大寒
「どなたが始めたのか知りませんが、私は到底許せないです」
「まあまあ、良いじゃないか。一年に一度なんだ」
珍しく怒りを顕にした千世に、浮竹は笑う。彼女は屈んだまま火鉢に手をかざしながら、不満げな顔で口をへの字に曲げて鼻を鳴らした。
今日から一週間ほど、寒稽古が行われる。毎年恒例で、隊舎の裏にある屋外修練場で早朝に半刻ほど稽古を行う。席官以上は休日であっても寒稽古の出席は必須で、とにかくそれが眠くて寒くて辛くて厳しい。
浮竹がまだ入隊した頃からこの行事は行われていたから、つまり彼女の怒りの矛先は山本総隊長ほどの大人物に向いている訳だった。が、そこまでは考えていないのだろう。ただ兎に角、この寒稽古への遣る瀬無い怒りが収まらないらしい。
特に昨日の夜分から降り始めた雪のせいで、今朝の冷え込みは一段と厳しかったのだ。こういう日は、いくら身体を動かしても足元から痺れるような寒さで凍りそうになる。
浮竹も途中顔を出したのだが、全員寒さで歯を鳴らしながら素振りに勤しむ姿は、彼らには失礼とは思いながらもどこか微笑ましいほどだった。
「隊長も、昔はお嫌ではなかったのですか?」
「そりゃあ嫌だった。極寒の早朝に叩き起こされて、寝ぼけ眼で竹刀を握らされるんだ」
「……この行事を終わらせようとお考えになったことは」
「他の隊だって皆やっているんだ、諦めなさい」
隊によっては、隊長自ら竹刀を握っていると聞く。はい、とがっくり肩を落とした千世に、浮竹はまた笑う。
副隊長へ昇進後、初の寒稽古となった感想を彼女の執務室に聞きに来た訳だったが、まさかここまで不満を垂れるとは思わなかった。
少なくとも朝の稽古の様子では真剣に行っているように見えたから、大したものだと感心していたのだ。だが部屋を覗けば、火鉢に張り付いた彼女は浮竹の顔を見るなり不満げにふくれた。
今まで如何なる条件の任務でも締切間際の書類でも、いつも黙って彼女は遂行してくれていた。寒稽古以上に悪条件の任務は今までだっていくらでもあったはずだが、しかしどうしても寒稽古だけは許せないようである。
だが、気持ちは分からなくはない。任務は命がかかっているし、稽古は自発的に己に必要があると受け入れている。だが寒稽古は行事だから、嫌だなんだと喚いても、毎朝決まった時間に決まった長さ、ひたすら決まった動きを繰り返さねばならない。
それが彼女はどうにも納得がいかないようだ。いや行事としては納得しているのだろうが、何故この時期にという思いが強いのだろう。特に副隊長は率先して臨まなければならないから、それも相まってどうにも遣瀬がないらしい。
こうして怒りを顕にしている姿は初めて見たから、珍しいこともあるものだと、すっかり長椅子に腰を据えてしまったのだ。本当ならば、様子を聞きすぐ戻ろうと思っていたのだが。
彼女との付き合いは、生きてきた時間と比べればそう長い訳ではない。さらに男女としての交際を始めてからとなれば、まだほんの僅かな期間でしか無かった。
この先色々な姿を知って、そして知られて行くものだとばかり思っていたが、しかし存外彼女は変わらなかった。
二人で過ごしていても、隊舎で過ごすのとそう様子が変わらない。恋人なのか部下なのか。逆に調子が狂うというものだ。
「だが、皆の前でしっかりやってくれていただろう」
「それは勿論、……曲がりなりにも、この立場に置いていただけていますので、勿論」
「偉いじゃないか。俺に不満を漏らしながらも、しっかり全うしてくれているんだから」
「…す……すみません……」
そうして千世は身体を萎ませるから、慌てて浮竹は違うんだと続ける。なにも、嫌味で言ったのではない。
不満を覚える事は脳と感情を持つものとして当たり前であって、全てを皆が皆受け入れるだけでは組織は決して成り立たない。倫理に反することでない限り、咎めることは無い。
彼女も人並みに不満があり、それを漏らす事のできる相手の一人に浮竹がようやく選ばれたということなのだろう。今まで弱さや負の部分というものを彼女の意思でもって見せられたことが無かったから、その様子は新鮮だったのだ。
恋人らしい、とも思ってしまった。恋人というものはお互いの弱い部分も認めあって、支え合い、時に反発し合いながらそれがより深い絆となるものだ。
彼女は素直な方で、表情も考えている事も分かりやすい方だった。だが甘えたり泣き言を言うのは苦手なのかそもそも考えもしないのか、口にされた事が今まで恐らく無い。そう、考えてみればそれさえも分かっていなかったくらいなのだ。
以前と変わらない。素直に真っ直ぐ、護廷のため隊長のためと与えられた職務を全うしてくれている。隊首と副官としての関係性が、恋人という繋がりよりも未だ優位のように感じていた。
その中にある信頼や、互いを大切に思う気持ちは以前よりもより深くはなった。しかしどこか物足りなさを覚えていたのは恐らく、彼女のこの姿だったのかと今やけに合点した。
「分かっているんです。厳しい状況で稽古を行うことで、精神の鍛錬に繋がると」
「その通り。精神の鍛錬こそ全ての基礎、やがて卍解の会得にも繋がる」
浮竹がそう返せば、彼女はやはり不満げに眉と口を曲げながら、火鉢の前で手を揉んだ。分かってはいるが、理屈を抜きにして嫌で仕方ないのだろう。理解と納得は必ずしも同じではない。
この寒さの中、あと六日も続くと考えてみれば確かに気が重い。はあ、と時折物憂げにため息を漏らす千世の頭に浮かんでいるであろう光景が、今はありありと分かってしまう気がした。
浮竹は深く腰掛けていた長椅子から立ち上がると、彼女が屈む火鉢の元へと近づく。この部屋は十分暖まっていたが、特にこの火鉢周辺は極楽だ。この場所に居座っていても未だ千世は寒さに震えているのだから、余程芯まで冷え切ってしまったのだろう。
浮竹は微笑んで彼女を見つめる。今さっきまでふくれていたはずの千世は途端にたじろいで、どうしたんですかとぼそぼそ尋ねた。
「珍しく怒っているから、新鮮だった」
「……えっ!?…い、いえ…怒っているというか…何と言いますか…」
「なに、咎めているわけじゃない。むしろ嬉しいんだよ」
嬉しい、と千世は不思議そうな顔で繰り返す。浮竹の中で文脈は繋がっていたのだが、彼女からしてみれば、突拍子もなかっただろう。
「最近時々、隊長が変な気がします」
「……そうかな」
「この前、私が机の上で湯呑をひっくり返して半泣きになっていた時も、嬉しそうだったような……」
ああ、と浮竹はつい先日の事を思い出した。提出期限に追われる千世に、頼まれていた書類を渡しに執務室へ顔を出した時だった。
余程焦っていたのか、手元の湯呑を腕で盛大にひっくり返し、書類を水浸しにしたのだ。珍しく大きな声を上げて、慌てて死覇装で水分を拭き取ろうとする彼女の涙目の姿が、微笑ましくて笑ってしまったのだった。
浮竹はその光景を思い出し、確かにそうだったと苦く笑う。
「俺の意地が悪いみたいだな……」
「い、いえそんな事は無いのですが…なんだか不思議で」
今と同じ気持ちだった。今まで見せられたことのない姿を知ったことが新鮮で、だから自然と笑みを見せてしまったのだろう。いやはや、状況としては人の失敗を喜んでいると思われても致し方ない。
戸惑った様子の千世は、どうしてと聞きたくて仕方ないように、そわそわと目線を移動させる。本当ならば己の中で思うに留めておくことなのだろうが、そんな顔をされたのでは口を結ぶわけにはいかなかった。
「珍しい表情を、最近見せてくれるだろう」
「…ああ、それは……その…少し気が緩む瞬間が、増えてきてしまって…」
「なに、良いじゃないか。出来るならもっと緩んでも良いくらいだよ」
でも、と千世はより戸惑いを濃くする。彼女にとってはまだ恋人である前に、上官なのだろう。染み付いてしまった上下関係を、そうすぐに上書きすることは出来まい。
いつか、いずれは徐々に、せめて横並びくらいにはしてくれるだろうか。
浮竹は、火鉢にかざしていた彼女の無防備な手のひらに手を伸ばし、そのまま指先を絡め取る。これだけあたっているはずなのにひやりとまだ冷たい指先を、握って包むようにしてやれば、千世は目を大きく見開いて身体を固めた。
あまりに予想通りの反応に、浮竹は眉を曲げて微笑む。
「握り返してくれても、良いんじゃないか」
「は、はい」
慌ててぎゅうと指先に力を込めた千世の頬は、みるみるほんのり紅く色づく。あまりに素直な反応が余計に可笑しくてふふ、と空気を漏らして笑えば彼女ははにかんで俯いた。
「……ここまでが寒稽古の一環なら、毎日頑張れそうなのですが」
「……つまりそれは、明日も手を握ってくれという事かな」
「そ……そうです」
上ずった声で答えた千世は、一層頬を染めたままぎゅうと口を結んだ。一瞬、どきりとした。珍しく甘えるように目線を上げて言うから、どう返そうかとほんの僅か固まった。
もっと気が緩んで良いなんて、軽々しく言うものではなかった。
彼女に染み付いた上下関係に、己は存外助けられていたのではないかと今思う。目線一つであまりに容易く揺らいだ感情を嚥下するように、浮竹は静かに喉を鳴らした。
火鉢の前で握った手には、微かに汗が滲んでいた。
(2023.01.14)