いきなりというわけには

31日

いきなりというわけには

 

 耳を疑った。目の前の男が口にした言葉をゆっくりと何度も頭の中で繰り返しながら、その穏やかな顔を目を丸くしてまじまじと見つめる。
 一瞬前まではまだ多少思考する余力があったのだが、徐々に状況を理解するにつれてその異常事態に目眩がするほどの動揺を覚えた。
 白い隊長羽織に腕を通した長い白髪の男、つまり自隊の長である浮竹はその隊首室である雨乾堂で
いつものように穏やかに微笑んでいる。千世の動揺など素知らぬように、その眼差しでもって答えを無言で急かすようだった。
 書類を届けに来ただけのはずだった。ただ数枚のどうという事のない書類に印を押して貰う為にこの雨乾堂へ訪れただけだった。押印を済ませた書類を千世へ差し出したと同時に、彼の口から耳を疑うような言葉が溢れた。
 暫く無言で口をぽかんと開いていれば、彼は笑ってもう一度同じように繰り返す。結婚をしよう、と彼はもう一度、その唇から紡いだ。

「っど、どうしてですか……!?」
「どうしても何も、君に惚れている以外の理由があると思うか」
「い…いつからですか……!?」
「いつからだろうな。気付いたら」

 浮竹はそうあっけらかんと笑う。ますます混乱を極める頭で必死に状況を理解しようとするものの、あまりに突拍子のない求婚を素直に飲み込むことなど出来なかった。
 数十年に渡る片思いは驚くほどの質量になっていたが、しかしこう突然叩きつけられてもすぐに昇華されるというものではない。千世の片思いは事実だが、彼からの恋愛的な愛情を感じたこともなければ付き合う過程もすっ飛ばし、突然求婚されてもやはり、はいとは頷けない。

「で、でも……私、そんな大層な者ではありませんし……」
「何が大層かの基準は分からないが…」
「でも、そんな…私なんかが隊長のその…お傍に居て良いような……」

 もごもごとそう答えるが、その有無を言わさぬような彼の表情を見るに、千世には首を縦に振る選択肢しか無いようだった。
 深く長く呼吸を繰り返しながら、彼の目を見返す。その眼差しが自分だけに向いている事をきっと喜ぶべきなのだろうが、だがどうしても素直に頷くことが出来ない。彼に恋をし続けているということは、つまり今彼から思いを向けられる事をきっと望んでいたはずだろうに。
 何か答えようと口を開くものの、結局言葉が出て来ず池の鯉のように口をぱくぱくとさせる。だがそうする間にも時は過ぎ、彼はゆっくりと瞬きをする。答えを早く出さなくてはと焦りごくりと唾を飲み込むと、千世、と彼の低い声が呼んだ。

「答えを聞かせてくれるか」

 彼が差し出した手が、頬へと伸びる。触れられてしまえば、何かが終わってしまうような気がしてならなかったが、しかし同時に彼の体温を知りたかった。
 指先が、綺麗に切りそろえられた爪の先が近づく。近づく体温に千世は微かに身じろいで、息を呑む。胸に渦巻く思いの行方を案じながらも、しかし差し伸べられる手のひらの熱はあまりに蠱惑的であった。

「ゆ、夢か!?」
「……大丈夫?千世さん、さっきからずっと魘されてたよ…丁度起こそうと思ってたくらい」
「え!?ああ…うん、…うん……夢か、ああ……そうだよね…夢に決まってるよ……」
「どうしたの一人でブツブツ……怖いよ…」

 起き上がった千世は、ここが席官執務室である事を思い出す。
 夜間任務だったが、隊舎に戻って早々清音からどうしても仕事を手伝って欲しいと言われて此処へ来たのだった。ある程度片付いたところで猛烈な眠気に襲われ、座布団を枕に仮眠を取っていた。
 清音は不安そうな表情を向けるが、千世は未だ夢に囚われ散漫であった。

「夢ならとりあえず受けとけば良かった…」
「え、何?」
「全く同じ夢って、頑張れば見れるかな」
「そんなにいい夢見てた割には、めちゃくちゃ苦しそうだったんだけど…」

 彼女の不審そうな目線を横目に、再び座布団を枕に横たわる。深い溜め息を長く垂れ流しながら、夢とはいえども頭に残る甘い光景を一人密かに噛み締めるのだった。