春分

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春分

 

 今年の桜は随分と早いうちからその蕾を膨らませていた。
 三月に入って春の陽気が続いていたからだろう。二月末まで凍えるような寒さだったことが嘘のように、日中は眠たくなるような日差しが降り注ぐ。桜も気が緩んだのか、例年よりも早くその花を綻ばせはじめた。
 桜が咲いたとなって真っ先に騒ぎ出したのは仙太郎だった。毎年桜が咲き始める前に花見の計画を始めてくれているのだが、今年は予想外に早く開花したため焦ったらしい。
 隊総出で行われる毎年の花見は、日勤の業務終了後から翌日の明け方まで行われる。隊舎裏の屋外演習場には桜の木が数本植わっており、そのうちの一本は樹齢数百年ということもあってそれは見事に桜色で空を覆うのだ。
 その下で飲んで歌っての大騒ぎが、毎年の恒例であった。隊長が居たのでは気を遣って楽しめないだろうと毎年遠慮をするのだが、仙太郎や清音たちの強い要望で少しは顔を出すようにしている。
 だがそうは言っても結局はずるずると引き止められ、へべれけの隊士が目立ってきた頃にそっと抜けるのが通例なのだが。
 急な花見となり段取りが立て込んでいるのか、執務室から仙太郎の指示する声が耳に入る。ばたばたと廊下と台所を行き来する隊士達の足音を微笑ましく聞いていた。

「ありがとう。次回提出分はこれで最後かな」
「いえ、まだありますが……もう数えるくらいです。あとは隊首会用の資料を纏めて……」
「ああ、悪いね……いつも助かるよ」

 どさりと書類の束を置きながら千世は笑って、良いんですと首を横に振った。月締めの書類提出の期限が間近に迫っていたが、この様子ならば特に問題なく提出が叶うだろうと安堵する。
 毎月この時期が近づくと、提出が気がかりで息苦しい日々を過ごすことになるのだが、ようやく目処が立った。そうだ、と浮竹はさも今思いついたように彼女を呼ぶ。

「一息ついて行かないか、良い茶菓子を貰ったんだが」
「……すみません…とても魅力的なお誘いなんですが……」

 立ち上がりかけた浮竹は、千世の声音にぴたりと止まる。

「今日は花見のために、絶対に定時で上がりたいので……すみません、折角お誘いいただいたのに」

 そんな暇など無い、とでもいう様子である。彼女は頭を下げ、そそくさと部屋を去ってゆく。
 断られた。頭の中で一人つい呟く。浮竹は背筋を伸ばし、ぽかんとしたままぴしゃりと閉められた襖をしばらく眺めていた。
 いつもならば、ここで他愛ない会話でもして、息抜きを兼ねて僅かな時間、茶を楽しむものだった。だがこうお手本のようなつれない態度を取られ、予想外のことに思わず呆然としてしまった。
 二人だけの小休憩は、花見に負けたのだった。仕事の合間の一服はそう珍しいことではないが、花見は年に一度。あの様子ならばよほど楽しみにしているのだろうし、彼女の優先順位が下がっても致し方のないことだ。
 そう理由づけることで、浮竹はこの哀れな状況に納得しようとしている。だって、哀れではないか。今日一日執務室に籠もりきりだった彼女の息抜きにでもなろうと思って、いつ彼女が来ても良いように菓子盆にしっかりういろうを用意して茶箪笥にしまっていたのだ。
 それをぴしゃりと、にべもなく断られてしまったのでは、そわそわと準備をしていた自分が浮かばれない。
 いかんいかん、と浮竹は気を取り直して彼女の置いていった書類の束を手にする。仕方ないではないか。一年に一度の隊総出での花見、皆が心待ちにしていたように、千世も楽しみにしないはずがない。
 そう頭で独りごちていれば、ずるりと手が滑って紙の雪崩が起きた。
 どうにも、ますます情けない。呆れたように溜息を吐き出しながら、重い腰を上げ散らばった書類を集めに掛かるのだった。

 終業の鐘が鳴ると、隊士達は一斉に仕事を切り上げたようである。廊下を通る賑やかな声は、皆一様に浮かれていた。
 書類を切りが良い所まで目を通し終えてから、浮竹も執務室を出て宴会場へと向かう。僅かな当番隊士を残してほぼもぬけの殻となった隊舎を進みながら、道すがらふと千世の執務室を覗いてみたが当然灯りは消えた後だった。
 あれだけ楽しみにして、書類も大急ぎで仕上げていたのだから、まさか一人残っている筈がない。そう分かっていたのだが、ほんの僅かに期待して覗いてしまった。
 急に行く気が無くなってしまったのだと、そんな気まぐれでも起きはしないかと期待してしまった。あの昼間の様子からしてそんな気まぐれが起こるはずはないのだが、それを願ってしまうほど、どうやら尾を引いていた。
 襖を後ろ手でぴしゃりと閉められ、花見の優先度が自分よりも高い事を思い知らされた事が、浮竹は随分気に入らなかったようである。勝手に負けたような気になったのだ。彼女の事となると度々己の幼い嫉妬のような未熟な感情に気付かされ、その度に恥じ入りたくなる。
 あれが欲しいこれが欲しいと喚く子供のようだ。黙々と廊下を進みながら、馬鹿馬鹿しい事にいつまで頭を悩ませているのだと嘆息する。
 彼女が純粋に楽しみにしている宴会に、どうして水を差すような事を考える。良い歳をした男が。だいたい今夜の主役は桜だというのに、勝った負けたと考える事自体が失礼というものだ。一年に一度の見事な開花を、祝うため今夜の宴は催されるというのに。

「隊長、お待ちしておりました!」
「急な準備で大変だっただろう」
「皆に楽しんで貰えるなら、大した手間じゃございません」

 姿が見えた途端駆け寄ってきた仙太郎に労いの言葉をかければ、恐縮したように頭を下げる。これだけの人数の料理や酒を手配し、提灯や敷物等、会場の準備を短期間で行うのは簡単なことではないだろう。
 もうとうに始まっていた花見は満開となった桜の下、一面に敷かれた花ゴザの上に弁当と酒瓶を並べ、各々思い思いに仲間たちと歓談して過ごしている。これからあと一時間も経つと、半裸で踊り始める隊士が出てくる頃だろうか。
 今年もそう長居はするつもりは無いのだが、席につけば直ぐに渡された猪口へと酒を注がれ、いくら口へ運んでも次から次へと隊士が徳利やら酒瓶を持って現れ、絶えることが無い。
 花を楽しむ暇は無かったが、言葉を交わすことの少ない隊士達と顔を合わせることが出来るのは貴重な機会であった。普段は控えめな隊士も、今は酒も入って饒舌に武勇や夢を語る。その青い若々しさに目を細めながら、時間は瞬く間に過ぎた。

 予想通りに半裸で踊りだす隊士が周囲に増え始めた頃、ふと視界の端でふらりと立ち上がる姿が目に入った。
 ほんのり頬を色づかせた千世は、少しおぼつかない足取りで人の間を縫うように移動する。
 厠だろうか。隊舎の方面へ向かう小さな背中を自然と目で追う。
 ふと浮竹の回りをぐるりと見れば、ほとんど皆呂律も回らず、意識があるのか無いのかも分からぬような酒瓶を抱えた者達に囲まれていて、正気を保っているものは居ないようである。
 浮竹はすっくと立ち上がり、焦ったように惜しがる隊士達に直ぐに戻るからと、宥めるように残してその死屍累々を抜け出た。
 彼女が点々と人の輪を移動している事は知っていた。ついその場面が目に入っただけで、監視していたようなつもりはない。誰かに呼ばれて移動をし、ある者は彼女を目当てに移動をし。平凡で健全な宴会の一風景である。
 隊舎へと向かったように見えた千世の背中を追った筈だが、気付けばふと姿が消えていた。まだ隊舎まで距離はあるというのにおかしい。立ち止り辺りを見回すと、ほど近い茂みに影が見えた。
 まさかと思い近づいてみれば、薄暗い茂みに囲まれ、切り株の上に腰を下ろす千世の姿があった。思わずあ、と声を上げればぐったり頭を垂れていた千世は、恐ろしい速度で顔を上げる。驚き目を見開いた彼女は、飛び上がるように立ち上がった。

「こんな所で時間を潰して良いのかい、折角楽しみにしていたのに」
「時間を潰しているのではなくて……なんと言いますか…思いの外、息をする暇がなくて……」

 つまるところ、早くも疲れたらしい。浮竹はその様子に笑い、枝葉を避けながら気まずそうに身体を縮める彼女の元へと近づく。
 数時間ひたすら食べて呑んで、笑ってを続けていればいくら楽しんでいたとしても息切れくらいするというものだ。
 宴会場からほど近いこの場所は、山茶花や金木犀が雑多に植わって丁度天然の目隠しのようになっていた。この場所を以前から知っていたのか、もしくは偶々今見つけただけなのかは分からないが、まるで喧騒から逃れるために出来上がったかのような空間だ。
 賑やかな声は木々の向こうから変わらず聞こえていたが、不思議とこの場所は落ち着いた。自然と長い溜息が漏れる。

「桜、こんなにきれいに咲いていたんですね」

 彼女に手招きされ枝葉の隙間から覗けば、満開になった桜が重たく枝をしならせている。夜空に点々と散らばる星と、灯りに照らされて浮かび上がる花はいつまで眺めても飽きないことだろう。
 その真下の特等席に居たはずだったが、まるで花見の記憶がない。毎年のことだが、毎年学ばない。勿体ないことをしたな。思わず小さく呟けば、私もです、と隣でくすくすと小さく笑った。
 耳を心地よくくすぐる声だ。傍で自分だけに向けられた声を耳へ流し込みながら、沸々と甘い感情が沸く。
 昼間の、あの断られた時ぶりに二人きりになった。これだけ今日は声を発しながら、そのうち互いに向けたものはきっと一割にも満たない。それがどうにも、胸の奥でわだかまっていた。
 彼女が隣で暇そうにさせていた手を、するりと絡め取る。それから少し引いて、ふらりとよろけた彼女の身体を支えた。その体温が死覇装の上から手のひらへ、じわりと伝わる。
 正面で向かい合い、千世は浮竹を見上げたまま突然のことに目を丸くさせていた。驚いているのだろう。だというのに、薄暗い中でも分かるほど既に頬は上気し、唇は艶やかに濡れていた。
 腰を屈め、彼女の鼻先まで近づく。彼女の呼吸音がすぐ傍で聞こえ、脈拍が上がった。互いにほんのりと酒臭い。しかしまだ正気を保っている程度の、心地良い酔いを感じている。

「‎少し妬いた」
「え?な……何にですか」
「何だろうな。何という訳じゃないんだ」

 困惑した様子の千世に、浮竹は笑う。強いて言えば、この今に至るまでの状況に妬いているのかも知れない。細かい塵が堆積して出来上がった地層のように、何がという訳ではない。
 花見が悪いわけでも、彼女を取り囲んでいた者たちが悪いというわけでもなく、かと言って昼まで遡って、息抜きを断られた事が悪いわけでもない。

「男性隊士の輪に、入ってしまったからですか」
「そんな安い嫉妬じゃない」
「いや……す…すみません……お恥ずかしい」

 千世は顔を真赤にして、口をぎゅうと噤む。大切な隊の仲間に嫉妬をするほどまで、余裕を無くしているつもりはない。大体副隊長が隊士と会話を交わすのなど日常だというのに、いちいち妬いていたら身が持たないだろう。
 縮こまった様子に浮竹は笑い、彼女の頬を手で包む。肌の熱を確かめるように親指の腹で撫で、やがて距離を縮めて口付けた。
 枝葉の陰の向こうから隊士たちの賑やかな笑い声が聞こえる中、甘く柔らかく官能的な心地がちぐはぐで、どくりどくりと心臓が鳴る。
 彼女は一瞬驚いた様子で身体を硬直させたが、頬に添えていた手をそっと首まで下ろして撫でてやれば、やれば間もなく緊張は解けた。此処が屋外であることを後悔したくなるほど、唇はすぐに湿って馴染んでゆく。
 焦燥を僅かでも冷ましたくて、初めは少しだけのつもりだった。だが、少しだけで済むはずは無いのだ。それを誰より分かっているのは己しか居ないというのに、浅はかなことである。
 何度か断ち切るように唇を離してみたものの、彼女の物欲しげな目線に折れてまた触れた。
 燻っていた幼い嫉妬は、素直に頭を垂れるかのように鎮まっていく。その明確な原因が分からずとも、どうすれば気が済むかは知っている。唇を甘噛して舌に吸い付き、他の誰も触れることの出来ない場所を溶かす。
 結局、望んだ通りになれば取りあえずは気が済むのだ。だから幼いのだと揶揄している。

「……隊長、呼ばれてます」

 浮竹の不在が長いことを不思議に思ったのか、賑やかな声の中で時折探す声が耳に入る。千世はちらと背後を気にしたように目線をずらしたが、別に平気だろうと何度目か分からない口づけを再開させた。
 薄暗い茂みに隠れて、まだ早春の肌寒さを残す夜の空気の中、この場所だけが熱っぽい。酔いにやられて厠へ行きそびれた者が迷い込むことだってあり得るだろうに、そう頭の隅で冷静に思いを巡らせながらもこの心地からは逃れられそうになかった。
 酔いが回るほど酒を呑んでいないはずだったが、身体の奥がぼうっと熱くてたまらない。ぬるりと絡む舌の甘い体温にうっとりとしていれば、ふと、ふらふらこの茂みの方へと歩みを進める者の影が見えた。
 時間切れかと、名残惜しく唇を離す。だがこの場所でどれほど口づけを続けたところで、気が済んでも満たされることはないと分かっている。ならばいつ止めたところで、名残惜しさの程度に差は無いのだろう。
 目を潤ませ、吐く息を微かに震わせる千世をじっとりと見下ろしながら、その濡れた唇を指先で拭ってやる。指にかかる彼女の熱い息でさえ、今は焦燥をいたずらに擽った。
 彼女も間もなく近づく第三者の気配に気づいたのか、さっと身体を離し、緩んでいた表情を固くする。

日南田おい、お前こんな所で……て、あ、あれ!?隊長もいらっしゃったんですか!?すみ、すみません……!!とんだ無礼を…!」
「いや、もう済んだから良いんだ」
「い、いえ、申し訳無えです!折角、大切なお話中でしたのに…」
「本当に、もう終わったので大丈夫ですから!!」

 戻りましょう、と恐縮し続ける小椿の背を押しながら、皆の居る賑やかな方へと千世はそそくさ帰ってゆく。
 終わったとは薄情ではないか、まだ始まってすら無かったというのに。何か言いたげな目線に気付いたのか、一瞬振り返った彼女に浮竹はふっと目を細めて微笑む。途端に、逃げるように足を早めたその小さな背に息を漏らして笑った。
 間もなく、ぼうっとする意識を叩き起こすように、浮竹の居場所を探す野太い声が聞こえる。流石にこれ以上姿をくらましていれば、何処かで倒れているのではないかと勘繰るものも出てきそうなものだ。
 細い木々の薄い枝葉を掻き分け、浮竹もまた二人の後を追うように桜のもとへと向かう。
 身体の奥で燻った熱を夜風で冷ましながら、まだ一枚も散る素振りを見せない花弁が夜空に揺れるのを眺めていた。

(2023.03.14)