立春

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立春

 

 今日の昼までにと頼まれていた書類を仕上げて隊首室へ向かったのがつい半刻ほど前だった。
 今日の隊首会に間に合うようにと浮竹から朝一番で頼まれ急遽仕上げたのだが、しかしいざ届けに上がった雨乾堂はもぬけの殻である。
 まさかそんな筈はないだろうと、思い当たる場所を見回ったがどこにも姿はない。慌てて通りがかりの隊士に声をかければ、丁度少し前に出かける様子を見かけたと言うのだ。千世は血相を変えて隊舎から飛び出した。
 封書をようやく渡すことが出来たのは、一番隊舎の門戸が見え始めた頃だった。間に合ったことに安堵し、息を切らしつつ差し出せば、浮竹は暫く固まった後にすっかり忘れていたと青ざめる。悪い、と何とも言えぬ表情を見せたが、時間が迫っていたのか、そのまま慌てたように隊首会へ消えて行く背を見送った。
 自ら頼んでいたことが頭から抜け落ちるほど、よほど切羽詰まっていたのだろう。
 当日の朝に、過去一箇年以内の隊士の負傷記録を纏めて欲しいなどあまり無いことだ。だが彼から説明されない限りは詳しく聞く事は出来ず、求められた資料を忠実に仕上げるだけだ。
 と言っても隊長以上でのみ共有されている事案はいくつもあるようだから、特別不思議な事ではない。 
 役目を果たした千世は、改めて安堵のため息をひとつつく。これ以上此処に居る理由も無いから、さて隊舎に戻ろうかと方向転換すると、前方にすらりと背の高い姿が目に入った。
 背後から彼女の名前を呼ぶと、振り返り少し驚いたように眉を上げる。

「お見送りですか?」
「お見送り…というか、何というか……そういう日南田さんは、お見送りですか?」
「ああ、いえ、私は隊長の忘れ物を届けに上がっただけで」

 なるほど、と勇音は頷く。彼女のごにょごにょとした言葉の濁し方が気になった千世は、彼女にもう一度やんわりと尋ねた。
 千世の顔をじっと見下ろし、勇音は少し照れくさそうな様子で少し肩をすぼめる。照れくさくなる理由にいまいち検討がつかず、その答えを彼女の高い背を見上げながら待っていた。

「卯ノ花隊長と、梅見を少し」
「へえ!梅見ですか、良いですね。そういえばもうそんな季節でしたね」
「そうなんです。隊首会に向かうついでに、と卯ノ花隊長にお誘いいただいて」

 彼女はそう言って満面の笑みを千世に向ける。よほど嬉しかったのだろう。
 今日のような春を感じるような暖かい日が差す中、敬愛して已まない卯ノ花との梅見散歩はきっと幸せだったに違いない。いいなあ、と思わず声に出そうになった言葉を千世はごくりと飲み込む。
 梅の花が緩み始めるのはいつも突然だと思う。朝晩寒い事ばかりに気を取られて、昼の暖かさに気を許せていないのだろう。それに比べて花の蕾は素直だから、梅が咲いたのを見て、人はもうすぐ春が来るのだと気付かされる。
 でも少なくとも隊舎の庭の梅は昨日の時点ではまだ蕾だったはずなのだが、日当たりの問題だろうか。

「一番隊舎の裏手に、綺麗な並木道があるんですよ。一番隊の皆さんが手入れされているみたいで……でも、穴場なのかいつもとても空いてるんです」

 知らなかった、と千世は頷いた。数十年を瀞霊廷で過ごしているが、未だに知らない場所などごまんとある。一番隊舎なんてよほどのことがない限りは近づかないから、知らなくても当然だろう。
 あちらの辺りです、と彼女が指を指した方を千世は見る。ここからは荘厳な隊舎しか見えないが、回り込めばその梅の並木道と出会えるのだろう。
 それから暫く、勇音とは他愛ない会話が続いた。彼女と顔を合わせるのは不定期の女性死神協会の会合くらいだから、こうして二人で話すことは珍しかったのだ。
 とは言っても、妹の清音からはよく話を聞いているから久しぶりだという気がしない。そう彼女に伝えてみれば、彼女もまた清音から千世の話を聞くから勝手に親しい気がしてしまうのだと頬を染めて笑った。
 話題を転々としながら続いていた会話が、ぷつりと途切れる。あ、と眉を上げた勇音が突然腰を折り、なにかと思い振り返れば隊長羽織を纏った者が門戸からばらばらと現れていたのだった。
 千世も慌てて腰を折り、去ってゆく隊長陣の風を感じていれば、はたと傍で立ち止まる見覚えのある足元に、ゆっくりと顔を上げる。

「珍しい組み合わせだが……不思議とそう見えないな」
「虎徹三席との組み合わせをいつも見られているからでは?」

 浮竹とその背後からすうと現れた卯ノ花に、千世はびくりとする。優しい笑みをたたえた卯ノ花は勇音、と一言呼びかけると僅かに会釈をして四番隊舎の方面へと去ってゆく。
 その背を慌てて追いかけた勇音は、振り返ると律儀に深く頭を下げた。二人の背を見送っていた視線を隣の浮竹へ向け、お疲れさまです、と見上げた。

「今日はすぐ終わられたんですね」
「ああ、幸いにも大事にならず済んだ。千世に折角資料を纏めて貰ったが、使わず終いだったのが申し訳ないな……」
「大事にならなかったのなら、それが一番です」

 千世はそう頷くが、彼は眉を曲げる。何か礼でもしようかと言う彼に、慌てて首を横に振った。結果的に使用されなかったとはいえ、それが必要でなかったとは思わない。
 それに、今日は何か他に立て込むような仕事があったわけでは無かった。実際に、勇音と暫く立ち話に興じているくらいの余裕はあったのだ。
 だが彼はどうにも収まりが付かないようで、ううんと何か考えている。帰りに菓子でも買って帰ろうかとぼそぼそ呟く彼に、あ、と千世はひとつ望むものが思い浮かんでしまった。

「それなら……ひとつ、見に行きたい場所があるのですが」
「ああ、構わないよ」

 どこに、と言う彼に、千世は一番隊舎の向こうを指差す。勇音が先程教えてくれた梅の並木道があるという方角である。
 別に、礼をせがんでいる訳ではない。彼が収まりがつかない様子だから、それなら菓子を買ってもらうとかお金のかかるものよりも、都合が良いだろうと思ったのだ。
 浮竹は千世の意図がよく分かっていないようだったが、じゃあ行こうとその方向へ進み出す。荘厳な一番隊の門戸を手前で曲がり、暫く進む。暫く道なりに進むと白い塀と石畳が途切れ、土の道が続く。
 道の両脇はまだ寂しい枝をいっぱいに伸ばした桜と、その根元には先日降った雪が微かに固まって残っている。

「懐かしいなあ、確かこの先に梅並木があるだろう」
「あれ、ご存知だったんですか?」
「勿論。元柳斎先生が大切にされていたのを、お忙しいからと昔は京楽や同期とお手伝いしていてね。だが、同期は減って、京楽も俺も隊長になってしまっただろう。今は一番隊で手入れをしているんじゃなかったかな」

 そういう事かと千世は口を開けて頷いた。まさか、千世よりずっと長く瀞霊廷に居る彼が、知らないはずはないのだ。

「もしや、それが目当てかい」
「…勇音さんが、卯ノ花隊長に誘われて見に行かれたようで」

 羨ましかった、という言葉は飲み込んだ。だが、彼の少し緩んだ笑みを見ると、恐らく言わずとも伝わってしまっているのだろう。
 ざりざりと土の上を進みながら、彼女の言った通り確かに人の気配はない。枝の間からこぼれる日差しをちらちらと浴びながら、ようやく開けた道が先に見える。
 そのさらに先に微かに見えたのは、淡い紅白を枝に載せた梅の木々だった。思わず駆け出したくなるような景色の予感を、千世はぐっと我慢しゆっくりと彼の歩幅に合わせて進む。
 やがてようやくまだ寂しい桜並木を抜けた先、目当ての並木道が目の前に広がった。丁寧に切り揃えられた紅白の梅が交互に植わった道は、そう長いものではないが見事である。
 この背の高い木は無く、青空と暖かい日差しが鮮やかに梅の花を包んでいる。きっとこの時期梅だけが目立つように作られているのだろう。
 春か、と隣で浮竹がぼそりと呟く。千世はその横顔を見上げて笑った。

「梅を見ると気づくよ」
「私もさっき、同じことを考えていました」

 横並びで両脇の梅を眺めながら、ほのかに漂う甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
 ゆっくりと歩を勧めながら、時折触れ合う袖に自然と脈が上がる。辺りに人の気配もない。千世は少し横を見て、彼の体の横でふらふらと揺れる暇そうな手に手を伸ばそうとした。

「奇遇ですね、お二人も梅見ですか」
「…んっ、こ、こんばんは!!」

 突然背後から聞こえた声に千世は首がもげるほどの勢いで振り返り、その姿へ頓珍漢な挨拶を返す。
 深く下げた頭を上げると、藍染は眼鏡の奥で穏やかに笑んでいた。

「珍しいな、藍染隊長も梅見かい」
「ええ。先程卯ノ花隊長から此処の梅が見頃だと伺い、折角なので立ち寄ったところです」
「俺も同じようなものだ。うちの日南田が、虎徹副隊長から此処の梅の話を聞いて、興味があるからと」

 上がった脈を戻すことに精一杯だった千世は、ひたすら彼の横で平静を装って真顔で棒立ちになるしかない。一方、浮竹は普段と変わらぬ様子で藍染と会話を交わすから助かった。
 しかしまるで気配がなかった。たまたま手を握る前で良かったと心の底から安堵している。やはり屋外で余計な真似をしようとするものではない。誰の目があるか分からない。
 焦りと動揺で緩んでいる身体に、ぐっと力をこめる。戦闘であまり動揺することはないのだが、浮竹の事となると途端に身体が言うことをきかなくなるのだ。

「どうかしたかな、日南田副隊長。少し顔が紅いようだけど…具合でも」
「い、いえ……陽が、暖かいので……」
「それに、此処まで駆け足で来たからだろう。ついさっきまで、二人で息を整えていたんだ」

 はははと浮竹は快活に笑った。嘘をつくのが苦手なはずの浮竹が、存外すらすらと適当を並べてくれている。そうさせていることを申し訳ないと思いながら、早くこの時間が過ぎることを願うしかない。
 藍染は落ち着いた様子で辺りの梅をぐるりと眺め、その視線を最後、浮竹と千世へと向けた。

「お二人は仲がよろしいんですね、とても」
「君だって、雛森副隊長が慕ってくれているじゃないか」
「はは…僕が頼りないせいかも知れませんが、部下に慕って貰えるのは隊長冥利に尽きますね」
「違いないよ。隊士あっての隊長だからね」

 浮竹はそう笑って返すと、藍染は頷き微笑んでいたが、この後用事があったことを思い出したと、その端正な顔立ちをはっとさせた。では、と頭を軽く下げた藍染は、あっという間に瞬歩で姿を消す。
 突然立ち去った様子にぎょっとしながら暫く気配を探るように千世はじっと佇んでいたが、平気だよ、と浮竹の言葉を聞いた途端にうなだれた。

「……すみませんでした」
「ん?なにが」
「色々、誤魔化していただいて……」
「ああ、いや。少し前から彼の気配には気付いていたんだ」

 そうだったのかと千世は肩の力を抜く。藍染の気配を後方に感じながらも、なかなか声を掛けてこないから、どうしたものかと浮竹は気にしていたのだという。
 きっと声を掛けづらかったんだろう、と浮竹はあっけらかんと笑った。一瞬でも彼の行動を不可解に思ってしまった自分の素直でない心を恥じる。

「なんだか今日は色々な方と久しぶりにお会いしました」
「疲れたかい?」
「疲れた…という訳ではないのですが、何というか……緊張しました」

 疲れたように見えただろうか。普段は慣れた隊の皆と顔を合わせる毎日だから、今日は立て続けに隊長格と顔を合わせて身体が凝り固まってしまったのだ。
 ようやく千世は気の抜けたように笑い、天に向かって大きく伸びをする。
 詰まった背骨伸びたのを感じながら、千世は再び梅の木へ顔を向けた。ごつごつとした力強い枝に、ぽつぽつと可愛らしい紅白の花が懸命に咲いている。
 桜は鞠のように咲くのに比べて、梅は枝の節にくっつくように咲く。空に向かって伸びる枝に数珠のように繋がって咲いて見える様子が、寒さの緩み始める季節の前触れに相応しい可愛らしさだった。
 暖かな日差しの中、愛らしい花を彼の横で見る事ができるのは得も言われぬ幸せな心地である。鼻歌でも漏れそうな気分の中、ふらふらと腕を揺らしていた。それが突然がしりと掴まれ、ぐいっと引かれる。

「ど、どうしたんですか」
「さっき手を繋ぎたいようだったから」
「……気付いていらっしゃったんですか」

 当たり前とでも言うように、彼はにこりと笑う。腕を掴んでいた彼の手は、するすると手首へ降り、そのまま暇をしていた手のひらを握り指を絡める。
 突然、贅沢なことになってしまった。折角整ったばかりの脈がまた早まり、いつまで経っても慣れる気配のない彼との触れ合いに、懲りもせず顔が紅くなってゆくのが分かる。
 千世のしどろもどろな様子に気付いた浮竹に、すみません、と絞り出すように言えば優しく目尻を下げた。

「折角梅を見に来たのに、それどころじゃ無さそうだな」
「もう、今日はそれで良いです、明日一人で見に来るので……」

 何を言っているんだ、と眉を曲げて笑う彼に千世はもうこちらを見ないでくれと頭を下げたい気分である。折角の見事な景色が、今はただ彼の背景になってしまうのだから参った。
 千世は春の香りをのせた風を胸いっぱいに吸い込み、甘い溜息を吐き出すのだった。

(2023.02.14)