わたしを侮るなかれ

31日

わたしを侮るなかれ

 

 今日は体調も天気も良かった為、朝から隊舎をうろうろと見回っては隊士に声を掛けていた。
 この所急激に冷え込んだ為か調子を崩し気味だったのだが、ようやく身体が慣れてきたようで目覚めが良かったのだ。
 食堂を通り掛かった時、遅めの昼食を丁度終えたらしい千世とばったり出会った。

「隊長、お身体はもう大丈夫ですか」

 浮竹は眉を曲げ笑い、頷く。今日はもう何度聞かれたか分からない。彼女もそれを察したのか、微笑んで軽く頷いた。
 任務からつい半刻ほど前に帰り、少し休んでようやく昼を済ませた所なのだという。軽く任務の話を聞きながら、浮竹は千世の顔をついまじまじと見つめていた。

「前髪、切ったんだな」

 うっかりであった。そう口にした後、内心頭を抱える。
 予想通り千世ははっと目を見開いた後、みるみると頬と耳は紅くなり、縮こまるように肩をしぼめた。
 食堂から出てきた彼女を見た瞬間から、いつもとは異なる雰囲気に気付いてはいたのだ。それが正面で会話をしている間にどうしても目が離せなくなった。
 彼女の眉のあたりでほぼ一直線に切り揃えられた前髪を、無意識かは分からないが彼女が気にするように触れて梳かすのだ。余程彼女も気にしているように見える。
 前髪を自分で整えようとしたものの、思ったように出来なかったのだろう。その一連の様子が勝手に目に浮かび、それがどうにもいじらしく、つい口にしてしまった。
 気にしているところを見ると、きっと指摘されたくなかったことだろう。それを理解していたというのに、勝手に口をついて出た。

「は、はい……失敗してますよね…」
「いや。可愛いと思うよ」

 あ、とそう返した後に、浮竹は口を滑らせたと固まる。
 本日二度目の失態であった。羞恥で焦げてしまいそうな様子であった彼女を励ましてやりたいだけだったのだ。かといって、嘘や冗談で言ったわけではない。だからたちが悪いのだ。
 前髪がやけにその顔を幼く見せ、更に視線が気になるのかそのそわそわと落ち着かない様子が、胸の奥をこそばゆくする。例えるならば、固く閉じた桜の蕾が少し緩み僅かに覗かせた桜色を見つけた時の、あの心のわななきに似ていた。
 まさか二度もつい、口を滑らせることになるとは思わなかった。
 嘘だとは言えない。だが、その名状しがたい感情をまさかそっくりそのまま彼女に伝える訳にも行かない。
 じっと固まり身動きの取れない千世を目の前に、必死で頭を回転させながら浮竹は猫、と一言呟いた。

「……可愛い、猫の事を思い出したんだ」
「……猫?」
「その、そういう、前髪のような柄を額に持った、猫がいるんだ。偶に、中庭に遊びに来る」

 そんな猫など居ない。架空の猫である。だが、漏らしてしまった可愛いの宛先をどうにかせねばならなかった。非常に無理のある、意味のわからない唐突な発言だと思っただろう。当たり前だ。
 そうなんですか、と千世はぽかんとしていたが、やがて何かしらの処理が頭で行われたのか、納得するようにうんうんと頷いた。
 彼女の物分りが良すぎて、どうにか助かった。浮竹はほっと胸をなでおろす。

「でも、隊長に気付いていただけると思ってなくて……お恥ずかしかったのですが、でも嬉しかったです」

 そう彼女は笑うと、その色づいた頬を隠すように僅かに俯いた。
 まさかそう見事に真っ直ぐ切り揃えている前髪を見て、流石に気付かない者など居ないだろう。だが彼女が嘘を言っているようには見えないし、本心から浮竹がまさかこの変化に気づかないと思っていたようだ。
 余程鈍いと思われているならば、それは心外である。
 まあ確かに昔から、女性の変化に鈍いと言われることは少なく無い。だがそれは興味があるとか無いとか、好きとか嫌いとかではないのだ。良く見ているか、いないかと、ただそれだけの話だった。