満ち足りてるのにまだ埋めたい

2022年12月21日
31日

満ち足りてるのにまだ埋めたい

 

 浮竹は手にしていた書類を文机へと重ね、思い出したようにふふと微笑む。
 休日を使って自宅の掃除をしていたのだ。開かずになっていた書斎の引き出しがうっすらかび臭かったから、天日に干していた。
 中身はもう何十年も前の書類だったり小物類だったり、不要なものは捨てていたのだが、特に懐かしいものが出てきて、つい目を通していたら半日経ってしまった。
 もう庭を見ればすっかり暗い。冬至近くともなれば夜が迫る時間は驚くほど早く、そして痺れるほどその闇は冷たい。
 埃が舞うからと隙間を開けていた雨戸を開けていたのだが、流石に火鉢を傍に置いて居てもこれ以上は耐えれる自信がない。意を決して立ち上がり、雨戸をがたがたと滑らせ隙間なく締め切った。
 棚から大量に出てきたのは、過去の日報だった。席官は毎日何かしら記入して提出させられており、当時副隊長だった海燕が適当な一言と共に印を押している。
 量が量だから、通常は余程重要な情報とはならない限り数年経てば処分されるのだが、見つかった数年分の日報は、浮竹が気まぐれで引き取り自宅で保管していたものだ。
 自分で印を押しているから、当時確認をしている事には違いないのだが、まるで初めて目を通したかのように夢中で読み漁ってしまった。第一、引き取ってしまい込んでいたことすら忘れていたくらいだ。
 些細な任務の報告から、死傷者の多数出たような任務の記録もあった。あとは隊舎のどこが稽古中に損壊したとか、よっぽど暇だった日は掃除した箇所とか、昼食の献立とか。子供の日記のような時もある。
 まるで過去に飛んだような気になった。当時は海燕が副隊長で、千世が五席になったばかりだったか。
 彼女へ向ける自分の感情の異質さに、気づき始めた頃だったと憶えている。もともと彼女が向けてくれる想いを知りながら、しかしそれに応えられることは無いのだと思っていたはずなのだった。
 そうして知らないふりをしていれば、彼女の恋情はいつか萎んで、どこか知らぬ所で誰か素敵な相手の元に芽吹くだろうと思っていた。
 だが運命とはどうなるか分かったものではない。文机の上に重ねられた一番上の書類の端に、丁寧に小筆で書かれた千世の名前を見ながら、自然と目尻が下がった。

「お店がとても混んでいて……遅くなってしまいました」
「ありがとう、仕事帰りに大変だったろう」

 廊下から顔を覗かせた千世に、おかえりと浮竹は微笑む。不満げだった彼女の表情は途端に緩み、そのまま荷物を抱えて機嫌良さそうに去ってゆく。
 今日は浮竹の何度目かの誕生日であった。千世がやたらと張り切って休日を取ると言っていたのだが、生憎外せない任務が舞い込んでしまったようで、後ろ髪を引かれる様子で今朝は出かけていった。
 急な任務にもかかわらず早急に始末する努力が実を結んだようで、沢山食材を買い込んできた割には十分早い時間の帰宅だ。
 食材を勝手場へ置いてきたらしい千世は、襟巻きを外しながら再び浮竹の元へと戻る。火鉢に当たる浮竹の隣へ引き寄せられるようにやってくると、手をかざしながら文机の上の書類にふと目を向けた。

「何ですか、それ……あ」
「懐かしいだろう。書斎の奥から数年分が出てきてね」

 浮竹が数枚を渡してやると、千世は手に取り目を通し始める。千世は途端に表情を崩し、懐かしそうに目を細めた。まるで自分と同じ反応が少し面白くて、その様子を眺めていた。
 一枚、一枚と彼女は夢中で目を通しながら捲くってゆく。

「丁度千世が五席に上がった時期だな」
「志波副隊長の掠れた押印と適当な一言…懐かしいです」
「そうだろう」

 千世が事細かに書き記している任務報告に対して、海燕が「話が長い」と一言返している走り書きを読み、仰る通りだと彼女は笑う。彼の一言は適当なように見えて実に的を得ているのだ。それがまた面白い。
 そんなものが数百枚も出てきたのでは、一日あっても足りないというものだ。生成り色の紙に記された古い日付と名前と、突かれ蘇った記憶と共に当時の感情がずるずると引き出される。

「読みながら、色々と思い出していたよ」
「色々って、何ですか」

 報告書を眺めていた顔を上げ、千世は浮竹を見る。

千世を好きになった頃のことを思い出してた」
「……す………?」

 突然の言葉に面食らったのか、千世はぽかんとしたまま目をぱちぱちと瞬く。鳩が豆鉄砲を食ったような、見事な目の丸さだ。
 そうして表情がころころと変わる様子を、昔から気に入っていた。実にわかりやすいのだ、何を思っているか、何を感じているのか。素直で真っ直ぐで、その性質と同じような思いを、曲げずに向けてくれていた。
 だからこそ、気づけばその姿を目で追うようになっていた。目で追う先で、何度も転びながら懸命に立ち上がるから、余計に目が離せず、気づけば惹かれていた。

「君を好きになって良かった」

 暫く彼女はぽかんとしたまま固まっていたが、えっ、と声を上げまた固まる。言葉を一度呑み込んで、また停止してを何度か繰り返しているのか、そのぶちぶち途切れる思考が目に見えて思わず笑う。
 今恋人になった訳でも無いだろうに、今更驚かれることは無いだろう。だが、だからといって言い慣れている訳でもない。むしろ、あまり口に出すことは少ない。
 だからこそ今日は敢えて言いたくなったのだろう。

「な、何で、そんな……今日は隊長のお誕生日ですよ」
「誕生日だから、なんだ」
「そういう事を言うのは、その……お祝いをする側かなと思いました」

 なら言ってくれ、と浮竹は返す。また目を見開いてえっ、とたじろいでいるが、自分で言いだした事だろう。
 驚いたような表情から、見つめていればやがて恥ずかしそうに目線を逸し、頬を赤く染め始める。先程までけらけらと楽しげに笑っていたというのに、今は潤んだ目を伏せ口ごもる。
 ええと、と小さく漏らした彼女に、ほら、とつい急かすような言葉を零した。うろたえたが、観念したように口を閉じると顎を引き、その小さな唇を開く。

「私も、隊長と出会えることができて…良かったです」
「どう、良かったんだ?」
「ど、どう……?…ええと……幸せとか、そういう事です」

 ふうん、と浮竹はにやと口角を上げて頷く。そのしたり顔に千世はまたみるみる耳を赤くして、口をぎゅうと噤み睨む。睨まれた所で、先程の言葉がまだ耳に残る今何の意味もないし、むしろ微笑ましいくらいだった。
 彼女と思いが通うようになり、今こうして当たり前のように過ごすようになって、忘れていたことを色々と思い出した。彼女の反応に一喜一憂したり、その姿を見て期待したり。理由をつけて声を掛けたり、気づかれないくらいの小さな特別扱いをした。
 この歳を迎えて、得体の知れない感情に戸惑うことになろうなど思って居なかったのだ。だが、それを今は受け入れ生きている。

「もう一回、言ってくれないか」
「……え!?い…嫌です!」
「どうして。俺の誕生日なんだから、別に良いだろう。減るもんじゃない」
「いえ、減ります」

 流石にからかい過ぎたようだ。逃げるように立ち上がった彼女は、まだ耳に赤みを残したまま勝手場の方へと消えていく。
 そのあまりの逃げ足の早さに、残された浮竹は力なく笑った。慌てた様子が可笑しいはずなのに、まだ耳に残る彼女の言葉がこだまして、胸の奥が掴まれたように少し息が詰まるのだ。
 その身も心も手に入れた今もなお、焦がれていることに気付く。自分が彼女へ向ける思いと、同じ重さの応えを望みたくなる。彼女からの愛情が足りていないわけでもないし、大体そんな事、比べるようなものでも無いというのに。
 手に余す感情を前に、浮竹は一人溜息を細く長く吐き出す。だって、まるでこれでは片思いのようではないか。