立冬

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立冬

 

  気付けば夜が随分静かになっていた。少し前まではまだ肌寒いくらいで、鈴虫や蟋蟀のにぎやかな声で満たされていたというのに。
 時折吹く風は凍えるような冷たさを伴っていて、羽織だけではそろそろ心もとないようにも感じる。まだ微かに残る音の主たちは、命尽きる前に相手を見つけることが出来るのだろうかと一抹の心配を枯れた草むらへと向けた。
 前々から声を掛けられていた、お偉方との宴会から帰宅途中であった。絶えず注がれる酒を断ることが出来ず、流れのままに呑み込んでいたら流石に多少酔った。
 帰路を少し逸れ、寝静まった住宅街をゆっくりと歩を進める。このまますぐに帰宅しては酒臭いと顔を顰められそうで、多少の酔い覚ましのつもりだった。雲のない夜空に浮かぶ小さな月を見上げながら、耳の奥に残っていた喧騒が消えてゆく。ようやく一人で呼吸を出来る喜びに一つため息を吐き出した。
 宴席は瀞霊廷の中心地にある高級料亭で設けられ、綺麗に着飾った女性が常に横で甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていた。
 女性たちは小難しい役職名のついた年寄りたちの会話ににこにこと微笑みながら絶えず酒を注ぎ、唄が聞きたいと言われれば三味線を手に唄い舞い踊り、嫌味の応酬が始まれば長閑な事を言って和ませる。その笑顔の裏の気遣いに、つい息が詰まりそうになる。
 こうした芸妓が付く宴席が昔から苦手だったのは、どうにも自然と彼女らの気遣いばかりに気が行ってしまうからだった。彼女らにとっては仕事であって一客に心配される筋合いなど無いのだろうが、こればかりは己の性分だった。
 びゅうと吹いた風に、浮竹は思わず首をすくめた。いくら酔い醒ましとはいえ、この気温では流石に風邪を引いてしまう。
 この道を南へ曲がればもう自宅が近い。少し遅くはなったが、いつものようにあかりを灯して彼女は待ってくれているのだろう。こういう日は先に寝てなさいと伝えているにもかかわらず、しかしそれが守られたことはない。
 布団の上で本を片手にうつらうつらとしている事はあれど、大体は縫い物をしていたり、机に向かったりしている。ただいまと声をかければ、おかえりなさいと嬉しそうに顔をくしゃっとさせ、彼女の背後にはまるでぶんぶんと振り回される尻尾が見えるようだった。
 その姿を自然と思い浮かべて顔の力が抜けるのは、早く彼女に会いたいという理由以外に無い。
 自分の都合で彼女の貴重な時間を奪っていることを申し訳ないと思いながらも、笑顔で迎えてくれることが嬉しくて、つい望んでしまっている。今日は酔い醒ましに少しばかり遠回りをしてしまったが、だがそれでも彼女は起きて待ってくれているのだろう。
 芸妓の気遣いに息苦しくなっていた割には、随分彼女相手に自分勝手ではないか。勿論分かっているが、だが彼女にはどうにも今まで覚えたことのない感情が芽を出す。
 あの屋敷において、彼女を支配してしまっている自覚があった。それはつまり彼女の頭の中の話だ
 隊舎での千世は執務室でひたすら書類と格闘し、慌てたように廊下を駆け抜けていく姿もよく見る光景だった。常に業務を抱え追われ走り回り続けている彼女が、しかし家では緩みきった顔で常に浮竹の傍へすり寄る。
 仕事から離れ、ひとたびあの家に入った途端彼女の頭は浮竹が中心になってしまうようだった。
 浮竹が家に居れば風呂も食事も、庭掃除も読書も就寝までも浮竹の都合に合わせるか、自発的なことはたいてい確認を取る。気にせず好きにしてくれて良いと何度も伝えているのに、どうしてもその癖は抜けないようだった。
 癖というよりも、あの家での彼女の過ごし方なのだろう。浮竹の行動を中心に過ごすことが彼女にとってどうにも心地が良いようだった。それはまるで支配しているようだと思う。支配という言葉は好まないが、しかし時間と思考を囚われる事を、彼女がそう求めている。
 それが正しいことであるかは分からないが、彼女がそれで幸福ならば良いというのが浮竹の最終的な見解だった。
 暗い自宅の門戸を潜り、戸を開く。冷めきった身体は、部屋のほんのりとした暖かさに滲んでゆく。引き戸の音に反応した留守番は、早くも襖を開き廊下へと顔をのぞかせた。ただいまと言えば、彼女は満足そうに微笑んだ。

「おかえりなさい」
「まだ起きていたのかい。今日は遅いから寝てるように伝えただろう」

 式台へ腰を下ろし、草鞋を脱いでいれば千世の気配を背後に感じる。振り返ろうと身体を捻ると、しゃがみこんだ彼女が丁度鼻をすんすん言わせていた。

「すごい白粉の匂いがします」
「……芸妓さんがずっと横に居たから、匂いがうつったかな…」
「芸妓さん、ずっと横に居たんですか」

 良いな、と千世はこぼした。何かを疑っているような口ぶりでは無いが、ぽつんとこぼすようだった。宴席を想像したのだろう。
 だが彼女らは横にずっとついては居るが、酒を注いだり時々話しかけられるからそれに返したりするのみだ。浮竹は殆ど、立派な髭を生やした年寄の話に愛想笑いをしていたばかりだった。

「今日はこれからずっと傍に居るだろう」
「そうですが、……でもそれでも少し羨ましいです」

 なんて冗談です、と千世は我に返ったように目線を上げて笑う。まさかそう言われて、冗談だったのかと納得するはずがない。きっと本心からの言葉だったのだろう。数時間でも傍にいる事の出来た女性に対して、きっと手に余るような嫉妬を抱えている。
 楽しかったですか、と分かりやすく明るい口調で話題を変えた千世は立ち上がりかけたが、その手を引いて戻す。体勢を僅かに崩して膝と手をついた千世は、目を丸くしてぱちぱちと瞬いた。

「お前の事を考えてた」
「せ……折角の、ご宴席なのに」
「確かに。…だが、今頃どれだけ恋しく俺を待ってるのか考えたら、途端に顔を見たくて仕方なくなったよ」

 浮竹の言葉に、千世は開きかけた口をぎゅっと噤む。みるみる紅くなる頬と耳を確認した後に、潤んだ瞳にじっと視線を返した。
 鼻先が触れるくらいに顔を寄せると、彼女は一瞬首をすくませる。そのまま無言で息を潜めていれば、ようやく彼女から唇への挨拶があった。寄せてただついばむような口づけを黙って受け入れていたが、やがて物足りず顎を指で軽く持ち上げ深い角度で重ねる。
 眠るように穏やかに目を閉じたまま、融けるような口づけを繰り返す。舌の厚く柔らかく濡れた肉を絡ませて吸い付く。彼女が床についた手は震えて力が入らないのか、縋るように羽織の前身頃を掴んだ。
 どれほど恋しく待ってくれていたのだろうかと思いを巡らせるほど、彼女が必死で口づけに応える様子がより愛しい。
 折角夜風で酔いを覚ましてきたばかりだというのに、また質の違う熱が身体へ溜まり始めるのがわかる。しかし今はその熱を逃す術もなく、彼女が喉で鳴らすくぐもった声を聞きながら、濡れた口づけを繰り返した。
 余程彼女の頭が、恋人で満たされている事を改めて思い知らされたのだ。やはり彼女の思考も時間も、知らずのうちに支配して、しかし果たして彼女にその自覚があるのかは分からない。もしかすれば自覚など無く、ひたすらに恋人への思慕を募らせているだけのつもりなのかも知れない。
 唇が離れ、唾液がつうと唇を伝う。蕩けきった彼女の表情を見ながら、自分もきっとそれに近いくらい緩んで解けているように思えた。

「今日は特別寒くて、よく冷えたよ」

 脱ぎかけの草鞋をようやく三和土へ落として、浮竹は立ち上がる。千世もつられたように腰を上げながら、そうですねと、突然の話題に疑問符を浮かべ頷いた。

「火鉢にもう少し炭を足しましょうか?」

 彼女の言葉で立ち止まった浮竹を、彼女はきょとんと見上げている。違うよ、と簡単に否定したのでは面白くないかと、彼女の言葉へ僅かに微笑みだけで返す。薄っすらと欲の色を載せた眼は、緩く弧を描いた。
 まだその頬を紅潮させたまま、きっと腹に溜まる熱を同じく覚えているだろうに、こういう時ばかり鈍い。しかし今はその鈍ささえ愛しいと思ってしまうのだから余程であった。
 彼女の頬にかかる髪を指で掬って耳へ掛けてやる。擦れた指先に、彼女は敏感にびくりと跳ねた。物欲しげに目の色を変えた彼女は、ようやく浮竹の意図に気付いたのか期待に震えた吐息を長く吐き出す。

「……その…炭を足すのは、止めようと思います」

 彼女は消えてなくなってしまいそうな声で言う。浮竹もそれには賛成だった。じきに炭など消してしまいたくなるほど、二人で熱に沈んでしまうのだ。
 自覚していたよりも余程、彼女のことばかりを考えていたようだった。宴席で会話に愛想笑いをしながら酌をされながら、今頃きっと懸命に起きてくれているのだろうと、その健気な姿を自然に思い浮かべては募らせていた。
 傍で笑顔を絶やさない芸妓達の気遣いに息苦しくなっていたというのに、しかし千世が浮竹本位で動く事には心地よささえ覚える。千世のこととなれば、どうしてか己の性質が普通でないように思う事があった。
 彼女にだけ湧いて漏れ出す支配欲を、今もまざまざと感じている。折角酔いを覚ましてきたというのに、ふつふつと恍惚感に逆上せそうになっていた。
 半分開いた襖の隙間からは、あたたかな光が廊下へと伸びている。彼女は身体をその隙間へとねじ込むようにして、浮竹の袖を控えめに引く。その心音すら聞こえてきそうなほど期待を帯びた眼差しに誘われ、後に続いて寝室へと入り込む。
 初冬の冷え込みなどこの部屋だけでは素知らぬように、羽織を肩から落とした。

 

(2022.11.14)