冬至

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冬至

 

 は、と目が開く。眠りから覚めたばかりだと言うのに、頭が冴えている。夢の名残もない。
 部屋はまだ真っ暗で、隣を見れば鼻まで布団を被った浮竹が静かに眠っている。顔を近付け呼吸の音を確認すると、ほっと息をついた。
 普段はたいてい浮竹の方が早くに目覚めているから、こうして偶に千世のほうが先に起きると、彼の安らかな寝顔と、寝息の穏やかさにぞっとするのだ。呼吸の音と、それに合わせて静かに上下する布団を確認してようやく安堵する。
 千世は布団からそっと抜け出すと、半纏を羽織ったまま障子を開け、縁側へ出ると雨戸を細くずらした。外はまだ真っ暗で、庭の様子も分からないくらいである。まだ真夜中だというのに、偶々目が覚めてしまった事を途端に後悔した。
 折角寝覚めに恵まれて気持ちが良かったというのに。仕方ないから二度寝をしようかと寝室に戻りがてら時計をふと見ると、まさか既に午前六時を回ろうというところであった。
 普段ならばあと一時間もしないうちに目を覚まし、出勤の準備をし始めるところだというのに、まだこうして真夜中のように暗い。あと一時間で日が昇るとは考えにくい闇の深さである。
 寒さが厳しくなる師走に入り、陽の落ちる早さとそして昇る遅さをひしと感じてはいた。目が覚める頃には眩しいほどに明るくて、定時から遅れて隊舎を出てもまだ太陽が覗いていた夏の夜が嘘のように、今は夕方からとっぷりと暗い。
 毎年、この時期になるとしみじみ感じる。夏から冬にかけて、秋を経て徐々に季節は移り変わっているというのに、年の瀬が近づく頃になってようやく冬を意識するのだ。まだ三月頃までは続くだろうこの先の寒さを想像して、千世はぶるっと身震いをした。
 あと一時間あるならば、と仕方なく布団へと戻りはしたものの、あまりの目覚めの良さで眠気が訪れそうにない。暫くごろごろと寝返りを打っていたが、とうとう再び身体を起こした。
 これ以上もぞもぞと動いていれば、浮竹がその安らかな眠りから目を覚ましかねない。千世は再びそっと布団から抜け出すと、また半纏を羽織り、縁側へ出るとそっと雨戸を抜ける。

「さ、寒い……」

 思わず一人呟くほど痺れるような寒さに身体を固くする。下駄を突っかけて庭に出れば、真っ暗な中にも空でぽつぽつと星が散らばっているのを見つけた。
 震えるような寒さだったが、静まり返った闇に浮かぶ星につい目を奪われ黙って見上げる。
 もう朝なのに、とも思ったが、これだけ空が暗いのだから星くらい見えて当たり前だった。そういえば、以前は夜間任務からの帰還途中に、よく明け方の星を見上げていた事を思い出す。
 この所は任務よりも隊舎で机に向かうことばかりが増え、以前まで当たり前のように見ていた景色を少し忘れてしまっている。星あかりだけの森の中で虚の出現を待ち一夜を過ごすことも、木の洞で雨宿りをすることもつい最近まで、珍しくないことだったというのに。
 立場が変わると共に、歳を重ねる毎に、そうして見える景色は変わってしまうのだろうかと、当たり前の事を思ってふと感傷に浸る。思想、組織、取り巻く全ては当然、時と共に遷り変ってゆくものだというのに、どうしても変化を少し寂しく思ってしまうものだ。
 あの時は、あの頃はなどとつい懐古して、懐かしむだけならば良いが、うっかりそのまま昔に置いていかれそうな事がある。

「おはよう」
「…ああ、おはようございます。起こしてしまいましたか」
「そんなことはない。むしろ、いつもはもう少し早く起きているくらいだよ」

 がたがたと揺れた雨戸に振り返れば、寒そうに手を袖に仕舞った浮竹が顔を覗かせていた。暗い庭を見回すと、千世と同じ順番でそのまま空を見上げる。
 彼は千世が目を覚ます頃には大体床を上げていて、寝間着から死覇装へと着替えている。庭で盆栽を整えたり、日によっては辺りを散歩している事もあるようだが、会話の端々で知っただけで、そういえば面と向かって聞いたことが無い。
 何をしているのかと気にならない訳ではないし、きっと聞けばあっさりと教えてくれるのだろう。だが、自ら語らない事を敢えて聞く必要も無いだろうかとも思うのだ。
 別にそれに限ったことでもない。顔を合わせない休日に何をしていたとか、何を食べたとか何を考えていたとか。
 始めの頃こそ気になっていたものだ。むしろ、一方的に思っていた頃のほうが彼の動向を何より気にしていた。休日、雨乾堂に居ない日は一体何をしているのかとか、あの隊士を呼び出して何を話しているのだろうとか。
 憧れるほど焦がれるほどに、彼の全てを知りたくなった。

「そういえば冬の朝って、こんなに暗いんですよね」
「ああ。暗いし寒いし…静かで寂しいが、でもどの季節より空気は澄んで星は綺麗だよ」

 浮竹は雨戸をもう少し広く開くと、縁側へ腰を下ろす。足をぶら下げた浮竹は少し腿を広く開き、おいでと千世を呼んだ。
 雨戸が邪魔して横に座る場所はない。微笑んで両手を迎え入れるよう軽く広げた彼の姿に千世は一瞬たじろいだが、滲む嬉しさに緩みそうな唇を結んだまま彼の元へと近づく。失礼します、と軽く頭を下げた千世は彼の腿の間に腰を下ろした。
 背後から彼の羽織る半纏にすっぽりと身体は覆われ、冬の寒い空気から守られる安心を覚える。あたたかい、と独り言のように呟いた彼の声の無防備さに千世は微笑んだ。

「俺も怖い夢を見た時は、こうして庭に出て空を見る。星を見ている間に、夢のことなんていつの間にか忘れているんだ」
「隊長、怖い夢を見られたんですか」
「俺ではなくて……千世は、見たんじゃないのか」
「いえ…見てませんよ。……どうしてですか?」
「…いや、珍しく早く起きていたから……てっきり怖い夢でも見たのかと…」

 どこか歯切れ悪くぼそぼそと答える彼に、千世は思わず振り返って見上げる。視線に気づいた浮竹は顎を下げ目線を下ろした。
 偶々目覚めが良かっただけだったのだと答えながら目が合い、そうかと彼はどこか気まずそうに笑った。表情を誤魔化したかったのか、浮竹は千世の身体をさらにきつく抱き寄せる。体勢のせいでほぼ強制的に正面を向けられ彼の顔は見えなくなってしまったが、どのような表情をしているのか分かる気がしてしまった。
 心配してくれたんですね。千世が庭に向かって呟けば、彼はひとつ唸るように答える。頭に軽く載った顎から、その喉で鳴った声の響きがじんと骨を伝った。
 包むように抱きしめて、安心させようとしてくれたのだろう。まさか宛が外れたことが気まずいのだろうが、千世からしてみればこうして身を寄せ合える思わぬ幸運だった。
 ぶら下げた足はひんやりとするが、身体はすっかり包まれほかほかと温かい。せっかく目覚めのすっきりしていた頭だったというのに、この温もりでうとうととしたくなる程だ。
 眠気がこれ以上増さないよう目を瞬きながら、千世はふと先程気になった言葉を思い出していた。

「隊長は、怖い夢をよく見るんですか」
「よく、という訳でもないが……ついこの前は、ずっと夜が明けない一人きりの夢を見たな」

 それが怖くて仕方なかったのだと、浮竹は珍しく弱気な声で続けた。
 さっきも言っていたことだ。冬の朝は暗くて寒くて、ぞっとするほど静かで寂しい。あの言葉は、その夢を指したことだったのだろう。
 身体に回った彼の手のその甲に、自然と千世は手を重ねる。骨ばっていてひやりと冷たくて、皮膚は少し乾燥していた。
 昔ほど、彼の隅々までを知りたいという欲求は薄まったように感じていた。焼けるほど焦がれていたあの頃に比べて、というだけで、勿論今だって興味津々ではある。
 だが多少の落ち着きを見せたのは、彼と過ごす時間が増えるにつれて、自分は彼を深く理解しているのだと知らずのうちに傲りが出たからなのだろう。千世にだけ見せる、言葉や感情、表情をひとつひとつ知るにつれ、そんな勝手な思いがいつの間にか充ちていた。
 だが今、耳元に流れ込んだ彼の弱々しい言葉に、懐かしい揺さぶりを感じている。初めて聞く声音を耳の奥でこだまさせながら、まだ知らない彼を傍に感じて胸の奥で恋情が燻った。

「もし夜が明けなければ、ずっとこうしていられるという事ですよね」

 千世はうっかり零した言葉を、途端に後悔した。別に茶化すつもりは無かったのだ。
 暗くて寂しい夜を越えられるのは、目が覚めれば必ず陽の光が差すと知っているからだ。目が覚めても待てど暮らせど暗いままの空なんて、自分一人ではきっと受け入れられるはずがないと思う。
 だというのに、こうして彼の温もりを感じているとずっとこの時間が終わってほしくなくて、夜が明けないならそれはそれで良いかと思った。
 このまま夜が明けなければ、こうして二人で身を寄せ合って星を眺めて過ごすのだ。他愛のない会話を交わして、偶に思い出したように暗い寒いと嘆き合って笑う。そんな世界を一瞬だけ思い浮かべた。
 彼は暫く無言だったから、千世はごめんなさいと、少し身体を窄めてぽつりと零す。と、間もなくふふと微かな笑い声が背後から聞こえた。

千世が居てくれるなら、夜が明けなくても良いかも知れないな」
「……一生明けなくてもですか?」
「永遠に明けなくても良い」

 耳元へ擦り寄ってきた彼の頬の、ひんやりとした柔い肌を受け止める。
 温め合うように肌を擦り合わせながら、東の空の向こうから濃紺が薄く白んでゆくのを見つけた。折角夜の寂しさを受け入れて、楽しみとすら思い始めていたというのに。夜明けはいつも唐突で逃れようがない。
 返す言葉がどうしても見当たらず、千世はふふと笑って誤魔化した。そうでもしないと、そのまま夜に置いていかれそうな気がしたのだ。
 夜の濃紺から、朝日の紅への階調が今はやけに眩しく見えた。

(2023.1.6)