夜はお静かに

2023年5月3日
おはなし

 

 薄曇りの夜だった。月は雲の奥でぼうっとその光を放っている。風は少し吹いていたが、雲は絶えること無く空を覆っていた。
 今夜は数年に一度という親睦会であった。各隊の隊長、副隊長、三席までが出席する珍しい規模の宴会である。
 規模故に千世はどうしても気乗りしなかったが、その程度の理由で欠席が許されるわけではない。
 あまりに不安がる千世に浮竹は無理をせずとも良いと言うが、副隊長が参加しないのでは浮竹の面子にも関わるだろう。何より単なる自分の子供じみた我儘であることはよく理解していた。
 親睦会という通り平服での参加となり、それもまた悩みの種だった。何を着ればよいのか一月前から考えあぐね、結局松本に呉服屋への同行を頼み、彼女が選んだ通りの生地を仕立てた。
 緊張と不安で三日前から寝不足で、前日はまるで眠れず、仕事も身に入らない。前回の食事会に参加したという清音は、ただにこにこしていれば良いのだと言うが、きっと大量の隊長格を目の前にして引きつった笑顔しか見せられないだろう。
 どんよりとした気分が続き腹もあまり空かないまま迎えた親睦会であったが、結局、各隊長への挨拶で席を回っていれば時間は経ち、最後は慌てて食事を口に詰め込んだ。
 結局終えてしまえば、案外和やかな雰囲気で良かったと落ち着いて思い返すことが出来る。酒もやけに舌触りの良い上等なものだったから、悪酔いもせず気分が良い。
 取り越し苦労であったと言ってしまえばそれまでで、初めての親睦会だったのだから多少の動揺や緊張は致し方のないことだろう。

「あれ、清音さん達は……」
「今さっきまで前を歩いていなかったか」
「はぐれてしまったんでしょうか」

 お開きの後はまばらに解散をしていた。松本からは檜佐木や斑目との二次会へ誘われたものの、一度隊舎へ戻るつもりだからと遠慮した。死覇装へ着替えたいという事もあったが、ようやく心配事を終え、今日あまり手につかなかった仕事を軽く終わらせようかと思っていたのだ。
 清音からは呆れられながらも、同じ自宅へ帰る勇音を交え賑やかな帰路を辿っていた。そんな折、ふと背後から声を掛けられ振り返れば、浮竹が自分も隊舎へ一度戻るところだと言う。思わぬ偶然に戸惑いながらも、堂々と人前で横を歩くことの出来る幸運を一人静かに噛み締めていた。
 そうして週末の景気の良い繁華街をしばらく姉妹の背中を見ながら進んでいたはずなのだが、気づけば人混みに紛れ見失っていた。ふわふわと気分の良さそうな勇音を、清音が支えながらついさっきまで前を歩いていたはずなのだが。うっかり浮竹との他愛ない会話に夢中になっていた。
 千世はきょろきょろと辺りを見回すが、清音の目立つ髪色も、すらりと高い勇音の後ろ姿も見当たらない。浮竹のその背丈からでも見当たらないのか、まあ仕方ないかと眉を曲げて笑った。
 どうせ二人は隊舎へ向かわねばならないし、清音達とは道を別れることになる。わざわざ探すまでも無いだろう。
 二人だけでこの人混みを歩くのは落ち着かなかったが、今は親睦会の帰路という大義名分がある。彼の横を並んで歩く自分の足元を見ながら、自然と頬が緩んだ。

「隊長、今日はありがとうございました」
「何もしてないよ。一人でうまくやってたじゃないか」
「いえ……総隊長の前で声を掛けてくださって、本当に助かりました」

 総隊長を初めて目の前にし、あまりの緊張で挨拶をしながら何を話していたかまるで覚えていない。空回りしている様子に気付いたのか、浮竹が助け舟を出すかのように総隊長への酌に現れると、途端に場が和み我に返る事が出来た。
 そのお陰か緊張も徐々にほぐれ、普段通りの自分で会話を楽しめた。あのひどい有様を続けていたならば、今頃自己嫌悪で苦しんでいたことだろう。

「どうだった。あれだけ気を揉んでいた割には満足そうじゃないか」
「はい、異常なほど緊張はしましたが……皆様がお優しかったので」
「そうか。随分楽しそうにしてたね」

 はい、と千世は満足気に頷いた。浮竹や京楽、松本や伊勢といった普段から親しい友人らの助けもあって、初めて言葉を交わす隊長に粗相もなく終始落ち着いて会話が出来た。
 徐々に人気のない道へと進んでゆく。この時間ともなれば皆繁華街へ向かうか自宅へ帰るかで、隊舎近辺を歩く人影は少なくなる。賑やかな声が遠くなってゆくのを背で感じながら、ざりざりと砂利を擦って進んでいた。

「今更だが……良い仕立てだな、良く似合ってる」
「あ…ありがとうございます。乱菊さんが選んでくれました」
「目を引いたよ。綺麗だね」

 やめてください、と千世は恐縮して頭を下げる。
 さらに道を逸れ、静かな細道に入っていたお陰で幸いにも周りに人は居ない。だがいくら人目がないとはいえ、普段の彼ならば外で軽はずみな発言はしないはずだった。
 酔っているのかと彼の横顔を見上げるが、そういうわけでもないようだ。おかしい、と思いながらも、だが彼の言葉が頭に反響して自然と体温が上がる。
 知己の松本が選んでくれただけあって、色味も柄も気に入り、我ながら似合いの自信があったのだ。真っ先に彼に見せたかったが、あいにく着替えが間に合わなかった。彼の横の席についた時、特に何も言われないから多少しょぼくれていたのだが、考えてみれば皆が居たのだから当たり前だろう。

「隊長も楽しめましたか?」
「多少はね。だが、それより千世が心配だった」
「すみません、ご心配を……酔って粗相をしないよう、しっかり気をつけました」
「ああ……違うよ」

 違う、と千世はぽかんとして繰り返す。どこか浮竹の様子がおかしいように思うのは、気のせいか。その言葉の続きを口にしないまま、彼は淡々とした様子で進む。

「隊長、隊舎はあちらの道ですが」

 千世は一瞬足を止めるが、浮竹は振り返る素振りもなく進んでいく。薄暗いこの路地には、余程のことが無い限り通りかかった事は無かった。
 この先には高級料亭が立ち並んでいる。料亭と言っても、実際はそういう体をなした貸座敷である。というのを、千世はただ噂で聞いたことがあっただけであった。店の中へ入ったこともなければ、詳しい話を聞いたこともない。
 何しろ高級料亭と噂されるだけあって、ある程度身分の高い貴族や有力者など御歴々の御用達だという。人目を忍び何用で座敷を個人的に貸切るのか、密通や逢引と実しやかに囁かれているが、実際どうであるかは分からない。
 飲食店の立ち並ぶ繁華街からそう遠くない場所だと言うのにここはいつもひっそりと薄暗く、人通りはほぼ無い。何度か脇の道を抜けたくらいで堂々と通ったことは無かったのだが、今こうして少し進んだだけでも異質な雰囲気を漂わせていることはすぐに分かった。
 低い辻行灯が足元を僅かに照らし、顔まで灯りはほぼ届かない。まるで隠すようだ。点々と並ぶ店の看板にはぼんやりと灯り揺れているが、しかしどの店も人の気配がまるでない。
 店の二階の灯りはぼんやりと灯っているが、耳を澄ましても会食中のような話し声は聞こえる訳でもなく、何よりほど近い場所の竹林が風でざわめき邪魔をする。
 この薄暗がりで浮竹の背からあまり離れないように進みながら、ちらちらと周りの様子を眺めていた。

「……浮竹隊長、あの……この辺りは」

 この妙に湿った雰囲気に耐えきれず、千世は彼の背中に言う。と、ようやくその足を止めた彼が静かに振り返った。曇りのせいもあり余計に薄暗くて、この距離でもようやく表情がうっすら分かるくらいだ。
 千世に目線を落とした彼はゆっくりと瞬きをした。憂いを帯びたその眼差しに千世は思わずぐらりと胸が揺れる。

「もう少し二人で過ごしたい」
「それは、……隊舎で……」
「隊舎は夜警の子たちが居る」
「……居ては困るのですか」

 少し間を置き、困る、と浮竹は一言返す。
 千世は自然と息を潜め、じっとその顔を見上げていた。聞こえそうなくらいに心臓がどくどくと鳴る。酒のせいではない。
 いくらこの場所が薄暗くとも、彼の背丈やその長い白髪はよく目立つ。人通りが今は無いとはいえ、もし偶々通りかかった誰かにこの瞬間を目撃されてしまえば、今までこの関係を隠し通していた意味がない。
 すう、と息を吸い込む。彼の纏わり付くような視線に戸惑いながら、恐る恐る目線だけで見上げた。

「誰と何を話をしたか、全て教えてくれないか」
「……どういうことですか」
「言葉の通りだよ。先の宴会で誰と、何を話したか教えて欲しい」

 全部ですか、と千世は聞く。全部、と浮竹は穏やかに至極当たり前のようにそう返して頷く。
 これまでの言葉や彼の行動や態度を頭で繋ぎ合わせながら、吐き出す息が震えた。
 宴席で感じた彼からの視線は、緊張でから回る千世を案じてのことのことだとばかり思っていた。帰路で声を掛けられたのも偶々ではなく、清音達とも自然とはぐれた訳ではないのだろう。
 思い出してみれば、もともとこの親睦会の欠席を彼は勧めてくれていたのだ。無理をしないで良いと、不安がる千世を考えてのことだとばかり思っていた。

「妬かれているのですか」
「いいや、違うな。手繰り寄せたいだけだよ。君が少しでも離れると不安になる」
「い、いえ……離れてなんか居ないですよ、今だって」
「そう思えるならば苦労はしないさ」

 奇妙なのは、彼の声音が至って普段のように穏やかであることだった。指一本も触れないまま、ただじっと見下ろしその目を優しく細める。
 人目につくやも知れない場所で、徐々に融かされるような状況が居た堪れなかったが、逃げ出したいわけではない。この妙な雰囲気に気づけば絆されている。
 彼がその微笑みの下で何を思うのかを知りたい。だがそれを躊躇わせるのは、得体の知れない料亭の妖しげな灯りへの戸惑いと、それに誘われるかのように熱くなる身体の矛盾であった。
 彼へ向ける思いは一時も離れたことなど無いというのに、何が彼を煩わせるのか千世にはわからない。ただその柔らかな声音の裏に隠れる熱を確かに感じていた。

「このまま立ち話をしていても、人目につくだけだよ」
「……それは困ります。隊長だって……」
「それなら、早く頷きなさい」

 じっとりと見下されたままたおやかで、しかし僅かな威圧をもって落とされた言葉に、千世はゆっくりと首肯する。視線を戻しながらこの先への期待か不安か、混濁した感情が表情を歪ませた。
 浮竹は何もはっきりとこの先の事を口にしたわけではない。彼の何か淀んだ感情をじわりじわりと染み込まされ、ただよく分からないまま逃げ道を塞がれ気付けば追い詰められている。
 彼がこの先に望むものが、千世が勝手に思いなしているものと正しいのかもしくは思い過ごしであるのか分からない。故に動揺している。何故彼もはっきりと口にしないのかと、ほのかな苛立ちさえ覚えかけている。

「そんな不安な顔をしてくれるなよ」
「それは……隊長がはっきりと言って下さらないから」
「言っただろう、もう少し二人で過ごしたいと」
「では、無くて……つまり、それは」

 千世はそう言い淀む。はっきりと言えないのは同じであった。ならば苛立ちを向ける筋合いはない。

「だって此処は、その……」
「ただの料亭だよ。二人になるには丁度良い」
「でも、少し変わった店だと聞き及んでいますが」
「確かにもてなしは何も無いが……頼めば簡単なつまみか、茶くらいなら出してくれる普通の店だよ」

 あ、と口を開きかけた千世は間もなく腕を強く引かれ言葉を呑み込む。乾いた戸の音と同時に、石畳に細く灯りが伸びる。それを覆うように二人の影法師が灯りへと吸い込まれた。
 寸前、千世の頭に一瞬浮かんだ疑問は、竹林のざわめきから逃れるように閉められた戸と同時に滲んで消えた。

 

夜はお静かに
2023/5/3
(いただいたお題箱より)