花知れず夜に沈む-2

おはなし

 

 濃紺の夜空に、ふわふわと白い湯気が立ち昇る。その行方を目で追いながら、身体の隅まで染み渡るような湯の心地に深く息を吐き出した。

「年寄り臭いことやめてくれよ」
「お前だってやってみろ、同じ年寄りだろ。気持ちいいぞ」

 岩の縁に凭れ掛かりながら笑えば、やだねえと言いながらも京楽もぐったり天を仰ぎ、気分よさそうに息を吐き出した。
 急な密命であった。いや正しく密命と言って良いか分からないが、総隊長が直々に浮竹と京楽だけを呼びつけて、今夜中に発ってくれと言うくらいだから他言無用であるというのは言わずとも分かった。
 流魂街の、およそ瀞霊廷から五十里先にある薬師の元へ向かってほしいと言う。懇意にしている薬師に調剤してもらっている漢方が切れるから、それを受け取って来てくれと、つまるところお遣いである。
 何十年、いや何百年ぶりのお遣いだろうかと、話を聞かされながら京楽と思わず目を見合わせたものだった。
 普段は雀部を連れて自ら足を運んでいるようだが、今回は退っ引きならない状況で瀞霊廷を離れることが叶わないという。だから此度はお主ら二人に頼みたいのだと、そう頭を下げられれてしまえば断れるはずもない。
 幸いにも急ぎの仕事があった訳でもない。諸々は副隊長の千世に任せ、太陽が沈んだ頃早々に二人は瀞霊廷を発った。

「にしても、なんでわざわざボクらに頼むかねえ」
「先生も気が楽なんだろう。…だがこんな良い宿を取ってくれたんだから、釣りを返さなきゃならんくらいだな」

 薬師の住居は森の片隅にあり、茅葺屋根の小ぢんまりとした家屋だった。座標を正確に知らされていなければ、おそらく見逃していたくらいの質素な住まいだった。
 戸を叩く前に出てきた薬師はおよそ総隊長と同年代と思われる痩せた翁で、事情は既に知っているのかツガの重い薬箱を無言で手渡され、ぴしゃりと戸は締められた。
 何か他にやりとりでもあるのかと思えばそんな事もなく、早々に要件を終えてしまった二人は拍子抜けしたものだ。こんなことならば隠密機動へ依頼したほうがよっぽど早いのではないかと思うのだが、まあ良い。
 その時点でまだ朝方で、そのままとんぼ返りすれば日の沈む頃にはまた瀞霊廷へ戻れた。だがご丁寧にも休憩で使うようにと、ほど近い立地の宿を手配してくれていると言うのだから、それならば甘える他ない。
 この周辺は地下から温泉が湧くようで、確か、以前この奥地までではないが、近辺まで湯治に訪れたことがあったか。だが今回は総隊長が用意したというだけあり、以前泊まった宿とは比べ物にならないほど立派な佇まいである。
 仮眠を取った後に昼食を済ませ、折角だからと外湯に入れば思った以上の極楽にうっかりうたた寝でもしたいほどだった。湯が注がれる音が丁度子守唄のようで、実に心地が良い。
 千世を連れてきていたら、平たい岩を枕にでもして口を開けて眠りそうなものだ。無意識に思い浮かんだ姿は、浮竹の頬を緩ませた。

「どうせならこういう所は女の子と来たいと思わない?おじさん同士じゃなくてさ」

 緩んだ頬に気づかれたかと、僅かに身体を固くする。どうだろうな、と隣の男のぼやきに浮竹はせめて何とないように返した。
 京楽は湯を掬い、肩へ掛けながら長く嘆息する。浮竹の頬の緩みに気づいたという訳ではないらしい。ただひたすら残念とでも言いたげに、腑抜けた顔をしていた。
 良い歳をした男二人で色気がないのは当たり前だが、これはこれで何の気兼ねもなくぼうっと過ごせるから良い。だから浮竹は特別文句はなかったのだが、隣の男はいかにも不満なのだろう。彼らしいことだ。

千世ちゃんとは最近仲良く出来てるの」

 は、と浮竹は額の汗を拭っていた手を止める。
 移動に飽きた京楽が暇つぶしにどれほど根掘り葉掘りしてくるかと、多少は身構えていたのだ。だが結局今の今まで千世の名前の欠片も出ないからすっかり油断していた。
 散々交際が始まるまでのすったもんだを知られているというのに、今更何を身構える必要があるのかとは思うのだが、近いからこそどうにも気まずい。
 浮竹のあからさまな動揺に、京楽は呆れたような目線をじっとり向ける。

「……仲良くというのは、どういう意味で」
「どういう意味も何も、普通に。はあーやだねえ、むっむり助平は」
「………」

 墓穴を掘った。いい歳をした男が誂われ動揺していることがどうにも情けなくて、我ながら呆れ溜息を吐く。
 恋人となってしばらく経ち、関係もそれなりに進みつつある。だというのに、未だに彼女と過ごす時間を思い返した時の感情の揺れに慣れない。
 というのも、千世との交際について誰にどうこう話す機会がないからだろう。それこそ旧友の京楽くらいにしか彼女のことは伝えていないから、こうして彼と顔を合わせる時くらいしか千世の事をつつかれることが無い。

「……まあ、普通だよ」
「へえ、普通ねえ。じゃあもう抱いたんだ」
「は、はあ?お前はすぐそうやって……」
「えぇ!?まさかまだ抱いてあげてないの!?」
「は………」

 口を開いたものの、どう答えた所で誂われる未来しか見えず、結局溜息で終わらせた。京楽は驚愕したような表情をしているが、弁解するような気にもならない。
 果たして彼女を抱いたと言えるものか分からなかった。図らずも今まで過ごした夜の光景が蘇り、舌の根に溜まっていた唾をごくりと飲み込んだ。
 彼女とは数度、肌を触れ合う夜を過ごしたが、まだ肝心な行為にまで至っていなかった。異性に身体を許した経験のない彼女の負担を思うと、無理に先へ先へと進める気にはなれなかった。
 当の彼女は痛みに耐えてでもその先を望んでいるようだったが、痛みに歪む顔を見ると耐えられず、どれほど欲望が燻ろうが打ち止めた。我ながら見上げた理性だと思う。いや、理性なのだろうか。
 行き場のなくなった劣情が一人になった寝室で蘇り、ちり紙相手に吐き出していたものの、あの瞬間ほど虚しいものはない。一番恋しい相手の肌に触れていながら、最も望む場所に触れることが未だ出来ない虚しさだ。
 きっと怖いのだろう。一度彼女の泥濘みへ僅かに突端を埋めた事があったが、甘く痺れるような心地であった。頭は熱を持ち、目の前の姿だけに意識を支配されつつあることが恐ろしくなって、それ以上先に進むことが出来なかった。
 身体だけではなく、脳まで震えるような快感と甘い充足感が瞬間に駆け抜けたことが恐ろしかったのだ。一度越えてしまえば、今まで築いた彼女との関係が崩れ始めてしまうのかとも思った。
 部下としての信頼と、恋人としての愛情が別だとは分かっている。だが一度でも越えてしまえば、その境界が曖昧に乱れて混じるのではないかと怯んだ。
 意気地無しだと罵られれば、甘んじて受け入れる。肌に触れるまでに至ったのは単純な愛欲に他ならないというのに、その寸前で立ち止まる理由をああだこうだと並べ立てているだけだ。
 彼女の苦しげに歪んだ顔と、未知への恐怖が見える表情を目の前にしたこともその理由の一つだった。誰が好き好んで、大切に思う相手の目に滲む涙を見たいと思うか。
 急ぐ必要は無いのだと焦る彼女に伝えながら、燻った欲望を飲み下す理由が増えた事にどこか安堵していた。そうして理由を増やし、その先にどれ程の快楽と充足感が待つことを知っていながらも、理性の手綱を強く手繰り寄せることが出来ていた。
 まずい、と浮竹は背筋を伸ばす。この源泉がにごり湯であることに胸の内で感謝しながら、脳内を支配していた彼女の姿を無理に追い払う。

「そういえばこのお遣いのこと、千世ちゃんに言ってるの」
「いいや、詳しくは話してない。危険な任務ではないとだけは伝えたくらいだよ」
「へえ。千世ちゃん相手でも、山じいの言いつけ守ってんの。真面目だねえ」

 総隊長に他言無用と言われたのならば、いくらただのお遣い兼臨時休暇であったとしても、肉親にさえ漏らすことはない。真面目だね、などと茶化しながら京楽だって同じことだろう。
 彼女は必要以上に詮索するような性格でなかった。恋人となろうとも、職務となればあくまでも副隊長としての距離を保ち自らの役目に徹してくれていた。隊で長く経験を積み、誇りを持って職務に当たる者であれば当たり前なのだろうが、その当然が浮竹にとって何より有り難いことだった。
 そして今後いくら関係が変容しようとも、適切な距離を保ち続けてくれるであろう信頼があると思っていた。
 だからこそ、あの快感に支配される感覚が恐ろしく思えたのだろう。今までにない経験であった。その先を知ってしまえば、自分が戻れなくなるような気がした。
 甚だ勝手なことだ。彼女の身体の心配をしながらも、それと同じくらい意気地の無さが理由になっている。
 部下として彼女に覚える信頼と、恋人として過ごす時間の甘さとの乖離に大きく揺らぐ。あの真っ直ぐとした眼差しに熱が籠もる瞬間の、潤んだ瞳を前にする度に年甲斐もなく胸がざわつき、同時に臆病になる。

「寂しがってなかった」
千世が?どうだろうな。心配はされたが、いつもの調子だったよ」
「ああやってあっけらかんと見えて、存外寂しがりだったりして」
「たった二日だろう」
「寂しがりには、一日だって半日さえ堪えられないもんよ」

 冗談めかして、京楽は悩ましげに眉を曲げ頷いてみせる。
 一日二日会わないなどということは、そう珍しいことではない。以前のように彼女が半日以上の任務に出る事はほぼ無いものの、互いの休日の関係や、業務が立て込み執務室から丸一日以上出てこない事だってざらにある。
 出立前の会話を思い出す。寂しいと、一言くらいは口から零れやしないかと多少期待して、柄にもなくからかってしまった。留守を伝えた時、一瞬瞳が揺らいだように見えたのだ。
 結果的にそれが彼女の動揺だったのか、若しくは浮竹の単なる気のせいであったのかは分からない。それか、そうあって欲しいという幼い願いがそう見せていたのかもしれない。

「今日は九番隊との合同演習で、忙しくしているはずだよ」
「あら、そう。よりによって」

 京楽の含みを持った言葉に、浮竹は思い当たる節がなく眉をひそめる。
 寂しがる暇などないだろうと、そういう文脈で伝えたはずだが、何かを案じるような彼の表情は胸騒ぎを誘った。何だ、と促してみれば、京楽は湯からゆったりと腕を上げて大きく伸びをする。

「修兵君と千世ちゃんって同期だろう。仲良いって聞くよ」
「あの二人は良い友人関係だよ。心配するような……」
「そりゃあ分かってるって。それとは別に、九番隊士の中で彼女とお近づきになりたい男が少なくないって話、知らないだろう」
「……千世と?」

 どういう事かまるで分からず浮竹がぽかんと返せば、彼は眉を上げる。
 どうやら、副隊長へ昇格してからというものの書類のやり取りや何かと九番隊へ足を運ぶことが増えた千世に、少なからず興味を持つ男が出てきているということらしい。
 はあ、と浮竹は気の抜けた返事をする。その現場を見たこともなければ初めて耳にする話だったから、どう受け止めればよいのか分からない。
 彼が言うには、ほぼ無名に近かった女性席官が副隊長へ抜擢された事、さらにそれが檜佐木の同期となれば話題性は高いようで、彼女が九番隊舎へ顔を出す度ににわかに賑わうらしい。
 はあ、とまた浮竹は情けない声を返す。京楽が根拠のない噂を軽々しく口にする事は無いと知っているのだが、初耳だったため頷くしかできなかった。
 合同演習はほぼ一日演習班に帯同することになるから、演習相手の隊士と会話を交わす機会は格段に増える。別に彼女とどうこうなろうという事は無いのだろうが、興味という感情が何より厄介だということはよく知っていた。
 いや、しかし。京楽の言い出したことを話半分に聞いているフリをしながら、内心嫌な焦りに似たものを覚えていた。月に一度の合同演習には必ず顔を出していたというのに、今回は運が悪かった。様子が見れない。
 しかし問題は運が良いとか悪いとかそういう話では無い。にわかに芽生えた未熟な感情が存外重みを伴っていたことに、内心狼狽している。
 漠然と感じているこの焦燥が満たされるのは、恐らく帰舎して彼女の姿を無事確認した後なのだろう。
 自分で理解していたより更に単純な精神構造であることがどうにも情けなくて、天を仰ぐ。立ち昇る湯気は濃紺の夜空へと消えてゆく。岩の間から注がれる湯の音を耳にしながら、意識は五十里離れた瀞霊廷に向いていた。

「妙齢の女性は、風が吹いたら攫われちゃうからね」
「……つまりさっきから何が言いたいんだ」
「別に?年寄りらしくせっついてるだけよ。呑気に恋愛楽しむような年齢じゃないんだから」

 お前に言われたくは無い、と返したところでまた墓穴になりそうな予感がして口を噤んだ。
 呑気なつもりは無かった。だが大切に思いすぎるあまり、歩みが遅くなっていたのは否めない。
 風が吹けば攫われる。花弁が手の上に落ちて、自分のものになったと安心しているようなものか。その鮮やかさを目を細くして眺めている間に、突風でも吹けばもう二度と手が届かない場所にでも消えてしまうのやも知れない。
 交際が始まった当初から早く祝言を挙げろだなんだと彼が言っていたのは、冗談のつもりではなかったのか。

「焦ってきた?」
「何が」
「とぼけなさんな」

 不敵な笑みを口元に浮かべる京楽を一瞥し浮竹は短く嘆息すると、ゆっくりと湯から腰を上げる。これだけ長い時間だらだらと浸かっているのでは流石にのぼせてしまう。
 もう出るの。残念そうに声を上げる京楽を背に、手をひらひらと振る。
 湯を滴らせ硬い石畳の上をひたひたと進みながら、折角疲れを流れ落とした筈がずっしりと重い。胸の奥でつかえるような何かの理由を浮竹は素知らぬふりをして、せめて湯上りの涼しい風で火照りを冷ますのだった。

2023/04/16