この後の季節のことはしらない

2023年1月30日
おはなし

 

 ぐつぐつと湯気を立てて煮立つ具材が、鍋の中で踊るのを千世はじっと見下ろしていた。
 冬の台所は底冷えするような寒さだったが、かまどの火を使っていれば温度も湿度も徐々に上がり今では震えるまでではない。そろそろ鍋を一旦火から上げようか。千世は結局再び鍋をじっと見下ろし立ち上る湯気をぼんやりと浴びていた。
 今日はある噂を聞いてからどうにも頭がぼうっとして冴えない。定時の鐘が鳴ると早々に帰宅準備をし、この屋敷へと帰った。料理でもしていれば気が紛れるかと思ったのだが、静かな屋敷で一人、余計に考え込んでしまうから参った。
 昼下がりに、食堂へ足を運んだ時の事だった。昼の混雑の山場を過ぎてまばらに人が昼食を取る中、千世は付近に人が居ない席へと腰を下ろした。焼き魚の身をほぐしながら、午後の予定を頭で組み立てていれば古株隊士の一人が隣へ腰掛けた。
 彼は少し不安げな様子で、千世へ少し言い出しづらそうに言葉を途切れさせる。どうしたのですかと恐る恐る促してみれば、耳に入ったというある噂を教えてくれたのだ。
 浮竹隊長がご隠居されるというのは本当ですか。そう不安げに聞く隊士に、千世は暫く箸を口に運びかけたまま固まった。
 噂の出どころがどこかは分からないが、隊士達の中でにわかに話題になっているのだという。まるで寝耳に水の話に、千世は色々と記憶をさらってみるがそんな素振り見たことも聞いたことも無い。
 副隊長の千世ならば話を知っているかと思い、尋ねてみたのだと相変わらず不安げに彼は言った。
 まだ入って数年にも満たない隊士が言うならば、馬鹿な噂を信じるのではないと答えるだろう。だが千世よりもずっと隊での経験も、浮竹の元に居る時間も長い隊士が言うから信憑性が無いとは言い切れない。
 彼が言うには、確かにこの所浮竹はどこか思い悩むような、物憂げな表情を見せることが多く、あながちその噂は間違っていないのではないかと感じることがままあるらしい。
 あいにく聞いたことがないと答えつつも、しかし否定をする確証もないから結局そのまま二人して眉を曲げ、避けるように話題は移り変わりそのまま立ち消えた。
 彼の言う浮竹の物憂げな表情というものに、千世はあまり心当たりが無かった。この所は暫くこの屋敷に帰り、余暇を過ごしていたが浮竹は至っていつもどおり、特になにか変わった様子は無いように見えていたのだ。
 自分が人の変化に敏感とまでは言わないが、傍にいる時間が長い相手の見せる変化を見逃すまで鈍感だとは思わない。だから、くだんの件はただの根も葉もない噂だと思いたいのだが。
 水分の干上がり始めた鍋の様子を見て、千世はようやくかまどから引き上げる。それとほぼ同時に、玄関から帰りを知らせる優しい声が聞こえた。

「すぐご飯にされますか?」
「そうして貰おうかな。良い鰹出汁の香りのお陰で、急に腹が減ったよ」

 台所を覗いた浮竹は嬉しそうに目を細める。千世は頷き着替えに戻ろうとする浮竹の背を見送ったが、やはりどうにも気が晴れない。
 どう穿って見ようとしても、普段と変わりないように見えるのだ。火のないところに煙は立たないし、彼が普段隊士に物憂げな表情を見せていたのは事実なのだろう。
 少し悩んだ後に鍋敷きの上へ鍋を下ろすと、結局千世は彼の後を追うように寝室へと向かった。
 隊長、と覗いた襖の隙間から彼を呼ぶ。隊長羽織りを丁度肩から下ろした姿に、千世の胸はざわつく。隠居という言葉が頭を掠め、どうにも落ち着かないのだ。
 どうぞ、と招く彼の声に、千世は部屋へと入り込む。ぱたんと後ろ手で襖を閉めながら、悶々としていた。
 昼に話を聞いてからというものの、噂とやらで頭が一杯になっていた。色々と記憶を思い返して、そんな素振りや言動が無かったかと考え始めたらきりが無くなったのだ。そう言われてみれば、と普段何ということのないはずの言動までも怪しく思えてしまう。
 だから今、その真偽を確かめるため彼を追いかけてきたのだが、いざその穏やかな表情を見せられるとどう尋ねれば良いか分からなかった。

「見られていると、着替え辛いな」
「す…すみません」
「良いんだ、見たいなら見たいと言ってくれれば」

 そう笑った浮竹は羽織りを衣紋掛けへ吊るし、腰紐に手をかける。このまま黙っているのでは、本当に彼の着替えを覗きに来ただけになりかねない。千世は僅かに俯きながら、あの、と零す。
 噂の真偽を確かめるだけでどうしてこうも緊張しているのだろう。あながち、ありえない話ではないと千世も思うからなのだろう。
 今は健やかな様子を見せているが、突然の体調不良で療養となる事が珍しくはない。それを彼はいつも苦しい中で申し訳無さそうにして、見ている此方が辛くなるような程だった。
 それを思い悩んで出した結論というのならば、ありえない話ではないと思ったのだ。ならば次に隊長位を譲るのは誰かという話になる。千世はまだ卍解を会得していないし、素の実力も隊長まで及ばない。
 小椿か清音のどちらかが、実は卍解を会得したという事もあり得るだろうか。もしくは他隊から実力者を引き抜く考えか。となれば、どこの隊の一体誰が。
 考え始めるときりがなく、千世はようやく意を決して顔を上げる。神妙な様子に彼も気づいたのか、その目を丸くして千世をじっと見つめた。

「……隊長がご隠居されるのは、本当ですか」

 千世の言葉に、浮竹は無言だった。まさか、噂は本当だったというのだろうか。ばくばくと早鐘を打ち鳴らし始める心臓を、深呼吸で必死に落ち着けながら千世は浮竹を見上げ続ける。

「最近、皆がやけに落ち着かない理由が分かったよ」
「……つまりそれは…」
「今はそんな事、考えても居なかった。誰が言い出したんだろうな…」

 考えたように宙を見た浮竹に、千世は肩の力を抜いた。やはりただの噂だったのだ。あれほど勝手な妄想を膨らませておきながら、しかし当初の見立て通り彼に異変はなかった事に安心していた。
 数々の不安が杞憂で済んだ事に千世は安心の溜息をつきながら、再開された浮竹の着替えを緩んだ表情で見守る。

「隊長の物憂げなご様子に噂が広まったようですが…何か悩まれていたのですか?失礼ながら私は、あまりそう感じてはいなかったのですが……」
「…ああ…そうか。そういう事か…いや」

 浮竹は何か思い当たったのか、少し気まずそうに口を結んだ。ううんと唸ってそのまま箪笥を振り返って背を向けた浮竹に、千世は眉を曲げる。何ですか、と彼の傍に寄り覗き込むと、彼は一瞬目線を合わせてまた逸らした。
 怪しい。再び湧き出した不安とともに、千世の胸をざわつかせる彼の様子に、再びにじり寄る。着替え途中の彼は死覇装の前を開けたまま、箪笥の引き出しをごそごそと漁っているがもしやそのまま誤魔化すつもりだろうか。
 隊長、とまた彼の顔を覗き込めば、ようやく彼は千世へと正面を向けた。

「……これを」
「……何ですか、これは…?」

 差し出された小さな箱を、反射的に千世は受け取る。手のひらに載るくらいの桐の小箱だ。
 開けてくれという彼に、千世は恐る恐るその蓋を開く。中には、敷かれた乳白色の布の上に円形の金属の環が寝かせられていた。
 派手な装飾ではないが、埋め込まれた宝石が光を反射し控えめに輝いている。
 まじまじと眺めたまま、思わず息を呑む。少し前に現世から輸入された指環を、主に若い世代を中心に身につける者が増えている。
 装飾品としての意味合いが大きいが、現世では大切な相手に送るものとされることがあるとも聞いていた。特に既婚者は、大切な相手が居る証として左の薬指にこの環を互いに嵌めるのだという。
 まさかそんな意味合いを浮竹が知る筈はないだろうし、女性向けの贈り物としてきっと何処かで知ったというだけだろう。だがこうして唐突に渡されると、どうしても何か特別な意味を持つのではないかと勘違いをしてしまいそうになる。
 彼は至っていつもの様子で着替えを再開しているし、特別な意味は無いと分かっているのだが。

「十二月に、誕生日を祝ってくれただろう。…何かお返しをしたくてね」
「い、いえ、そんな……毎年の事ですし、そんな大層なことは……」
「毎年、変わらず祝ってくれることが嬉しいんだ。ずっと礼をしたかった」

 千世はまだ舞い上がった気持ちを必死に抑え込みながら、手のひらの小箱の中に収まる指環と、浮竹の顔とを交互に見比べていた。
 去年の暮れにあった彼の誕生日の当日、いつもより倍も時間を掛けた手料理と、冬に使えるような厚手の羽織りを贈ったのだった。それ以上、何か特別な事をした訳ではない。
 ただ二人で少しだけ良い酒を飲みながら他愛ない時間を過ごしただけで、毎年同じようなもてなしとなってしまう事を申し訳ないと思う程だ。
 だがそのささやかな祝いの場を去年ばかりでなく毎年、彼はいたく喜んでくれていた。感謝されるために祝っていた訳では無いから、それが妙に照れくさくて恐縮していたのだが、まさかこんな返礼をされるとまでは思ってもない。
 礼を受け取るにしても、毎年その後の千世の誕生日でもって有り余るほどのものを返されているというのに。
 深々と頭を下げながら、自然と色づく頬を緩めていた。

千世に何を贈ろうか、この所ずっと悩んでいたんだが……それをまさか、そう勘違いされるとは思わなかったよ」

 悪いことをしたな、と浮竹は苦く笑う。
 隊士が不安を覚えるほどの物憂げな表情が、まさかそんな理由とは思わないだろう。少し安心したような申し訳ないような、しかし照れくさくて嬉しい妙な感情が千世の中で渦巻く。

「……実は、松本君の助言なんだ」
「乱菊さんですか?」
「ああ、偶々彼女と街で会ってね。ちらと近頃の流行を聞いてみたら、指環が魔除けになると勧めてくれたんだよ。兎に角効果があるから、と」

 そういうことだったか。彼女の得意げなしたり顔が目に浮かび、今までの自分の浮かれ具合を戒めるように頬を染めたままがっくりと項垂れる。
 眠っている間に指回りを測る術を浮竹に教えたのも、勿論彼女のようだ。しかし現世で永遠を近い合った者同士が指に嵌め、互いの絆や愛を感じ合うものだとまでは、この様子では教えていないのだろう。
 しかし魔除けとはよく言ったものだ。この尸魂界ではまだその文化が浸透していないものの、少なくとも現世では余計な虫…もとい異性が付きにくくなる、所謂魔除けの効果はあるのだろう。
 帯を締め終えた浮竹は、千世の持つ小箱から指環を摘みあげると、ほら、と手のひらを差し出す。唐突な様子に千世はぽかんとしたまま、自然と犬のお手のように左の手を重ねる。彼はその手を支えるように軽く掴んだ。

「こうして、左の薬指に嵌めてやれば、更に効果が上がるらしい」
「……あ、りがとう…ございます……」

 ぐ、と外れぬよう指の付け根へ押し付ける浮竹に、千世はますます体温の上昇を覚えていた。ぴったりだと嬉しそうに微笑む浮竹と反面、浮かれたくても浮かれられないもどかしさが苦しくて身体を萎ませる。

「すごく、嬉しいのですが……二人で居る時にしか、付けられなそうで……」
「どうして。それだと魔除けにならないよ」

 きょとんとした表情で答える浮竹に、千世は勝手に動揺を覚える。
 勿論彼から贈られた指環を毎日でも身につけて、見せびらかして歩いてみたいものだがそんな事をしてしまえば誰かしらが気付いて、有る事無い事妙な噂を流されかねない。
 相手が分からない以上浮竹に迷惑をかけることは無いだろうが、贈られた大切なものが何かの火種になるような事は避けたかった。

「失くすのが怖いので、大切な時につけたいと思いまして」
千世がそうものをすぐ失くすようには思えないが……心配なら仕方がないな」

 残念そうな表情を見せつつも頷いた様子に、千世は胸をなでおろした。案外うまく切り抜けられるものだと、我ながら感心すらする自然な会話の流れだった。
 二人で居る時だけに身につけるというのもまた、それはそれで特別で良いではないかと思う。他の誰も知らない、二人だけの特別が増えてゆくのは密やかで慎ましやかで、思い返す度に胸がじわりと熱くなる。
 それが伝わってしまったのか気のせいか、未だ握って離さない彼の手にぎゅうと力を籠められふと彼が俯き向ける顔を見上げた。驚いたのは、一瞬彼が真顔であったからだった。しかし間もなく彼はいつもの通り柔和に破顔して、気のせいだったのだと千世の思考にまで辿り着かなかった。
 千世、と彼は掬い上げるような柔らかく深い声音で呼びかける。

「隠居して、君を連れて、得意の回道を活かした診療所でも開いて……ほら、千世だって薬学が得意だろう。そうして二人で、のんびり過ごすのも良いかも知れないな。考えてみるか」
「えっ!?」
「なんてな、冗談だ。さっきの噂話をふと思い出してね」
「びっくりした……やめてください、普通の顔で冗談を言われるのは……」

 ほっと安心したように息を吐き出した千世を前に浮竹は、くすくすと笑う。
 隠居した上に千世を連れ出すような、後先考えない行動を彼がするとは考えにくい。まさか本気で言う筈がないとは分かっては居つつも、ほんの一瞬でも思い浮かべてしまった映像を咄嗟に掻き消した。
 喜びよりも困惑の感情が優先的に現れた点、無意識下で彼を恋人ではなく未だ上司として認識しているようだった。出会いから染み付いた関係は、僅かな蜜月で容易く上書きされるものではないのだろう。
 しかし未だ握られたままの手を見下ろせば、与えられる愛情の大きさを視認するようで愛しい。恋人として今傍に居ることを、彼のもとでこの先も死神として生きれることを、千世は噛みしめるように微笑んだ。
 彼の指先が千世の薬指の根に嵌められた金属の環を、するすると確かめるように撫でる。
 くすぐったくなるような心地に、他意の無いただの魔除けだと、そう言い聞かせながらも勝手に滲み出る幸福をゆっくり飲み下すように見つめていた。
 他意は無いのだと、そう何度も言い聞かせる。つむじに零された彼の小さな溜息など、千世は知る由もなかった。

 

この後の季節のことはしらない
2023/01/30