つかぬことをお尋ねしますが

31日

つかぬことをお尋ねしますが

 

 時折耳に入る話題がある。
 それはいつも千世の心臓の裏側を指先でゾゾゾと引っ掻くような感覚を与える。簡単に表現をしてしまえば、不愉快という一言で片付くのだろう。
 だが不愉快という言葉で表現をする資格すら無い立場であったから、いつも話題が耳に入り次第そっと意識を他へと向けてその場を凌ぐのだ。
 今も丁度そうだった。五席の千世と一般女性隊士二名、合計三名編成での任務から隊舎へと戻った際だ。偶々廊下で隊長である浮竹と出会い労いの言葉を掛けられた。皆色めき立ったものだ。特に一人の動揺は千世が目を丸くするほどであった。
 その話題に転換してしまったのは、浮竹の背を見送ってからだった。
 後輩隊士の一人がおずおずと、浮竹が今自分ばかりを見ていなかったかと言い出した。ああ、と千世は途端に天を仰ぎたい気になったものだ。
 十三番隊に配属された隊士ならば男女問わず一度は経験する。必ずと言っても良い。もちろん千世も今まで何度も経験したが、やがて彼をよく知るにつれ徐々に現実を受け入れた。
 それは彼のあの慈悲に満ちた眼差しと、優しい声音に起因する。あの包み込むような彼の纏う空間に一瞬でも浸ってしまえば、うっかりその全てが自分のみに向いているのではないかと思う。それはもはや致し方ないことだった。
 それほどまでに彼から隊士へと与えられる愛情は深かったが、しかし同時に果てしなく平等であった。
 彼の公平性を知れば勘違いをする事にはならないのだが、その後輩隊士はまだ入隊数年と若かった。浮竹との会話も数えるほどであったから、彼のあの柔らかい眼差しや包み込む優しさに慣れていなかったのだろう。
 薄っすら頬を染める彼女が別れ際、高揚した様子で千世へ再びおずおずと聞いたのは、浮竹が既婚であるかどうかであった。再び天を仰ぎたい気分だった。
 この隊で過ごした数十年で得た経験によって、千世は彼女の疑問に微笑みながら首を降ることが出来たものの、しかしその実決して口に出せないような濁った感情で満たされる。
 だが、考えてみればそんな感情を覚える権利も無い。勝手に懸想をしているだけで浮竹はただの上司であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
 そう分かってはいても、あの目の色が変わる瞬間というものはどうにも苦手だった。瞬間に湧き出すどろりとした感情に、自己嫌悪を抱く事も含めてである。

千世ちゃん」

 突然の事にびく、と千世は飛び上がる。ふと横を見ると、京楽がひらひらと手を振っている。後輩隊士が浮かれている最中、今日の夕飯はこの定食屋の親子丼にすると決めていたのだ。
 まさかの姿に焦って立ち上がり彼の方へ正面を向けると、背筋を伸ばし深々と腰を折った。やめてよ、と笑う京楽に畏れ多くも千世は再び腰を下ろす。
 他隊の隊長と偶々出会うことなど珍しい上、顔を覚えられている筈もないから声を掛けられることなど普通はあり得ない事態だ。だがどういうことか、五席の身分でありながらも京楽からは顔を覚えられ、こうして声を掛けられる事まである。
 浮竹の遣いで一度八番隊舎まで書類を届けたことがあったが、その頃からだっただろうか。それだけといえば、それだけなのだが。

「浮かない顔だねえ」
「いえ、…いえ。そんな事は無いです」

 千世は首を振ったが、京楽はふうんと何か含ませるように頷く。暫く二人はそのまま無言だったが、胸に蟠る感情がどうにも抑えきれず、あの、と千世は口にする。

「浮竹隊長は、その…昔から女性からの評判が良かったのでしょうか」
「つまり…モテてたかって事かい?」

 直球に返され、千世は誤魔化すように目線を少し外す。つまりそういうことだ。何を聞いてしまったのだと早速後悔するが、この後悔を事前に含めて口にしたのだった。
 そうだねえ、と京楽は腕を組んで宙を見る。

「ボクほどじゃないけど、女子人気はそれなりにあったんじゃないの。でも当の本人があんまり興味なかったから、危機意識は一切なかったね」
「危機意識ですか……?」
「その気のない相手にその気がない態度を取る事は、相手の為になる事だってあるだろう?そういう危機意識。浮竹はそれが出来ないから」

 彼が言う事は確かに思い当たる。危機意識がないとは感じたことはないが、うっかり勘違いするほどに彼は愛情深く人を見守っている。それが昔から変わっていないのだと彼の旧友から聞くと、あの時濁った感情が少しは浄化されるような気もしていた。

「どうしてボクがこんな浮竹の個人的な事を話すんだと思う」
「ええと……いや……試されている…?」
「何を試すのよ」

 吹き出した彼に、頓珍漢な答えであった事を恥じて冷や汗が吹き出すのを感じた。口の堅さを試しているのではないかと思ったのだが、そういう訳では無いらしい。
 京楽はひとしきり笑うと、ふうと息をついて湯呑のほうじ茶を飲み干して腰を上げる。

「そういえばここの親子丼、浮竹も好きだって言ってたなあ」

 丁度千世の元へ運ばれてきた親子丼に一瞬立ち止まった京楽は、そう呟いてから飄々と去っていく。
 いただきますと手を合わせながら、単純なことにあの濁った感情は一瞬で吹き飛んでいた。ただ同じものが好きだと分かっただけで吹き飛ぶような浅いものだったのか、もしくはそれを上回るほどに恋情が肥大しているのか。
 どちらにしても、目の前の親子丼を口に運べば、頬が落ちるくらいに美味だった。