美しく色褪せるまで

2022年12月12日
31日

美しく色褪せるまで

 

 昔から、鈍いと同性の友人からはよく笑われていた。自分でそういうつもりはまるで無かったが、異性に関してあまりに鈍すぎると時には呆れられるほどだった。
 その鈍さも、歳を重ねるうちに遠い昔の話となってしまった。語れるほどでもないような事ばかりだが、長く生きればその分様々なものと出会い目の当たりにし、知って覚える。経験するうちに、自然と勘も以前よりは磨かれた。あの鈍いと笑われていた頃を考えると妙なものだった。
 彼女から向けられる眼差しが尊敬からやがて思慕へ変化する事は、その人工的に磨かれた勘でどこか予感がしていたのだった。
 しかし珍しいことではなかった。霊術院という閉鎖空間から外に出て、初めて現れた上司に対しての畏怖や憧れ、尊敬を恋と履き違える者は決して少なくない。
 だが大抵は時間が経ち、いくつもの死線を越え、命からがら過ごす間に甘い感情も薄れてゆくのだ。己の無力さに思い悩み、失敗し落ち込む事を繰り返し現実を思い知らされてゆく。やがてただ憧れの延長であったと、自ずと知るのだろう。
 だが、彼女に限ってはそうならなかった。入隊時と変わらない真っ直ぐで混じりけの無い思いを、未だ飽きずに向けてくれているのだから大したものだと思う。

 彼女の持つ夢の話を、一度海燕から聞かされたことがあった。それは確か彼女が十八席に上がったあたりだろうか。
 その頃の千世は任務以外は修練場に籠もっている事が殆どだった。非番も休憩も関係なく、竹刀を持って修練場の主となっていた。練習相手になってくれと竹刀を握らせては、お願いもう一回を繰り返し、吐くまで相手をさせるからやがて修練場には誰も寄り付かなくなっていた程だ。
 唯一朽木だけが彼女の良い練習相手で、汗を滲ませながら随分楽しげであった様子を何度か隙間から覗き見たことがある。
 しかし修練場に顔を出せば彼女に捕まえられるからと、満足に利用できなくなった隊士達からはちらほらと愚痴が漏れ始ていた。どうしたものかと思っていた頃、丁度海燕から話を聞かされたのだ。

「隊長、日南田の夢聞いたことありますか?」
「いや、無いが…どうして」
「隊長の為に死ぬ事だって、この前豪語してましたよ」

 へえ、と浮竹は笑う。海燕はその反応が予想外だったのか、あれっと目を瞬いた。

「多分あいつ大真面目っすよ、すげえ酔ってはいましたけど」
「隊長冥利に尽きると思ってな。嬉しい事じゃないか」
「そうっすかね……?俺だったら重いって断りますけど」

 納得してしまったのだ。彼女がそれほどまでに力を欲する理由が、きっとそう豪語して恥ずかしくない実力である為なのだろうと思い当たった時に言い得ぬ感情が滲んだ。
 初めて知った訳ではない。生温い何かが胸へ流れ込む感覚というものは、彼女を知るほどまるで半紙へ垂らした墨汁のようにゆっくりと広がった。それは懐かしいというのに、思わず目を瞑りたくなるほど鮮やかな色をしている。
 出会った頃から今まで、彼女の人生からすれば決して短い時間ではない。にもかかわらず一寸も変わらない強い眼差しを飽きずに向け、それどころか命を賭してまでも良いと宣う。
 しかしその懸命な思いに応えられる事は、きっとないのだろう。彼女はまだ若く、知らぬことに溢れている。様々な経験をし人と出会い、その中で思いは間違いなく形を変えてゆくだろう。
 だがせめて、悪い思い出とはならぬようにと思う。せめて彼女がこの先笑って思い返せるように、向けられた眼差しを、彼女を入隊時から見守る上司の一人として精一杯受け止めてやりたいと思う。踏みしめる足元が揺れぬように、伸ばす指先が震えぬように。

「……重いとか言いましたけど、俺も都の為ならそう思えますよ」
「ああ、誰しもそういうものを持っているはずだよ。何かを思い、守り、だから生きるのだろうね」

 海燕は暫く宙を見上げていたが、やがてうんうんと何かに納得するように頷くとふと微笑んだ。
 妻の姿でも思い出したのだろう。愛しい姿が脳裏に浮かべば、自然とそう優しい笑みを浮かべられる。浮竹もふと緩みそうになった唇を、持ち上げた湯呑へ寄せるのだった。