立夏

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立夏

 

 しばらく風の音を聞いていた。
 日当たりの良い場所においた書見台で本を開き、文字を目で追いはじめた筈だった。しかし一向に中身は頭に入って来ない。何度も同じ行を目で追っているものの、頭が理解することを放棄しているのか、紡がれる物語が今はただの文字の羅列であった。
 意識は散漫で、庭の木々のざわめきや吹く風の音、鳥の囀りと、塀の外から時折微かに聞こえる話し声にばかり注意が向く。
 楽しみにしていた作家の新作だった。文芸誌で百年近く連載の続く勧善懲悪の長編大作で、未だに根強い人気を誇る。書店で予約をして手に入れるほど楽しみにしていた筈だというのに、どうしても今は頭に入らない。
 浮竹はとうとう本を閉じると、立ち上がり庭へと出る。初夏を迎え青々とした葉を揺らす盆栽へと近づくと、鋏を手に少し伸びた枝をぱちんと落としてみる。これが良いのか悪いのか分からないが、どことなく格好が良くなった気もしないわけではない。
 もう二、三回同じように少し枝を落とし、ううんと唸った後に鋏を置いた。普段ならば分からないなりに満足をするのだが、今日はどうにも腑に落ちない。
 それから庭をぐるりと見回った後、気になる雑草を少し抜いてまた縁側へと戻った。
 どうにも、ぱっとしない休日である。一日を無駄にしかねないこの状況に焦り、再び書見台の前へ戻るとまた何度目かの一頁目に目を落とした。
 が、やはり同じであった。まるで集中できない。小さく嘆息し、上へ目線を上げる。木目の天井を少し見つめた後、今度は長いため息を吐いた。
 千世が昨日から尸魂界を離れていた。女性死神協会の慰安旅行という事で、現世の初夏を温泉や山歩きで楽しむらしい。
 休暇の申請自体は数ヶ月前から出ていたし、繁忙期というわけでもない。申し訳無さそうにする彼女に、日頃の疲れを癒やしてきなさいと笑顔で昨日の朝は見送ったのだった。
 浮竹はふらりと立ち上がると、伝令神機を箪笥の引き出しから取り出す。以前は通話と簡単な虚の霊圧検知程度しか出来なかったものが、最近では映像やら写真やらを届けられるようになっているらしい。
 技術の進歩とは目覚ましい。若い隊士たちは易易と使いこなしているが、浮竹はどうにも慣れない。連絡の手段として若者には無くてはならないものになりつつあるようだが、同じく若者であるはずの千世は業務上使うくらいのようで、殆ど使用の場面を見たことがなかった。
 苦手とはいえ、浮竹も同じく業務上使用しなくてはならない場面はある。定期的に技術開発局が最新機と交換をしてくれているのだが、そのせいで余計に使用するのが億劫になった。昔はまだ、通話くらいで操作が簡単だったのだが、今はまるで分からない。
 だからそのほとんどは雨乾堂の茶箪笥に仕舞っていて、瀞霊廷を離れる時には一応懐に入れて持ち出している。だが、昨日からは自宅へ持ち帰っていた。
 というのも彼女が連絡をすると昨日、出発の前に言い残したのだった。別に一日や二日の旅行に心配などしていないと伝えたのだが、そういう事ではないとか何とかともごもご言葉を詰まらせる。
 そうお願いをされて、持たないと頑として拒否をする理由もないから、彼女の望み通り伝令神機を二日間携行しているわけだった。
 暫く懐に入れて度々取り出して、画面を確認しては仕舞い、また少し置いて取り出しては仕舞う。連絡をすると言った割には何も伝令神機に変化はなく、無言を貫いている。
 連絡をすると言うから、珍しく肌身はなさず携行していた。
 いつ鳴るか分からないからそわそわと落ち着かない時間が続き、本を読んでいる間だけでもと箪笥へ仕舞っていたのだが結局集中できず、伝令神機を手にしてしまっている。
 そして相変わらず、画面は真っ暗なまま変化はない。少し振ったり揺らしてみるが、何も変わらない。浮竹は神妙な顔で画面を見つめる。彼女が約束を破るような事は、今まで一度として無かったのだ。
 何かあったのではないかと不安になる。とはいえ、今回の慰安旅行には隊長の卯ノ花をはじめ女性副隊長や女性席官の面々、現世では四楓院が合流するとも聞いている。よほどの強敵でも無い限り安全、むしろ逆に危険とさえ言える戦闘力を誇る。
 あまりに楽しすぎるがゆえに、連絡をする約束など忘れてしまったのだろうか。気の置けない女性同士での旅行中に、身も心も癒やされているに違いない。
 それならば良いのだ。日頃書類と対応に追われる彼女が、そうして解放される時間は必要だと思う。
 恋人とはいえ、彼女の直属の上司として過ごす時間のほうが断然長い。休日の度に共に過ごしているのも、時々は疲れに感じる事もあろう。同性で友人同士のように過ごす時間を大切にするのは当然だ。
 畳の上へ伝令神機を置いた浮竹は、腕組みをしたまま唸る。まるでこの状況、この解せない感情にどうにか折り合いをつけるように、浮竹は頭の中で目まぐるしく言い訳をしていた。

「隊長!!」
「……千世?」

 庭からの突然の呼びかけに、浮竹ははっと目を見開く。一瞬空耳かと思ったが、庭に突っ込むように降り立った姿を見た。その勢いに、土煙が舞っている。
 あまりに彼女のことを考えすぎて幻かと思った。彼女が帰るのは夕方もしくは夜だと言っていた。まだ昼過ぎで、帰宅するには早すぎる。
 まだ義骸に入ったままの姿で、荷物を背負いワンピースに身を包んだ彼女はバタバタと駆け寄ると靴を脱ぎ散らかして、荷物を放り浮竹の傍に駆け寄り、滑り込むように座った。よほど焦って来たのか、うっすら汗が滲んでいる。

「何かあったのかと思って、心配しました!」
「心配……?どうして」
「ど、どうしてって、隊長ずっと繋がらないし、返事も来ないし……」

 浮竹は千世の焦った顔を見つめながら、返事、と頭で繰り返す。
 返事も何も、連絡をくれていないのは千世の方だというのに。浮竹は目の前に置いた伝令神機を手に、ほら、と画面を見せる。
 彼女はそれを受け取ると、画面を指で触れたりした後に、ぐったりと項垂れた。

千世が連絡をくれるというから、待っていたんだよ。……だが、何も来ないから」
「だって、電池切れてます!!繋がらないに決まっています」

 見せつけられた真っ暗な画面に、浮竹は腕を組み直し、気まずくて少し俯く。
 言われてみれば、本体と共に充電器というものを一緒に渡されていた。初めの頃は隊士に習ってたまに充電をしていたのだが、すっかりそんな事も忘れるくらい最近では触っていなかったのだった。
 電話が繋がらないから何度か文書も送ってくれたらしい。だが、どちらにしても電源が入っていなければ何の意味もなさないという事だ。
 千世は呆れているのか、力が抜けたようにぐったりと畳の上へ横になる。何かあったのかと心配で、少し早めに一人で帰ってきたのだと言うから、情けなさに申し訳無さが混じり、ごめんと頭を下げた。
 彼女は慌てたように少し身体を起こし、ぶんぶんと頭を横に振る。

「い、いえ、良いんです!元々、旅行中に連絡したい、なんて私が急にお願いして……」
「それは別に構わなかったんだが、どうして急にそんな事を言いだしたのか不思議だったよ」
「……そうですよね」

 千世は再び寝転がると、少し照れたように笑って顔を逸らす。
 やはり何か理由があるらしい。浮竹はひとつ伸びをすると、同じように彼女の横へと寝転んだ。初夏の昼下がりは風が優しく、実に良い心地である。
 寝返りをうち、彼女へと身体を向ける。言葉の続きを促すように目を見つめながら、自然と頬が緩んだ。

「最近借りて読んだ、現世の小説で……恋人同士がお互いに離れた場所に居ながら、声を聞きたいからと夜に電話をする場面がありまして……それに憧れました」
「はは、そうか。成程」
「すみません……子供みたいですよね」

 頬をより一層赤くした千世は、誤魔化すように手のひらで頬をぱちぱちと叩く。
 そんな可愛らしい理由で良かった。浮気でも心配されているのかと思わなかった事もない。一瞬でも訝しんだことを恥じらいたくなるくらいの純真さに力が抜けた。
 子供みたいだとは思わない。読んだ物語に憧れるというのはよくある事だ。自分がまだ見ない世界を知り、触れたいと思うのは至極当然だろう。
 今書見台で寂しげにしている本は、丁度千世くらいの年の頃に初めてその第一巻を手にしたはずだ。その主人公の痛快な活躍に、漠然と憧れを抱いたものだった。
 そうふと思いを馳せていれば、彼女が顔の前でひらひらと手を振っている。大丈夫ですか、と声を掛けられ、焦点を彼女へと合わせた。

「今夜で良ければ、電話をしてみようか。俺は雨乾堂で休むから、千世は此処で……」
「えっ、いえいえ、別に大丈夫です」
「だが……」

 現世と尸魂界ほど離れた場所は難しいが、電話を通して声を聞くという望みならば叶えることが出来る。せめてと思っての提案だったがあっさりと断られ、浮竹が眉を曲げれば彼女はくすくす笑った。

「皆で夜、宿近くの丘に登って星を見たんです。それがすごく綺麗で、隊長にも教えてあげようと思って」
「へえ……そうか。それで電話をくれようとしたのかい」
「はい。でも、今思えば電話しても別に星空を見せられる訳でもないのに……何ででしょうね、声が聞きたくなりました」

 そう呟き、ゆっくり瞬きする彼女に、一瞬息を潜めた。胸の奥でじわりと沸く心地よい熱に、心拍が僅かに上がる。
 彼女が不意に見せる剥き出しの愛情に、何より弱かった。普段は懸命に働きまわりながら、素直で愚直で、だが二人きりになると時折こうして避けようのない愛念を叩きつけてくる。
 それにどうにも慣れず、弱かった。この歳にもなり簡単に動揺することも少なくなったというのに、彼女にはいとも容易く揺らされる。
 浮竹は答えられないまま、彼女の伏せた瞼がぱちぱちと瞬くのを見つめていた。余計に後悔が募る。たとえ同じ状況を再現したとしても、昨晩の彼女と同等の思いを乗せた声を聞くことは叶わないのだ。
 まさか日頃から伝令神機に触れていない事に、こんな形で後悔することになろうとは思いもしない。

「でも私、ひとつ思ったのですが……電話をしたら逆効果だと思うんですよね」
「逆効果?どうして」
「電話で声を聞いたら、多分もっと会いたくなってしまうと思うんです。……だから、昨晩は繋がらなくて良かったかなと……」

 そう尻すぼみで答えた千世に、浮竹は自然とその頭に手を伸ばしぐしゃぐしゃと撫でた。ひとしきり撫で回した後、突然のことに困惑した様子で彼女は髪を必死で指で梳かす。
 乱れた髪がふわふわと風で揺れる呑気な様子を、くすくすと笑いながら眺めていた。

(2023.05.23)