あなたはもう引き返せない

31日

あなたはもう引き返せない

 

 久しくその感情を忘れていた。忘れていたという事すら忘れているほどだった。
 事の切欠は先日開かれた席官昇進を祝う宴席でのことだった。彼女が五席へ上がった祝いの席を設けようと言い出したのは仙太郎だったか清音だったか、それとも海燕だったか。
 場は大いに盛り上がった。皆何のための宴席であったかなど忘れ、好き放題に酒を浴び場は荒れた。仙太郎や清音などはもともと酒が入った様子を良く知っていたから今更驚かないが、千世が見るも無残に酒に呑まれる姿には驚いた。
 事前に海燕から噂は聞いていたのだ。日南田は酒が入ると様子が変わるから、浮竹の前で少し心配だと。しかし彼女がまさか酒に呑まれるような性格には思えない。想像ができず、海燕が多少大げさに言っているのだろうと思ったのだ。
 だが驚いた。まさか海燕の言っていたことが現実であったとは思わず、呂律も回らず耳の先まで赤く染めぐったりと清音に身体を預ける千世を物珍しく、思わずまじまじと観察してしまった。
 中盤までは呂律が回らないながらもまだ会話は出来ていたはずだったが、気づけばぐったりと座布団を枕に口を開けて眠っている。しかしそんな事周りにとっては日常茶飯事ではあったのか、主役であるはずの千世を放ったらかして大盛り上がりを続けていた。
 肌寒い季節ということもあって、そのまま眠っていたのでは風邪を引きかねない。眠る千世の身体を無理やり起こし、言葉にもならない声をもごもごと漏らしているがそのまま担ぎ上げる。唯一正気を保っている海燕に、救護室へ連れて行くと伝えるとそのまま部屋を出たのだった。
 彼女が冷えてしまうことも心配だったが、あの賑やかさから少し休憩したかったという事もあった。この年になれば、賑やかすぎると多少疲れも出る。良い言い訳だったかもしれないと、彼女の身体を腕に抱えたまま、静まり返った隊舎の廊下を進む。
 布団が等間隔に並んだ救護室は今の時間がらんとしていた。稽古中の打ち身や失神、その他体調不良等で昼間は使用され、夜は仮眠や休憩で使う者も居るようだ。
 そのうちの一つに、千世を寝かせる。冷えぬよう上から布団を掛けてやれば、もうやってやれることはこれ以上ない。だが布団を掛けられた途端、穏やかに寝息を立てる彼女の寝顔を、つい立ち止まって眺めてしまった。
 ここ最近特に、何かしらの異質な感情が、彼女に対して向き始めていた事を自覚していなかった訳ではない。彼女に対して、少なくとも出会った当初は大切な部下の一人に違いなかったが、果たしていつから徐々にその形を変えたのか分からない。
 痛いほど真っ直ぐに向けられる敬愛の眼差し。今の全てに満足をせず、きっと彼女の中に軸となって存在する目標のため研鑽を続ける生真面目さ。しかしそれは盲目的で未熟で、しかし性懲りもなく足掻き続けている。
 着実に力をつけ成長をする姿を、いつしか目で追うようになっていた。不思議だ、彼女のような努力家の隊士は無数にいるというのに、どうして彼女ばかりが特別になりつつあるのかと。
 その寝顔を見つめてしまったのは、恐らくその理由を探したかったからだった。すうすうと寝息を立てる彼女を、まるで足が畳に張り付いてしまったように見つめていれば、口を僅かに開けた彼女がもごもごと何か言う。
 ん、と思わず腰をかがませ耳を澄ませた時、勢い良く腕を捕まれ力がかかり、体勢を崩した。思いもよらない事に妙な声を上げじたばたとしたものの、異常なほどに強い力で布団へと引き込まれ大いに動揺した。
 病がちとはいえ体格は人並み以上の自信があったが、まさか女性一人にいともたやすく引きずり倒されるとは思わなかったのだ。まるで抱き枕のように身体へ絡みつく彼女は勿論夢の中で、浮竹の胸元へ頭を乗せまたすうすう寝息を立てている。
 あまりに急な出来事に、思わず呼吸を止め固まったまま浮竹は彼女をじっと見つめていた。しかしふと我に返り、この状況を誰かに見られたのでは流石にまずいと、やがて慌てて引き剥がし、布団の外へと命からがら逃げ出した。
 大した運動でもないというのに肩で息をして、乱れた髪を耳へ掻き上げる。
 度々違和感を感じていた。その理由をとうとう突き止めてしまったようだった。
 懐かしく胸へ流れ込む生ぬるい感情の名を、確かに知っている。いや、きっと知っていたのだろう。知っていたが、あえて素知らぬ振りをしていた。
 収まる様子を見せない心拍がどきどくと心臓から血液を送り出し続ける様子は、まるで打ち鳴らされる警鐘のようであった。
 まさかこんなことで、こんな事故のような些細と言えば些細な出来事で追い詰められるとは思いもしない。穏やかな寝顔を見つめながら、取り返しのつかない程に溢れ出した感情をただ垂れ流したままにしていた。
 覆水盆に返らずとはよく言ったものだ。この水浸しになった状況をどうする手立てもない。唸りたくなるほど深く染み込み、呆れたくなるほど広く飛び散った。
 浮竹はただ浅く息をしたまま、その急転直下に呆然とするしか無かった。