氷はすっかり溶けてしまった

2022年11月20日
31日

氷はすっかり溶けてしまった

 

 急な寒暖差の為か、大きく体調を崩した。
 元々身体が強くないというのは恥ずかしながらも周知の事実で、ある意味それに助けられている節もある。というのも、隊士達のほうが浮竹が体調を崩す前兆に敏感で、昨日から顔色が悪いと行き交う隊士達から口々に心配されていたのだった。
 そのご指摘通り、今朝から高熱と咳に魘されていた。あまりに昨日は隊士達が心配をするから、大事を取って夜は早めに床についたのだが。浮竹はひとしきり咳き込んだ後、熱い額に掌を宛てて深い溜め息を天井へ吐き出す。
 茶箪笥に薬はあるが、白湯を取りに行かなければならない。ついでに氷嚢も欲しい。もう数時間すれば、雨乾堂から出てこない浮竹を心配して清音か仙太郎が顔を出すはずだが、それまで耐えるのは少しばかり辛い。
 出勤時間まではまだ時間もあり、隊舎を行き交う隊士達を捕まえる事も叶わない。
 となれば致し方ないかと、浮竹は体力の全てをかき集めてぐったり身体を起こす。節々が痛い上に、高熱のせいで筋肉の反応が鈍く行動全てが遅い。今有事とならないことを願うばかりである。
 ここまで体調を崩したのは久方ぶりだ。目眩で倒れるのも高熱を出すこともそう珍しくないが、今のように体力が蒸発するような状態にまで陥る事は、年に一度あるかないかくらいだろうか。参った、と思わず独り言つ。
 布団から這い出て壁を頼りに立ち上がり、どうにか雨乾堂から出る。壁伝いに進んだところで、渡り廊下を這う以外で移動できる気がせず呆然としていた所だった。

「隊長、大丈夫ですか…?」
「……千世か、助かった」

 霞む視界の中、向こうから歩いてくる人影に縋るような思いだった。浮竹の姿をどこからか見つけたらしい千世が、不安げな様子で傍へと駆け寄る。

「悪いが、白湯と氷嚢を頼めるか」
「ええ、はい勿論です。今持って参りますが…お布団戻れますか」

 本音を言えば支えて欲しいくらいだったが、流石にそんな事を頼める訳がない。うんうんと頷けば、彼女は不安そうに眉を曲げたままばたばたと駆けて行った。
 彼女が戻ってきたのは、命からがら布団へ戻って間もなくだった。氷嚢と白湯、ついでに喉が乾くだろうからとやかんごと運んできた千世は、浮竹の枕元に腰を下ろす。半身を起こし、薬を口に含んですぐに白湯で流し込んだ。

「氷嚢は…」
「……度々悪いが、載せてくれると有り難いな」
「は、はい。では、ええと……載せます」

 緊張したような言葉の後、ひやりと額が冷たくなる。じゅうと音を立てて、身体の熱が蒸発していくようだ。うっすらと目を開けて彼女を見れば、変わらず眉を八の字にし、口をへの字に曲げる様子に力なくふっと笑う。
 少しでもその眉間の皺を取ってやりたくて、世話を掛けてしまったねと、そう伝えてやりたかったのだが、残念ながら意識が落ちてゆく方が早かった。

 まるで息を吹き返したように、急に目が覚めた。どれほど眠っていたのか分からないが、外が暗い。朝か夜か分からないが、昼を丸々眠って過ごしていたのは違いなかった。
 額に手を当てれば、まだ少しは熱いがすっかり落ち着いている。呼吸も多少楽になり、安堵したように天井へ向けて溜息を吐き出した。
 ふと寝返りを打つと、氷嚢がぐったり落ちている。確か、と朝方のことを思い出す。千世に頼んで用意して貰い、我儘を言って額へ載せてもらったのだった。
 熱に魘されぼやけた視界に映った彼女の不安げな顔を思い出す。
 拾い上げると、小さくなった氷がまだ残っているようだった。まさか千世が載せてくれた時の氷ではあるまい。
 ふと布団の脇を見ると桶が目に入り、僅かに身体を起こして見れば水に氷が浮いている。僅かに残留する霊圧を感じ、彼女が用意してくれたものだと分かった。氷が溶ける頃に顔を出して、新しいものに替えてくれていたのだろう。
 眠り続けているうち、何度様子を見に来てくれていたのだろう。面倒を掛けてしまった。
 きっと今日は隊舎での内勤であったはずだ。上位席官となってから任されるようになった机仕事には、なかなか慣れないのだと困ったように笑っていた事を思い出す。
 面倒を掛けたことを心のうちで詫ながらも、しかしどこか満更でもない感情が隅に生まれていた。
 その感情には、いつからか時折行き当たるようになっていた。いつからだろうか。切欠は分からずとも、その存在を確かに意識することが徐々に増えていた。
 しかし胸の奥に渦巻くそれを、きっとまだ言葉にしてはならない。名前をつけたところで、その行く先を今は決めることが出来ない。
 静かな部屋を見回す。時間の経過とともに、まだ微かに残っていた彼女の気配が消えていく。いつもと変わりのない慣れた殺風景だというのに、今はやけに広く思えたのだった。