乾くまで待っていて
月に一度、腹の重くなる日があった。今日がまさにその当日である。
千世は修練場から離れた、雨乾堂を囲む池のほとりに居た。朝晩と冷え込むようになり、どことなく池の鯉の動きも鈍い。夏頃は近寄ればばしゃばしゃと飛び跳ねるように餌を求めて来ていたが、今はゆっくりとその尾びれを揺らしている。
寒いのは千世も同じである。だが、こうして寒い中池の鯉を眺めていると余計なことを考えずに済むから良いのだ。寒さに耐えながら、ゆらゆらと揺れる鯉の尾びれを見ていると、不思議と時間が過ぎてゆく。
今、修練場では浮竹と海燕による月に一度の隊士向け剣技指導が行われている。千世も以前は参加していた。隊長副隊長からの直接の剣技指導というものは滅多に受けられるものではない。
学ぶことは多く、二人と会話ができる機会など滅多に無かったから喜んで参加をしていたものだ。
だがここ最近、特に五席に上がってからというもののあまり気乗りしない。
当日は剣技指導に出席したいという隊士に変わって任務に向かうか、隊舎待機となってしまう場合は修練場からなるべく離れた場所で心を無にすることに徹していた。
「千世、此処に居たのか」
「は……はい!?」
突然背後から掛けられた声に、飛び跳ね背筋をぴんと伸ばす。素っ頓狂な声を上げたせいで、鯉がさっと逃げ出した。恐る恐る振り返れば、浮竹がにこりと微笑んでいる。
まだ終わりまでは時間があると思っていたのだが、予想外であった。終わる頃にはこの場を離れようと思っていたというのに、まるでこれでは浮竹の帰りを待っていたかのようではないか。
「最近、来てくれてないだろう。少し踏み込んだ事もするようになったから、都合がつくなら顔を出して欲しいと思ってね」
「す…すみません。出席したい気は山々なのですが、なかなか都合が…」
「ああ…いや、悪い。無理にとは言わないんだが…千世には色々と学んで欲しいからね。君のこの先の為にも、隊の為にも」
身に余る言葉に、千世は恐縮して身体を窄める。まさか、参加していない事を知られているとは思っていなかった。参加は自由で、特に出席を取られている訳でもない。
予定のつく隊士の殆どは顔を出すくらいの多人数であったから、まさか千世の欠席まで把握しているとは思いもしなかった。
そんな事を直接言われてしまっては、来月からは顔を出さなくてはならない。嬉しいはずだというのに、千世は内心何とも言い難い気分であった。
参加を渋る原因が、あまりにくだらないと百も承知であったからだ。というのも、彼が無作為に選んだ数名の隊士を手本に、手とり足取り指導する様子を見るとどうしても胸がざわついて仕方がない。
男性隊士ならばまだ良いとして、女性隊士も勿論彼は平等に選ぶから、構える模擬刀に手を重ねる様子や、肩に触れ背に触れ姿勢を正す様子に言い得ぬ感情が滲み出す。指導のためであって、他意など無いと分かっているのだが、じめじめと嫌な胸の内であった。
だが以前まではそこまで強い感情を覚えたことは無かったはずだった。特に強く覚えるようになってしまったのは、ここ最近のことである。席次が上がり彼と会話する機会も徐々に増えたからか、一体何を勘違いしているというのか。
そんな下らぬ悋気で、貴重な指導の機会を逃すのはあまりに勿体ない。だが、その湿った感情を抑える術が今は無く、仕方無しにこの状況を選んでいた。結局のところ全ては未熟故であり、恥ずかしい限りである。
「来月は待ってるよ」
「来月……」
「……もう先約でも入ってるのかい?」
「いえ…いえ!何も予定は無いです」
それなら、と微笑む浮竹に千世はまた恐縮して深く頭を下げる。
顔を上げてもまだその穏やかな笑みを湛えた表情に不意にどきりとしていれば、間もなくくるりと背を向け雨乾堂の方へと去ってゆく後ろ姿を見送った。
二人だけの場で会話を交わしていると、冬の朝空のように心が凪ぐ。醜い悋気など嘘のように影を潜め、澄み切った青い空のような清々しさだ。
表では平静を装いながら、乱高下を繰り返す胸の内が果たして来月の今日までに収まるかどうか、甚だ疑問であった。