保護中: さかさゆびきり-7

その日は冬に珍しい大雨だった。特に任務からの帰り道は凍てつくような寒さで、頭の先から足の先までかじかみ神経が麻痺するかと思ったほどだ。 文を受け取ったのは、風呂を出てすぐのことだった。あまりに冷え切った身体を温めたいが為に長い間湯船に居たのだが、浸かりすぎてのぼせかけ、ふらふらと廊下を歩いている所を呼び止められた。 お前宛だと手短に手渡された。文を受け取る心当たりはなかったが、手に取り確認すれば、確かに浮竹様と達筆で書かれている。裏を見ても差出人は無く、首を傾げた。 不思議に思いながらも、その場では文を開かず懐にしまう。質の良い和紙で、丁寧に折られているそれは、特別急ぎの様子でもない。今はとかく自室へ戻りたい。あの薄い布団がこうも恋しいとは珍しかった。 文といえば。学院時代、何度か思いを綴った文を受け取った事があったことをふと思い出した。知らずのうちに募っていたらしい思いを込めた言葉は、どれも俺には過分で、相手には丁重に断りの文を返していた。 返事の度に、何日もひどく悩んだものだ。相手から向けられた思いを無下には出来ない、かといって応えることも出来ない。返事を悩む間にも、時折差出人と校舎で顔を合わせば切なげな表情を見せる。それがまた、筆を鈍らせた。 ある時、講義後の誰も居ない教室に残り、机を借りていた事があった。書き出しに迷いながら筆を硯に浸していれば、突然背後から覗き込む陰に俺は大層驚いて固まった。 振り返れば偶々通りがかったらしい彼女が、手元を覗き込む。誰宛の手紙かと尋ねる彼女に、慌てて真っ白な紙を丸めて何でも無いと、下手に誤魔化した。 だが彼女は詮索すること無く、横に腰を下ろすとふうんと微笑む。いっそ詮索してくれた方が気が楽だったというのに、知っているのかそれともただ俺の反応を楽しんでいるだけなのか。彼女のその何か含みをもたせたような笑みがまた、俺の浅はかな恋心を余計に焦がした。 どうしてあの時、思いを伝えなかったのだろう。伝えようとも思わなかった。伝えられる時機は何度もあった筈だ。 彼女と二人だけで過ごす時間は、日を追う毎に自然と多くなっていた。放課後の修練の他にも、そうして教室であったり、書庫であったり。当たり前のように彼女と過ごす時間があまりにつつがなく過ぎてゆくから、永遠だとでも勘違いしていたのだろう。 思い返すほどに浅はかで未熟で、今ほど惨めさを噛みしめる時はない。 隊舎から自室まで、折角温まった体はまた凍えるような雨で冷えてゆく。 だが雨傘を差せるだけで十分有り難い。今日の任務では索敵中息を潜めて待つ時間が長く、途中は永遠のようにも感じたものだった。 急激に奪われてゆく体力との勝負にはほとほと参った。移動を含めてほぼ一日、この冬の氷のような雨に打たれた訳だ。雪のほうがまだ救われたのかもしれない。 自室へ戻るとようやく緊張の糸が切れたのか、途端に疲れが溢れ出る。火鉢に炭を熾し、押入から布団を引きずり出す。部屋着にも着替えないまま仰向けに倒れ込み、天井をぼうっと見上げた。 こうして自室で一人になるとあの日以来、必ず思い出すようになってしまっていた。夢だと言われてもおかしくはない光景だ。いや、いっそ夢だったならば良かったとも思う。今ぐらいは疲労に任せて眠ってしまえば良かったのに、静けさとい草の香りで、また性懲りもなく思い出してしまった。 未だにあの時に触れた、彼女の熱と柔い肌の触感がこの手に蘇る。何年もずっと焦がれていた姿を抱いた事を、まさか忘れられるはずなど無いのだった。 彼女は俺を好いていてくれたのだろうか。あの場で俺は彼女への好意を暗に口にはしたが、返してくれることはなかった。ただ優しく笑んで甘く鳴くばかりで、一番聞きたかった言葉を聞くことは出来ない。 もっと、はっきりと伝えるべきだっただろうか。返さなくてはならない状況へ、追い詰めてやればよかったか。憧れていたなど、そんな綺麗な言葉では済まない思いを秘めていたというのに、この期に及んで格好をつけた。 彼女が卒業をしても、輿入れしたと聞いてもなおその思いを鞘へ収めることが出来ずにいたくらいだ。その肥大した思いの成れの果てが、あれだった。 また蘇る光景に、自然と股間へ手が伸びた。疲労に身を委ねて眠ってしまえば良かったというのに、燻った性欲が今は他全ての欲求を上回った。 帯を解き緩めると、袴と下着を半端に下ろし僅かに芯を持ちはじめていた陰茎を軽く掴む。望む感覚を得たいが為、握ったまま上下に擦る。心臓が徐々にその心拍を上げている。 彼女の甘く俺を呼ぶ声、蕩けた表情、汗ばんだ肌、香り、包み込む熱全てを瞼の裏で思い返しては夜ごと自慰に耽った。根を扱き、先端から漏れた先走りを塗りつけるようにしならせた。彼女の肉襞に包まれる甘い締め付けを思い出してはまた硬く、熱を持ってゆく。 優しかったのだ、彼女の身体は何よりも誰よりも、素直に俺の全てを受け入れた。穏やかに微笑んで、目を潤ませながら掠れた声で上手だと何度も褒めてくれた。 あの日、一度では終わらず二度、彼女の腹に吐精した。駄目だと首を振る彼女を裏切ることは出来ず従ったが、そのまま体内へ行為の証を残す事だって出来た。そのまま彼女の奥深くへと流し込むことが出来れば、どれほど満たされただろうか。 そればかりが今でも頭を巡り、腹の奥を熱く重くする。きっと幸福なのはその一瞬、しかも俺だけが感じるもので、彼女が同じ思いを抱くことは決して無い。夫がある身でありながら、他の男を受け入れることがどれほどの罪であるか、彼女自身が一番理解しているだろう。 勿論俺自身も十分に理解しているはずだった。他に知れる事があればただで済むことではない。だというのに、逃れられない証を残してしまいたいと思った。俺の子を孕めば、俺のものになるのではないかとあの一瞬、熱に浮かされながら思ってしまったのだった。 到底まともではなかった。勢いに任せ、彼女の体内で吐精しなかったことに今は安堵している。それくらいの理性の手綱はあの状況においても握っていたのだと、我ながら感心したものだ。 時が経てば、この感情も記憶も多少は薄れるかと思っていた。だが逆だった。むしろ時が経つ毎に醜く増していく。懲りずにまたあの柔肌に触れることが出来るのならばと劣情を抱き、遣る瀬が無い。 「っは……ぁ…さん…」 彼女をの名を口に出せば、途端に快感が駆け抜ける。あの時も、こうして何度も名前を読んだ。その度にうんうん、と頷く彼女の蕩けた表情に吐く息が震えた。 擦る手の動きを早める。彼女の快感に歪む顔を瞼の裏に浮かべながら、吐精へと導いた。あの心地には決して及ばないというのに、蘇る光景と息遣いが脳裏を掠るだけで意識が揺らぐほどの快感だった。 情けのない声を漏らしながら、迫り上がる吐精感に息を止める。先端から飛び出た体液を手のひらで受け止めながら、脊髄を走り抜けるような快感に腰がびくびくと震えた。 暫く荒く息を繰り返していたが、やがて徐々に冷静を取り戻し、生温い白濁が纏わり付く不快感を拭うため身体を起こす。近くのちり紙を手に取り拭いながら、途端に手に余る情けなさが襲った。 きっとあれは一度きりのことだ。もし彼女が当時、俺のことを好いてくれていたとしても、今でもほんの僅かでも残っていたとしても、それが結ばれることはない。 自慰を終えると途端にまともな思考へと戻り、ただただ途方もなく虚しかった。焼けるほど焦がれた姿を抱いても、本当に望む思いが満たされることはない。むしろ同じ学び舎に居た頃の方がよっぽど幸福だった。 深く陰鬱な溜息を素足へと零す。折角隊舎で風呂に入ってきたばかりだったが、汗ばんで気持ちが悪い。自業自得だというのに僅かに苛立ちながら、死覇装を肩から落とした。 その時ぱた、と視界の端に何かが掠る。ふと目をやれば、白い文が畳の上に落ちていた。 「……あの時のか」 腰を屈ませそれを手にする。隊舎で受け取ったものを、そのまま中身も見ず懐に入れていたことを忘れていた。 隊舎で確認をしたもののもう一度表裏と隈なく確認するが、やはりどこにも差出人はない。俺の名だけが書かれており、その筆跡には、どこか見覚えがあるような気もした。だが分からない。 俺は恐る恐る中身を開くと、記されたたった二行に息を潜めた。 第八臨時救護棟 丑の刻 お待ちしております 本文にも差出人は無かったが、必要ではなかった。深く長い息を吐き出した後、思わず文に鼻先を近付け、香りを吸い込む。ただの紙と乾いた墨の香りだった。だが胸が高鳴り仕方がない。 どうしてとは考えなかった。何の用であろうと、どうでも良かったのだった。 何度も、そのたった二行を読み返す。それだけで不思議と、今まで満たしていた虚しさが薄れる。浅はかにも期待しているのだ。あの夢の続きがまた見れるのではないかと、蕩けた頭が期待する。 ぬるま湯のように心地良い安堵にも似たものが、乾いた身体の中にどろどろと流れ込むのだった。 2023/01/09