大人ならどうするのかな

31日

大人ならどうするのかな

 

 はあ、と千世は深く重いため息をつく。
 今日一日、書類やら本やらよく分からない道具に埋め尽くされた部屋を片付けていた。ここは普段使われているはずがまるで使われていない、副官執務室である。
 海燕が一人で籠もるのを嫌ってあまり使われず、物置になってしまっている。席官執務室の一角が余程気に入っているのか、それとも誰かしらと会話を交わしながらのほうが進みが良いのか。
 監査が来るからどうしても片付けを手伝って欲しいと言われたのが昨日の事だ。日頃世話になっているし、手伝うくらいならばと頷いたのが運の尽きだった。急遽海燕に緊急の任務が入り、千世一人でこの部屋の片付けを明日までに済ませなくてはならなくなったのだ。
 流石に一人では無理だと言ったのだが、頼む、と床に擦り付けるほど頭を下げられては頷くしか無かった。
 襖を開けると雨戸も締め切られて、うっすらかび臭い。恐らく一年に一度、監査の時くらいしか掃除をしていないのだろう。
 ちまちまと部屋の隅から片付けを始めてみてはいるものの、まるで見通しが立たない。席官執務室で休んでいる暇そうな誰かに手伝いを乞おうかと、思い始めていた時だった。

「今年の当番は千世か」
「び、びっくり…しました……」

 ふと視線を感じ振り返ると、襖から顔を覗かせる浮竹の姿があった。
 当番、と彼の言葉を思い出し繰り返すと、浮竹は笑って頷く。襖を後ろ手に締めながら手伝うよと腰をかがめて足元の帳面を手にした。

「毎年海燕が、誰かしらに手伝わせるんだ。去年は確か…朽木だったか」
「確かに、そんな事を聞いたことがあったような…」

 まさか浮竹と二人で片付ける事になるとは思いもしない。誰かに手伝いを乞う前で良かったと、この幸運に口元は自然と緩んだ。
 ぽつぽつと会話を交わしながら、散らかった部屋を地道に整理してゆく。つい先程までは終わりの見えない状況に絶望すら感じていたというのに、今は終りが見えないほど嬉しい。むしろ、一生続けば良いとすら思うのだから単純である。

千世、机の脇にあるそれを取ってくれるか」
「ああ、はい。これですか」

 浮竹に指を差されたものに手を伸ばすが、それではないと彼は首を振る。その横の、と彼の指示に従って手を伸ばすのだが、それも違うそれじゃないと中々意思疎通がうまく行かない。
 とうとうしびれを切らした浮竹は、畳の上の紙を避けながら千世の元へと近づく。つま先立ちのおぼつかない足取りを千世は危なっかしく眺めていたのだが、ぐっ、と潰れたような声とともに体勢を崩す。
 それ見たことか、と思ったのもつかの間、その身体はまさか前のめりに倒れ込む。ぎょっとして声を上げる間もなく衝突を予見して目を瞑れば、間もなく床に背を打ち付け軽い痛みが走った。
 紙が緩衝材となったのか、思ったよりも痛みは無かった。のだが。
 仰向けに倒れ込んだまま、目の前には人影と、そして体温を感じる。早くも大きく脈打ちはじめる心臓の、この先を思うと既に恐ろしかった。だが、ずっと目を瞑っておく訳にもいかず、薄っすらと目を細く開ける。
 天井を背景に、よく知った顔が自分の目を見下ろしている。長い髪の毛先は重力に従って、千世の頬へと垂れていた。くすぐったい。だというのに、退けられるような余裕もない。
 顔のすぐ脇に付かれた両の手のひらと、腿を挟むように付かれた膝は逃げ道を完全に塞いでいた。元より、逃げようという考えすら思い浮かばない状況だった。
 床に散らばった紙類に足を取られ、二人して畳の上へ転倒した。その結果がこの状況だ。順序だてて理解しようとしているのに、間近に迫った彼の顔のせいで頭が働かない。
 ただ、ばくばくと痛いほどに早鐘を打つ心臓だけが、唯一身体で素直だった。

「……悪い、体勢を崩した」
「す、みません、こちらこそ」
「何処か痛くしなかったか」
「はい……特には」

 よかった、とそう彼は特に動揺している様子もなく、すくと身体を起こし羽織の埃を払う。
 意識していたのは自分ばかりだという事実は、痛いほど分かっているというのに実際そう態度で示されるというのは中々に堪えた。分かっているのだ、あまりに報われない片思いだという事は十分なほどに。
 さて、と彼は伸びをすると、足元に散らばる書類を手にしては眺め、机上へと重ねる。その背をまだへたり込んだまま見つめながら、未だに落ち着く様子のない心臓を押さえつける事で必死だった。
 己の未熟さにはほとほと呆れる。この僅かな間にも、彼の衣服越しの身体の熱を、肌の質感を、毛先のくすぐったさを思い返して掻き乱される。
 これからどう彼と二人、この部屋の片付けを進めれば良いというのだ。しかしそう思い悩むのも自分ばかりで、きっと浮竹にとってはさして気に留める事も無い、些細な出来事だったのだろう。
 彼の背には聞こえないくらいの、小さく長い溜息を千世は吐き出した。