祈るのはやめて

31日

祈るのはやめて

 

「……それは大丈夫なのか」

 咄嗟に漏れた言葉を、浮竹はすぐ悔いて口を噤む。無意識であった。頭にふと浮かんだ言葉を、そのまま口から零してしまうことなどあまりない事だ。

「それは、日南田殿がということでしょうか」
「ああ、いや。随分遠い場所だと思ってな、移動が大変だろう」
「ええ、確か……移動には半日程掛かる距離と聞いています」

 朽木は頭に地図を思い浮かべているのか、宙へ視線を向けた。特に先程の浮竹の言葉を気にしている様子はなく、一安心であった。
 彼女が浮竹のもとへ訪れたのは、今朝任務へ出立した千世の件を報告する為だった。単なる討伐任務ならば態々知らされることもない。しかし今回は夜警中の急な出撃要請となった為、念の為と言伝を受けた朽木が報告に訪れたという訳だった。
 さらに聞けば深夜の要請だった為人手がなく、まだ入隊二年目の隊士を連れて出たという。夜警からの出撃となり、ただでさえ注意力は落ちやすいはずだ。更にまだ状況判断も危うい新入隊士が傍に居たのでは、彼女の自由がきかない場面も考えられる。
 それを、うっかり朽木に漏らしてしまった。隊士の実力を信じていないかのような軽率な発言であったと反省した。勿論彼女の実力を認めていない訳ではない。だが条件を聞くと一抹の不安が残る状況である。
 一瞬の判断の誤りが命を落とす。嫌というほど、その場面を目の当たりにしてきた。たとえ席官の実力があろうと、低級虚相手の任務で落命する事が無いわけではない。死神として命を賭している以上、絶対など無い。

「今日の夕餉までには帰ると意気込んでいらっしゃいました」
「…夕餉までに?」
「はい、鮎の塩焼きだからとの事で…お好きなんでしょうか」

 成程、と浮竹は険しい顔のまま頷く。きっと千世からそう宣言された際に、朽木も何故かと聞いたのだろう。彼女の好物の一つなのか、出立の前にそう言い切るあたり、余程楽しみにしていたと見える。
 以上の報告を終えた朽木は、それではと頭を下げる。部屋を出て襖を締め切ったのを見届けると、浮竹は顔の力を抜き、とどめていた溜息を深く長く吐き出した。
 自分の心配が取るに足らない事だと気付き力が抜けたのだ。鮎の塩焼きを楽しみに出立したくらいなのだから、いらぬ心配に違いない。
 任務が常に命の危機に晒されている事など、彼女は百も承知だろう。聞き齧った状況だけで勝手に不安を覚え、あろうことか口にするなどあまりに軽率であった。
 朽木には誤魔化しがきいたものの、これが海燕であったならつつかれそうなものだ。どうして彼女にだけ、と図星を突かれた際の上手い返答を、自分が咄嗟に思いつけそうにない。
 隊長として出来ることといえば、彼女達の力を信じ無事帰隊を待つ事だけだった。長くこの職位に就き、それは十二分にも分かっている。誰に対しても同じだけの信頼を、同等に向けている筈だった。
 だが参ったものだ。徐々に形を変えていく彼女の対しての感情が、比べて異質であるものに気付いている。彼女が何も特別ではないのだとそう意識して戒める事こそが、何よりも答えになってしまっていた。
 いかん、と浮竹は首を振り再び文机へ向かう。考える程ど壺にはまるようだった。泥濘んで歩くこともままならない沼地のようでもある。
 再び筆を握りしめながら、自然と深く息を吐き出す。目まぐるしく変わりゆく景色に、まだ慣れそうにはなかった。