花知れず夜に沈む-1

2023年3月2日
おはなし

 

 出張、と千世は言葉を繰り返す。目の前に腰を下ろし、蕎麦を箸で持ち上げる男は頷きずるずるとすすった。
 隊舎の食堂で簡単に済ませようと、簡単な丼を注文し受け取りを待っていたのが十分ほど前のことだ。背後から声を掛けられ、振り返れば浮竹の姿があった。
 軽く挨拶をした後、受け取った親子丼を載せた盆を手に、適当に見つけた空席へ千世は腰を下ろす。と、どういう訳か珍しく彼も千世の後を追うように正面の席へと腰を下ろす。
 普段、彼は仕事の合間に食事を済ますことが多いから、今日も雨乾堂へ持ち帰るとばかり思っていた。千世は癖でつい辺りを見回したが、隊長と副隊長が食事を摂るくらい何ら不思議なことではないのだ、普通であれば。
 連れ立っていれば図らずも目立ってしまうものの、業務上何か必要があるのだろうと思うくらいで、隊士たちも特別気に留めるような様子は無い。
 普段通り今まで通りに過ごしていれば良いのだとそう意識するほどに、しかし妙に身体は強ばる。それは、数度過ごした夜の光景が彼の仕草とともに蘇るからにきっと違いなかった。
 情けないと自覚している。千世はより深い関係を望み、彼もまた恐らく同じように望み受け入れてくれた結果であった。そしてそれは畏れ多くも恋人としてであって、昼間に隊舎で顔を合わせる関係性に影響は無い。というよりも、出てはならない。
 そう言い聞かせるほどに、己の意識は真逆に進んでしまうのだから参ったものだった。業務に支障が出るまでではないが、彼を前にすると明らかに強ばる表情と不自然な笑顔、伸びる背筋はどう努力しても暫く改善されそうにはない。
 今の浮竹と恋人とは別人だと思い込めばよいのだと、少々無理のある逃げ道も試してみたが彼の笑顔を見ればすぐに塞がれた。それは肌を撫でながら、鼻先で見せる柔らかい微笑みとまるで同じなのだから仕方ない。仕方がないのだ。
 今だって目の前で蕎麦をすすり、味に満足なのか微笑みを見せている。その幸せそうな表情に、思わず自分も蕎麦にすれば良かっただろうか、と掻揚げを掴む箸をつい見つめていた。
 見つめながら、出張、と彼の言葉が今になって蘇る。随分ぼうっとしてしまっていたが、ようやく意味を理解したらしい。千世は持ち上げていた箸を丼へと下ろす。

「……出張ですか?」
「ああ。急だが、今夜から出ることになった」

 そうですか、と千世は頷く。隊長の出張とは珍しい。
 午前中用があって一度雨乾堂に顔を出した際に彼の姿が無く、執務室にも姿がなかった。偶々居合わせた小椿に聞けば急いで出かけたと言うから、恐らく急遽その任を受けたのだろう。

「お一人ですか」
「いや、京楽と二人だ。総隊長から仰せつかった命でね、二日で戻る」
「それは……何かの調査ですか」
「まあ、そんな所だ。危険な事は無いよ、少し遠いだけで」

 浮竹はそう言って眉を曲げ笑う。日没後に瀞霊廷を出て、およそ五十里ほど離れた目的地まで京楽と二人で向かうのだという。
 大した事ではないのだと彼は言うが、詳細を語らない所を見ると大切な命なのだろう。総隊長が直々に教え子の浮竹と京楽に命じるのだから、よほど込み入った任務に違いない。でなければ隊長二人が連れ立って流魂街に向かうなど、あり得ない事だ。
 しかしそれにしては随分彼は落ち着いた様子で、掻揚げをもぐもぐと咀嚼している。本当に彼の言う通り危険のない任務だというのだろうか。
 どうにも気の抜けるような様子を千世は不思議に思いながら、ようやく親子丼の二口目を口に運んだ。

「だが…明日の演練に顔を出せない事が申し訳なくてな」
「そんな気にされないでください。大切な任務ですから」

 彼が言うのは、明日に控えている九番隊との合同演習についてだった。準備の状況が気になっているようだったから、先日副隊長の檜佐木と打ち合わせをした内容を掻い摘んで伝える。
 小規模な合同演習については月によっては二度と、高い頻度で行われている。当初は慣れない打ち合わせや書類作成でばたばたとしていたが、演習相手となる隊の副隊長に初めの頃は主導して貰いながら今ではようやく慣れたものだった。
 隊長が演習に参加する事は無いが、浮竹はよく合間を縫って顔を出してくれていた。演習とはいえ、浮竹が顔を出せば士気が上がるから残念な気持ちはあったのだが、総隊長直々の命と天秤にかけてみれば仕方のない事だ。
 仕方ない、とそう一つ胸の内で千世は小さく呟く。

「寂しいかい」

 半熟の卵が絡まった鶏肉を口に運ぶ最中、耳に入った言葉に思わず千世は咽かけた。まさか、聞こえていたのか。いやまさかそんな筈はない。
 本格的に咽ぬようそっと呼吸をし、丁寧に咀嚼してごくりと呑み込むと、まだ違和感のする喉へ茶を流し込む。
 なにを、と千世は声にならない言葉を漏らす。不自然にならぬよう辺りをちらちらと見回してみたが、幸いにも周囲に人は居らず、浮竹の言葉を聞いたものは千世以外に居ないようだった。
 とはいえ、である。昼過ぎの食堂という賑やかな公共の場で、誂うようなことを珍しいと思ったのだ。もともと冗談を言うことも少ないというのに。

「心配するな、誰も聞いてないよ」
「た…隊長、もう少し声を……」

 普段と変わらぬ調子の浮竹はどうして、とでも言うように眉を上げる。周囲に誰もいないとはいえ、浮竹が手を二度ほど叩けば何処からともなく飛んでくるほど忠実な部下を抱えているのだ。こんな場所で、誰が会話を聞いていてもおかしくはない。
 寂しいかという彼の問いかけには答えぬまま、千世は黙々と丼の中身を口に運ぶ。どういう意図で突拍子もなく彼が尋ねてきたのか、まさか寂しそうな顔でも見せていただろうか。
 休日の関係や、何より彼は療養が多いから一日や二日顔を合わせないことなど大して珍しいことでもない。だというのに、彼から留守の話を聞いて身体の中が一瞬、涼しくなったのは違いなかった。
 瀞霊廷を離れるからだろう。五十里も離れた距離となれば、万が一があった際すぐに向かうことはできない。まさか、手練の隊長二人で何かが起こることなど億が一にもあり得ない事ではあるのだが。
 彼は与えられた任務を全うするだけのことだ。それに対して、他人が寂しいだの何だのと言うどころか思う筋合いすら無いというものだろう。だから余計にどう返答すればよいか分からず、眉間に皺が寄った。

「本当に、危険はないのですか」
「ああ。何なら、京楽に確認してくれも良い」

 そう言い切るのならば、信じるほかない。出来ることならば任務の詳細を聞いて余計に安心をしたかったが、しかし彼が自ら語らないものを無理に聞く事はできない。
 どこか含みをもったように、口元に緩く弧を描く浮竹からさっと視線を逸らし、千世は味噌汁を口へ運ぶ。

「寂しいのではなくて……心配なだけです」

 まだ先程の答えを待っているような様子の浮竹に、千世はぼそりと言う。
 この場合の寂しいという感情は、きっとしごく自分本意なものになってしまうのだと思う。寂しいと伝えたところで、その任務が中止される訳もない。ならば思うのも伝えるのも意味のないことだ。
 ただ任務が危険なものでないか、彼の命に危機はないかと心配に思うのは部下として何ら不思議でないだろう。
 だが、まるでこれでは寂しいという言葉から逃れるため己に言い聞かせているようだ。数日でも離れることを、恋人が寂しく思うのはきっと珍しくないし、不安に思う事だって何も間違った感情ではない。
 だがどうしても、彼の部下として過ごす時間の方が長いせいで、恋人としての感情を顕にすることに慣れないのだ。そしてそれは、一生このまま慣れないままなのではないかとも思う。

「寂しくないですから」

 この妙な空気に堪えられず、そう言い切ってむっとした表情を見せてみれば、そうかい、と浮竹は眉を曲げ笑った。
 柄にもなく、やけに頑なになってしまった。彼に身体の裏側を見透かされるようで、この情けなさを知られたくなかったのだ。
 少し生意気だっただろうか。早くもじわりと後悔のような、反省のような感情を感じていれば、さて、と浮竹が立ち上がる。気付けば彼の器はもう僅かな汁を残して空になっていた。

「後で、雨乾堂へ来てくれるか」
「ああ、はい。この後すぐが宜しいですか」
「いや俺の出立前なら、いつでも良い。ひとつお願いしたいことがあってね」

 お願い、と千世は頭の中で繰り返す。出立前に何か渡したい仕事でもあるのだろうか。
 盆を持ち上げさっさと席を後にする浮竹の背をぼうっと千世は視線で追いかける。白い長髪が靡き、長い羽織の裾が翻った。姿に気付いた周囲の隊士は次々に立ち上がると頭を深く下げ、浮竹は爽やかに挨拶を返しながら颯爽と去ってゆく。
 苦しくなるほどに憧れた姿だった。あの肌の熱を知った今でもそれは変わらない。汁に浸ってふやけた白飯を、千世はぼんやりと箸でつまみ口まで運べばすっかり冷めきっていた。

2023/03/02