその火照った身体を冷ます夜風を浴びていた。
 春が終わり夏前の、梅雨の匂いを感じ始める少しだけ湿った風が吹く夜だった。空は少し黒い雲が浮いていて、三日月は隠したり現したりを気まぐれに繰り返している。
 松の葉越しに月を見上げながら、しんとした深夜の音を聞いていた。

「まだ寝ないのか」
「ああ、いえ……もう寝なくてはいけないとは思っているのですが」
「明朝は現世任務だったろう」

 そうなんですが、と千世は語尾を濁す。浮竹はもう布団に潜りかけていたようだったが、千世の様子を不思議に思ったのか抜け出し、ぺたぺたと足音を立てながら横へ来ると胡座をかいた。
 そうぼんやりした答えを返せば、彼が心配することは分かっていた。普段ならば適当に誤魔化していたのだろうが、今は取り繕おうとは思わなかった。
 不安そうだな。浮竹は千世の横顔を眺めながら、そう呟いて笑う。千世は否定も肯定もせず、ううんと小さく唸った。
 彼の言うように、明日は実に数カ月ぶりとなる討伐任務であった。以前までは一月に二、三度は出ていたのだが、ここまで間が空いた事は今までない。負傷者が増え、人員が不足したため急遽決定したのだった。
 予定では日の出から間もなくに出発となっているから、もうとうに眠っていなければならない時間である。
 昔から現世任務は楽しみの一つだった。興味はあるものの、あまり頻繁に訪れることの出来ない現世の観光も兼ねながら、手応えのある敵との戦闘は流魂街の外れや森の中での任務と比べて胸が躍ったのだ。
 しかしどうにも、明日の任務は珍しく気乗りしない。今日の夕方に決まった事だったが、その後は気もそぞろで落ち着かず、残っていた仕事も切りが良いところで終えて残してしまった。

「昨日、怪我の子達を見舞って来ました」
「ああ、聞いたよ。俺も今日寄って来てね。皆元気そうで安心した」

 そうだとは知らなかった。千世が昨日見舞いに訪れた事は、隊士達から聞いたらしい。
 四番隊の救護棟で入院をしている隊士は現在十数名に上っている。春が終わる頃は皆気が緩み易いのか、虚の動向が活発になり始める事も加えて毎年人員不足に陥りやすい。
 幸いにも今回は皆軽傷であと数日もすれば続々復帰となるが、まだ薄っすら残る傷跡は痛々しいものばかりだった。千世自身も含め、死神を続けていれば皆傷の一つや二つ必ず身体に持つものだが、好んで傷つきたいと思う者は殆ど居まい。
 軽傷と言っても骨が折れ肉が削げるほどのもので、無事とは言い難い。しかし意識があれば、四肢が残れば軽症である。だが万が一もう一寸でも攻撃がずれていたならば、と嫌な想像ばかりが頭を過ぎった。
 今の自分がもし同じ一撃を受けたとして、避けることが出来たか分からない。刀の振り方や身のこなしを忘れていやしないかと、漠然と不安であった。修練場に足を運び少し模擬刀を振ってみたものの、たかだか自主練習である。
 昔は心躍った現世任務だというのに、今は流魂街の巡回ですら心もとなく思え情けない。副隊長にも任じられ、死神となってもう数十年も経っていながら今更滲み出た感情に俄に焦る。

「明日が来ることは、きっと当たり前ではないですね」
「今更どうした。よく分かっていたことだろう」
「そうなんですが……刀より筆を持つ時間が増えると、忘れかけそうになります」

 そう言い終えてから、あ、と一瞬息を止める。致命的な愚痴を零した事を自覚し、すみません、と気まずく頭を下げた。愚痴を零すまでのつもりは無かったのだ。ただ少し心が凪ぐまで、傍に居てもらおうかと思っただけの筈だった。
 明日が来ない事がこの職業では当たり前のように有り得る事を、病棟の彼らを見て思い出した。霊術院の一回生でも習う必要がないくらいの大前提であった。無数の書類に忙殺されている間に、すっかり死神としての使命感が鈍ったらしい。
 彼らは彼らの技術や力でもって最悪の結果を避けたが、もし自分であったらと嫌な想像をした。今の自分ではよもや避けられぬのではないかと、ぞっとしたのだった。
 たった数ヶ月刀をまともに握らないだけで、ここまで自信を喪失することにも驚いていた。その程度だったのかとも思った。
 すみません、と千世は少しの無言の間に耐えられず呟く。こんな情けのない弱音を聞かされ、流石に気を悪くしたか。だが彼の表情を確認する勇気は出ず、じっと松の葉越しの月を眺める。

「安心したよ」
「……あ…安心ですか…?」
「弱音らしい事を久しぶりに聞いた」

 浮竹は千世の呆けた顔を見て笑う。安心という言葉の意味も、そして笑われる意味も分からず、千世は思わず顔をしかめた。

「そんな顔をするなよ」
「でも、私は結構……真剣に落ち込んで居たんですよ。数ヶ月刀を握らないだけで、こうも不安になるとは思わなかったので……」
「はは、そうか。だが、不安を自覚できるんだから偉いじゃないか」

 偉い偉い、と子供を褒めるかのような軽い様子に、千世はしかめていた顔から力を抜く。
 一日思い詰めていた事だったというのに、拍子抜けをした。
 優しく慰められることを期待していた訳でもないが、かといって穏やかに微笑まれても戸惑う。だがその顔を見ていると、今までの漠然と渦巻いていた不安が、ぼんやり薄まるような気がする。
 あれだけどんよりと濁っていた気分が、別にその悩みが解決されたわけでもないのに澄んでいく理由が分からない。
 口に出したことに満足したのか、それとも凡庸な悩みだったのだと気づき、取るに足りないと開き直ったのか。

「そんなに不安なら、明日の任務は俺がついて行こうか」
「えっ!?やめてください、結構です」
「遠慮するなよ。と言っても、俺も暫くぶりだから……うまく刀を握れるか不安だな」
「隊長が仰ると嫌味に聞こえますよ」

 心外だ、とでも言うように浮竹は眉を上げるから、千世はくすくすと笑う。
 二人の間に流れる時間は、しんとした梅雨前の湿った夜にあまり似合わぬ清爽さであった。

2023/6/2