香り

おはなし

 

 深緑色の渦巻を浅い円柱状の缶から取り出す。煙い香りが鼻をくすぐる中、その渦巻の端に火を点けた。軽く息を吹きかけると明るく燃え、やがて細く白い煙が伸び始める。千世はそれを皿の上に乗せると、ほんの少しだけ煙を吸い込んだ。
 夏が終わり、秋も深まる中だというのに蚊に刺されたのだ。昼間の気温が多少高かったからだろうか。
 畳に転がりながらの読書中、裾から入り込んでしまったのか、脛と腿の二箇所も赤く腫れている。しかし当の蚊の姿は見当たらない。ぷうんと時折不快な羽音に殺気を露にするものの、退治には至らず結局蚊取り線香を押入れから出した。
 縁側で白い煙をたなびかせる様子を眺める。蚊取り線香など、今ではもうこの屋敷くらいでしか使っていないのではないかと思う。技術開発局製の即効性の高い殺虫剤が数年前からは人気で、隊舎でも蚊が出たとなればすぐにそれで対処していた。
 だが浮竹はどうもそれが苦手なようで、この屋敷では夏が近づくと縁側にこの缶が置かれていた。彼は蚊に刺される事が余程嫌なのか、気付けば夏はこの煙が立ち昇っていた。この渦巻を浅い皿へ載せた傍で、よく縁側へ二人で腰掛け過ごしたものだ。
 徐々に部屋へ充満し始めた煙の香りに包まれながら、夏を既に懐かしく思い返していた。たった数ヶ月前の、また一年もすれば回ってくるうんざりするほどの暑い季節を、この肌寒さの中恋しく思う。
 恐らく、この香りのせいだろう。吸い込むと、此処で過ごした夏の記憶ばかりが引きずり出される。この場所くらいでしか、香ることが無かったからだろう。だから勝手に紐付いて郷愁を誘うのだ。
 首を傾げながら盆栽の剪定をする浮竹の後ろ姿を笑いながら眺め、昼過ぎには貰い物の西瓜を食べ、草の伸びが気になれば二人で炎天下でも草むしりを敢行した。日が落ちた後には、線香花火をしたり、こっそり川辺へ蛍を見に行った事もあったか。
 なにか特別な事があった訳でもない。その穏やかな日常をふと思い返し、本を開きながら一人ふふと笑う。

「思い出し笑いか」
「びっくりしました……お風呂出られてたの、気づかなかったです」

 手ぬぐいを肩へ掛けた浮竹が、音もなく襖から現れたから一瞬びくりと跳ねた。本を片手に固まっている千世に笑って眉を上げると、煙が彼の鼻孔までたどり着いたのかすんすんと鼻をきかせる。
 すぐに思い当たったのだろう、縁側の線香にすぐ気付くと、蚊か、と一言呟いた。

「経験則だが、この時期の虫刺されは長引く」
「思い出させないでください…痒いの掻かないように我慢していたんですから」

 浮竹は笑うと、蚊取り線香の煙に誘われるように縁側へ向かうとその横へと腰を下ろした。まだ湿った彼の白い髪に、細く登った煙が纏わり付くようだ。折角風呂上がりの石鹸の香りを漂わせていたというのに、これでは煙くなってしまう。
 千世は立ち上がると、彼の隣へと腰を下ろした。風呂上がりの熱を纏いながら、煙の中でもまだ爽やかな香りに包まれている。湯船によく浸かったのか、彼の白い肌は薄っすら色づいていた。
 髪に煙がつきますよと横顔に言うと、少し毛先を持ち上げながら、別に良いと笑って耳へ掛けた。

「何を思い出して笑ってたんだ」
「…いや、その……夏のことを思い出していたんです」
「夏?そんな面白いことがあったかな…」
「いえ、面白いことを思い出したという訳ではないのですが」

 縁側から下ろした足をゆらゆらと揺らす。

「蚊取り線香の香りで、隊長を思い出してました」

 語弊があったかなと自分の言葉を反芻しながらも、しかしあながち間違いではない。思い出していたのは、この屋敷で過ごした浮竹とのどうという事のない日々だった。だというのに、一つ一つをつぶさに思い出せるほど鮮明に記憶されている。
 死神という己の職務からあまりにかけ離れた平穏な日々は、深く脳裏に刻まれて、それを思い返す度、自然と口元は笑みを作った。
 へえ、と浮竹は微笑んで頷く。

千世は、俺と違ってよく蚊に刺されるだろう」
「あ……確かに、隊長が痒くなってるの、あまり見たことないかもしれません」
「そう。それが可哀想で買ったのが、この屋敷で実ははじめてだった」

 気付けば焚かれていたのはそういう事だったのかと、今はじめて合点する。彼が千世に気遣って焚いてくれていたのだから、この香りで彼を思い出すのは当然のこととも言える。

「だから、この煙が香ると俺も千世を思い出すよ」

 その優しい声音にまた自然と口元が緩みかけたから、そうですか、と短く言葉を切って唇を結んだ。また思い出し笑いとからかわれるだろうかと思ったのだ。
 だが、ふと横を見れば今度は浮竹の方がふふと目を細めている。何を思い出しているのか、その穏やかな笑みに、あれ、と千世は誂うように顔を覗く。

「思い出し笑いですか?」
「…ああ。庭で死にかけの蝉に追いかけられて、泣いて逃げる千世を思い出してた」
「……止めてください、それは本当に恥ずかしいですから」
「そうか?可愛かったんだが」

 え、と予想しなかった言葉に千世は一瞬たじろぎ、結局何も返せず口を噤んで俯いた。誂うつもりが、いとも容易く返り討ちにされた。余裕綽々の涼しい顔が目に浮かぶが、今は顔を向ける気にならない。
 誤魔化しついでに足をゆらゆらと揺らしながら、僅かに早まった脈を落ち着けるためゆっくりと息を吸い込んだ。
 冷えた秋の夜風に乗った乾いた煙の香りは、かさついた肺に染み込む。そしてまた、香りを纏った記憶は深く濃く脳裏に刻まれるのだった。

2022/10/22