穀雨

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穀雨

 

 折角の休日だというのに、朝から隊舎へと出てきていた。
 というのも昨日、書類提出のために訪れていた一番隊舎で偶然出会った九番隊の檜佐木に声を掛けられた事から始まる。神妙な顔で何かと思えば、裏庭で筍が取れたから持っていって欲しいということらしい。
 そういえばもう筍が顔を出す季節だったかと、ぽんと手を叩きながら千世は二つ返事で了解した。

「こんなにくれなくても良かったのにな……」

 水を張った桶の中に浮かぶ白い筍の数々を見下ろしながら、千世はふうと息を吐く。朝から数時間を掛けてこの大量の筍のあく抜きと皮むきをようやく終えた。つるんとした身の白さが眩しい。
 今朝呼び出された檜佐木の執務室の縁側には、皮のついた立派な筍がずらりと並べられていた。今年はとにかく豊作だったとうんざりした様子を見るに、彼が全て掘り返したのだろう。
 全部持っていってくれという檜佐木にいやいや、と流石に断ったのだが、遠慮するなと籠に詰め始め結局その籠から少しはみ出るくらいの筍を背負わされてしまった。
 大きめ籠を持ってきてくれと事前に言われていたから、隊舎から一番大きい背負いの竹籠を借りてきたのだが、溢れんばかりの量を詰め込まれ肩がもげるかと思ったほどだった。
 助かった、と晴れ晴れした顔の檜佐木に見送られたものの、九番隊舎前で立ち尽くした。一般家庭の台所で捌ききれない量を背負い、さてどうしたものかと暫く地蔵のようになっていた。
 結局、仕方無しに隊舎の広々とした台所へと直行してはや数時間経つ。煮込んでいる間は暇だというのに目を離せないから、少し書類を持ち込んで雑務で時間を潰し、粗熱を取っている時間は結局執務室で未処理の報告書を片付けていた。
 せっかくの休日だったというのに、あまり普段と変わらない。かと言って何か予定があったという訳でもないのだが。だがこれでは、仕事の合間に筍のあく抜きをしているようなものだ。
 後の問題は、この量の筍をどう処理するかという事だった。とても一人で食べられる量ではない。
 だが、何も檜佐木は千世一人で食べるようにとくれた訳ではない。あく抜きを終えた筍ならば調理に手間もかからないし、後で隊舎で見かけた隊士に声を掛けてみようかと、桶に浮かぶ筍を見下ろした。
 その時、入り口の暖簾がひらりと揺れた。風かと何となしに見れば浮竹が顔を覗かせている。

「今日は休みじゃなかったか」
「た、隊長……お茶ですか」

 そう、と浮竹は頷きながら手元の急須を見せる。そういえば、大体この時間になると彼は眠気に負けそうになるようで、わざわざ自ら台所へ湯を沸かしに来る事が多いのだった。
 恋人として過ごして間もないとはいえ、出会いから数えればとうに慣れても良いはずだが、どうしてもその姿が不意に目に入ると動揺する。特に他に人の目が無いと余計にひどい。恐らく癖になっているのだろう。真っすぐ伸びる白い長髪と、隊長羽織の長い裾が翻るのを見るとぐらりと揺れる。
 霊術院から今まで、憧れていた時間の長さを考えれば仕方が無いとも思う。だが流石に彼の自宅へ招かれるまで進展していながら、この有様というのは情けない。
 跳ねた心臓を落ち着かせるように小さく深く息を吐く。突然姿が現れて初めこそ動揺するものの、流石にいつまでも続く訳ではない。平常心を胸で唱え息を整える。
 浮竹は千世の傍まで近づくと桶の中を覗き込み、浮かぶ筍を見つけて目を丸くした。

「筍か、丁度旬だったな」
「檜佐木君から、隊舎の裏庭で取れたからと大量に戴きまして……今冷ましている所です。あ……隊長、お湯沸かしますよ」
「ああ。ありがとう、悪いね」

 急須を受け取ると、やかんに水を汲み火をかける。彼に向けられた笑顔に、頬がだらしなく緩みそうになったのを寸前で堪えた。
 二人きりと言っても、隊舎の台所はいつ誰が顔を覗かせるか分からない。実際、筍の下処理をしている間に隊士がつまみ食いやらお茶汲みで何度も訪れていた。ただでさえ夕飯の当番が来てもおかしくない時間帯で、だらしなく緩んだ顔を見られでもしたら困る。

「これを千世が全部?」
「はい、あくが強くなると困るので早めにと……」
「とは言っても……この量は大変だったろう」
「もう一生分茹でた気がします」

 こんな事ならば大釜で一纏めにやればよかったかと思うのだが、準備が面倒で無精をした。後悔はしているものの、恐らく二度とこの量の筍を茹でることは無いだろうから反省はしていない。
 なおも感心したように筍を見下ろす浮竹に、いかがですか、と千世は尋ねた。適当に貰ってくれそうな人に声を掛けようかと思っていたのだが、調理など何もしていない素の状態だから人を選ぶ。
 恐らく、彼は普段から料理をする方ではないようだ。たいてい雨乾堂に居るから隊舎の食堂やら、瀞霊廷の食事処やらで済ませることが多い事は昔から知っている。隊長職の不規則で多忙な様子からして、趣味でもない限り自ら食事を用意をする手間も暇も無いだろうし、最も効率が良い。
 何度か招かれた彼の自宅では、食事は適当に買った惣菜で済ませたり、何度か千世が簡単に作ったこともあった。ほぼ使用された形跡のない台所と什器に積もった埃を指で掬いながら、彼の雨乾堂での生活を思い出して納得したものだ。

「炊き込みご飯で食べたいな」
「ええ、はい!筍といえば炊き込みご飯ですからね」
「ああ……今日の夕飯のことだよ」
「なんだ、今日ですか?それなら夕飯当番の子に頼みましょうか。たくさんありますから、他の献立にも……」
「いや、違う。家でだよ。今夜来ないか」

 そう笑んだ浮竹に、しどろもどろで千世は咄嗟に辺りを見回す。ええ、ああと返す言葉が分からず、ただ動揺で脈が僅かに上る。
 唐突に誘われた事に半ば混乱していた。今までは二人の休日が重なる日を千世がそれとなく伝えると、彼が察してそれならばと招いてくれていた。つまり招かれていると言うより、招かせていると言ったほうが正しいようにも思える。
 つまり千世から言い出さない限りは彼の自宅に招かれることはなく、最近はそれに気後れして言い出せずに居たのだった。
 初めての恋人、それも届かないと分かっていた相手と結ばれた事に、舞い上がり続けている自分が調子に乗って欲をかいている。そう自覚し自らを戒めていたところだったのだが、今の誘いで自戒は無に消えた。
 たとえ筍の炊き込みご飯が食べたいからという純朴な理由であろうと、彼から誘われた事実には変わりない。隊の夕飯として出されるものより、二人だけで楽しむ方を選んでくれたのだろう。
 しかし当の浮竹は千世の動揺など知るはずもなく、穏やかな眼差しを向け返事を待つ。
 それに返すように一つ頷き、と同時に長く息を吐き出した。誰がいつ来てもおかしくない場所で、頬を赤らめ指を遊ばせている場合ではない。分かっているのだが、彼のこの眼差しを前にするとどうしても普段のようにいかなかった。
 それは恐らく、二人で過ごす時にだけ向けられるものだった。彼は皆に等しく愛情深く、そこに差など感じたことは無い。というのはまだ彼と隊舎だけで顔を合わせる、単なる上司と部下の関係であった頃のことだ。
 薄っすらと熱が混じるのだ。昔から彼の笑みを向けられる度に暖かい陽の光のような安心を感じていたものだったが、思いが通じ合ってからは灼けるような何かが混じる。何より憧れていた相手の変化だからすぐに分かる。
 今だってそうだ。一瞬、二人で過ごす時のように彼の瞳は穏やかな熱をその奥に湛えた。だが次に目が合うともう影を潜めて、普段通りの笑みを見せている。
 徒に上げられた心拍がそう簡単に戻ることはなく、浮ついた気持ちをどうにか呑み込む。ああそうだ、と火にかけていたやかんの様子を思い出し確認するように彼に背を向け、その無機質な金属の表面をじっと見つめた。
 いっそ情けなくなるような舞い上がり方だ。やかんがかたかたと音を立て始める音で誤魔化すように小さく溜息を吐き出した。

「鍵を渡すから、後で雨乾堂に寄ってくれるか」
「は、はい……」
「俺は少し片付けたい事があるから、終わり次第帰るよ」

 ああ、はいと千世は頷きながら落ち着かず廊下の方へ視線を向ける。淡々と話を進める浮竹の言葉にあまり集中できていないのは、気配の感知に気を回していたからだった。
 小声ではあるものの、二人の間には独特の空気が漂う。誰かが突然顔を出しでもすれば、よっぽど能天気でもない限り何か違和感を覚えそうなものだ。せめてこの頬の赤さが落ち着くまでは、あまり人に顔を見せたく無い。
 浮竹は千世の気の散った様子に気付いたのか、どうした、と眉を上げる。千世は振り返るともう一度ちらと廊下の方を見遣ってから口を開いた。

「もうそろそろ、夜当番の方達が来るかもしれませんから……」
「何だ、そんな事を心配してたのか。まだ来ないよ、早すぎる」
「い、いえ、そんな事じゃないですよ、私が夕飯当番の時はもうこの時間に仕込みに来てましたから」
「ああ、確かに……こんなに早く来ているのは千世くらいだったな」

 浮竹は思い出すように上げていた目線を千世に戻して笑う。
 確かに夕飯の時間を考えれば多少早かったとは思っていたが、自分だけとは思わなかった。食事当番は数名いるのだが、もともと料理があまり得手でなかった千世は、下準備が時間内に終えられるかが不安で多少早めに顔を出していたのだ。
 そんな中で、浮竹がこの時間になると湯を汲みに来る事が多いことを知った。初めは驚いて申し付けられればいくらでも雨乾堂へ運ぶと伝えたのだが、眠気覚ましついでだからと彼は笑って首を振った。
 それから少しずつ、苦手意識のあった食事当番も苦痛ではなくなった。彼と会えるからと分かったからだろう。呆れるほど現金なものだ。

「そんな心配しなくとも、気配ですぐ分かるだろう」
「私は隊長みたいに器用ではないですから……」

 例えば殺意をむき出しにされていれば意識しなくとも分かるが、霊圧の扱いを心得ている隊士の微かな気配を察知するには、多少集中しなければならない。
 元々優秀な彼にはあまり分からない感覚だろう。不思議そうに浮竹が首を傾げると同時に、やかんがようやく、ひゅうひゅうと音を立て始めた。
 千世は火から上げると、急須に茶葉を流し込み湯を注ぐ。立ち込める湯気と、目が覚めるような緑茶の爽やかな香りが途端に鼻をくすぐった。蓋を締め、彼の方へ取っ手を向ける。

「ありがとう、お陰で目が覚めたよ。それに、楽しみも増えた」
「隊長、そんなに炊き込みご飯お好きだったんですね。知らなかったです」

 上機嫌な様子に、千世はそう言って笑う。よほど楽しみなのだろう。だが意外にも、彼は首を振った。普通かな、と機嫌よく答える彼に千世は疑問符を浮かべる。普通という割には、頬を緩ませ微笑んでいるのだが。
 そうですか、妙に思いながらも無理やり納得するように頷くと、浮竹は机上の急須を手に取りさっさと出入り口まで歩を進める。ぼうっとその背を見送っていれば、足を止めふと振り返った彼の視線とかち合った。

「ただ、良い口実になったろう」
「……こ、口実……?」

 そう繰り返し、ぽかんとする千世に手をひらひらと振り、暖簾を避けて去っていく。
 残された千世は風で揺れる暖簾を暫く見つめていた。口実、と彼が少しいたずらっぽく細めた瞳が蘇る。途端、思い出したようにどきりと胸が跳ねたと同時に、手元のまな板をひっくり返し、派手な音を立て床に落ちた。
 慌てて腰を屈め散らばった筍の厚い皮を一枚手にする。二人で過ごしたいと思うことに口実なんて要らないというのに。あの笑みの下に隠れた思いを感じる度、どうしようもなく高鳴る胸を抑えようがない。
 誤魔化すように深く短い溜息を一つ吐き出す。いつもならばもう落ち着いても良い頃だというのに、今はまだその様子がない。あの穏やかな眼差しの中の灼けるような熱が、目の裏に焼き付いて離れなかった。

(2023.05.16)