寒露

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寒露

 

 その日は珍しく寝覚めが良かった。
 深い湖の底に沈むような眠りに落ちていたような気がする。ふっと浮力に任せて身体が水面へ上がり、新鮮な空気を肺一杯に取り込むような、気持ちの良い目覚めだった。暫く天井を見上げながら、千世は温い布団を鼻までずり上げる。
 この所、業務が多忙を極めていた。恒例の報告書処理からはじまり月例報告書類作成までは良いとして、流魂街でのとある任務にて負傷者が続出し、部隊再編成の為の人員調整も加わった。想定外の状況だった為、他隊からも手を借りる事となり交渉に骨が折れた。
 さらにこの時期から、浮竹へ提出する冬賞与の査定準備にも手を付けなければならない。寝る間も惜しむような日々が続いていた。蓄積されてゆく疲労を騙し騙し、どうにか乗り越えていた。
 この布団へ至ったまでの記憶が一切無い。最後の記憶は執務室で、腹は減っていなかったが、昼食のために食堂に行かなくてはと思ったはずだった。しかしその後の記憶をいくら探ろうと、まるで見当たらない。
 千世はゆっくりと寝返りを打つ。見慣れた部屋である。庭に向かう障子は隙間なく閉められているが、薄暗い外の明かりが薄い障子紙を通して漏れ入る。さらに、この秋の朝特有の薄ら寒さ。
 状況を察するに、執務室から運ばれこの寝室へ寝かされたのだろう。そして朝まで眠っていた。浮竹の屋敷ということは、十中八九彼に迷惑を掛けたに違いない。喉の奥が締まるような申し訳無さと同時に、しかし安堵した。
 ううんと千世は大きく伸びをする。身体がばきばきと音を立て関節と筋が伸び、ついでに大きな欠伸をひとつした。少し冷えた空気を肺に取り込み、ふわあ、と情けのない声を漏らす。

「隊長」

 ゆっくりと起き上がった千世は、掠れた第一声で呼ぶ。この見慣れた殺風景な寝室は、浮竹の屋敷で違いなかった。しかし部屋に姿は勿論、いつもは隣に敷いてあるはずの布団もない。
 着ていたはずの死覇装はいつもの寝間着に着替えさせられているし、それが一体自分で着たのかそれとも着せてくれたのか分からない。
 千世は布団から抜け出すと、冷たい畳の上をぺたぺたと進み障子を薄く開く。縁側にも、そして庭にも彼の姿は無かった。まだ薄暗い朝だというのに、既に隊舎へ向かってしまったのだろうか。それとも、千世を寝かせて自分は雨乾堂で夜を明かした可能性もある。
 さむ、と思わず呟いた。底冷えするような寒さだ。まだ白みきっていない薄暗い空の下で、松の細い葉が朝露をその先に溜めている。幹の下、低い場所で茂る丈の短い草も雫を纏い、頭を垂れながら微かな風に震えていた。
 どうりで寒いわけだった。仕事に追われる間に、また季節が一つ進んでいた。薄い雲が冷たい風を運び、朝露がしっとりと緑を濡らす。板張りの上で冷たくなるつま先を、少し丸めた。
 少し前までは、まだ暑いと感じる日もあった筈だ。ぶるっと湧き出すような震えに肩を震わせると、ふと肩に柔らかな熱が乗った。

「寒いだろう」

 びく、と千世は背筋を伸ばして固まった。ゆっくりと振り返って見れば、目を丸くする浮竹の姿があった。驚かせるつもりはなかったんだと、彼は眉を曲げる。

「お、はよう、ございます…」

 ようやく絞り出したような千世の声に、おはよう、と浮竹は笑って返す。心臓をばくばくとさせながら、肩へ掛けられた羽織に包まるように手繰り寄せた。
 彼の体温がまだ羽織に残っている。その温もりに緩む唇を誤魔化すように軽く噛んだ。
 浮竹は障子をもう少し開け広げ、千世の横へと立ち同じように庭を眺める。雨の後でもないというのに湿った様子の草葉を見ながら、腕を袖へと仕舞った。

「…ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」
「いいや。俺もこの所は自分の事ばかりになってしまってね。気遣ってやれなかった」
「えっ!?いえ、違います。私の自己管理の甘さが招いた結果で…」
「仙太郎と清音からざっと聞いたが、さすがに抱え込みすぎだ。むしろ、倒れてくれて良かったかもしれないよ。……いや、良くないか」

 眉を曲げ困ったように笑う浮竹に、千世は恐縮して肩を窄めた。
 話を聞けば、昨日の昼過ぎに清音が大慌てで雨乾堂へ駆け込んで来たのだという。今すぐ副官執務室へ来てくれと言う彼女について行けば、畳にばったりと仰向けで倒れる千世を見つけた。さっと青ざめたものの、調べれば呼吸も脈もあり魂魄に異常があるわけではない。
 ただ眠っているだけと判断した浮竹は、四番隊へ届けると清音に言い残してそのまま彼の屋敷に運び込み、布団へ寝かせてくれていたのだという。
 四番隊へ運んだところで単なる睡眠不足と判断されれば、その程度で病床を埋めたくないからと点滴を打たれて叩き起こされるのが落ちだ。となれば、再び仕事に戻りかねないと思ったのだろう。
 昨日の昼頃から記憶がない理由に合点した千世は、それから丸一日近く眠っていた事にうっかり感心した。毎日、執務室で眠りそうになっては頬を叩いて無理に目を覚ましていたのだが、その睡眠不足が積もり積もって気絶したように眠ってしまったらしい。
 気遣ってやれなかったと彼は言うが、そう言わせた自分に恥じ入るばかりである。堪らず、すみませんと蚊の鳴くような声でもう一度頭を下げれば、ふふと小さく笑う声がした。
 隊長である彼も、通常の書類仕事に加わって複雑な任務に携わっていると噂で聞く。千世に弱音を漏らすことは決してないが、相当に多忙だったはずだ。
 書類の受け渡しで顔を合わせることはあったものの、こうして屋敷で過ごす事は久しぶりのように思う。

「今日、千世は休みにして貰ったよ」
「それは、お気遣いいただいて有り難いのですが…流石にこの状況で二日近く休むのは…」

 そう言って彼を見上げれば、軽く額を指先で弾かれた。
 予想していなかった僅かな痛みに驚いて額を押さえれば、浮竹は眉根を寄せてため息をつく。説教をされる、とその表情から判断した千世は少し身体を強張らせた。
 たいていこの表情の後はしっとりと説教をされることが多い。自分が悪いと分かっているから申し開きのしようもなく、ただ肩を窄めて口をへの字にするのだ。
 千世、と彼は呼ぶ。顔を上げろということなのだろう。眉を曲げて上目で恐る恐る見上げれば、その憐れむような、もとい慈愛に満ちた眼差しが千世を捉えた。

「例えば今日このあと三割の力しか出せないのと、今日一日休んで、明日から十割の力で仕事が出来るのだったら、どちらの効率が良いと思う」
「で、でも……」
「もう少し、分かりやすく説明したほうが良いかな」

 渋った千世に、浮竹は被せて返す。有無を言わさず休ませるつもりなのだろう。
 彼が言っているのは子供でも分かるような簡単な話だ。中途半端な体力のまま仕事に戻るより、万全な体調で向かう仕事の方が明らかに効率が良いに決まっている。考えるまでもない。
 柔らかい微笑みを浮かべながらも、はい以外の答えを許そうとしない威圧感を持った眼差しであった。
 机上に置いてきた書類の提出期日までもう三日と迫っているが、明日から十割の力が出せると仮定するならば間に合わない事もない。今日無理に机に向かって、また体調を崩すような事があればデコピンでは済まないだろう。
 はい、とようやく返せば、浮竹はよろしいと言わんばかりに深く頷いた。

「ついでという訳でもないが、俺も今日は休暇を取った」
「あ、……そ、そうなんですか?…じゃあ、今日は」
「ああ。久しぶりに、二人でのんびり過ごしたいと思ってね。今日はよく晴れるみたいだから、昼は日向ぼっこでもしようか」

 日向ぼっこ、と千世は彼の穏やかな横顔を見つめながら繰り返し、その柔らかい響きに微笑んだ。日向ぼっこなんて口にしたのは、どれくらいぶりだろうか。
 暫く太陽とは無縁な生活を繰り返してしまっていた。執務室に籠もり、昼でも机に突っ伏しうとうと居眠りをしたり、食欲がわかず食事も取ったり取らなかったりと、思い返せば滅茶苦茶な生活を過ごしていた。
 彼の横で朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、きっと久しぶりにまともに息が出来ている。
 まるで息継ぎをせずに泳ぎ続けていたようだった。だから今は吸い込む空気が、冷たくて気持ち良い。ほぼ使われていなかった灰色の肺に、酸素が満ち満ちて入り込み血液が勢いよく巡る。
 深呼吸を二度ほど繰り返した千世は、そういえば、と思い出したように口を開いた。

「朝、どこかへ出られていたんですか?」
「ん…?ああ。そうだった。知り合いに頼んで早朝に少し、店を開けてもらってね」

 浮竹は少し屈むと、足元に置いていた紙の袋から小柄な瓶を取り出した。何ですか、とまじまじとその瓶の中身を見ながら千世は尋ねる。輪切りにされた檸檬のようなものがどろりとした琥珀色の中に浮いているのは分かった。
 彼が言うには、生姜の蜂蜜漬けらしい。蜂蜜の中に檸檬と生姜が漬けられたもののようだ。昔馴染みの友人が開く店で、必ずこの時期に売り出すのだという。それを湯に入れて飲むと、身体がたちまち温まるから、朝に最適なのだと浮竹は顔をほころばせた。

「これを、千世の寝覚め一番に飲ませてやろうと思ってた」
「…だから、朝早くから出掛けられていたんですね」
「ああ、まあ…いや。……そうなんだ」

 少し気まずそうに、浮竹は頷いて首を掻いた。嬉しい、と一言で表すには勿体ないような幸福感が滲んで広がる。紙に垂らした墨が徐々に広がって染めていく様に似ている。洗い流すことの出来ない濃い染みを残していく。
 今日だけではない。思い返せば、千世から何の見返りがある訳でもないというのに、貴重な時間や手間を割いては、穏やかに微笑んでいる。

「どうしてそんなに、色々してくださるんでしょうか」
「…どうしてと聞かれても、理由なんて考えたこと無いよ」

 あ、と千世は口をつぐむ。敢えて聞くような事では無かった。しかし疑問に思ってしまったのだ、どうして自分などの為に。きっと今朝は随分早く起きたはずだ。店主にも頭を下げて、無理を言って早朝に店を開けて貰ったのだろう。
 今日に限ったことではない。今まで彼から与えられたものに、自分は何かを返せているだろうかと途端に不安であった。
 まるで無償で与えられている優しさに、甘えるばかりで何も返せていない。書類を綺麗に仕上げたり、頼まれた資料を手早く纏めるように努めているが、それは単に仕事だ。あれこれと記憶から引っ張り出すほど、業務上でしか彼に貢献できていないように思えた。
 恋人としての存在意義を自分自身に問い始めた時、浮竹は少し改まったように姿勢を正した、ように見えた。

「俺も、千世に救われてばかりだからね」
「……えっ、私がですか……?……業務での話ですか?」
「いいや。仕事だけじゃない」
「えっ、そうなると……いや、やっぱり……本当に身に覚えが無いのですが、例えばどのような事か、教えていただけたら、今後の参考に……」

 混乱の中で掛けられた言葉に、眉をハの字に曲げた千世は、浮竹に縋るような目線を投げかける。身に覚えがあまりにも無く、自分の記憶が知らない間に消し飛んでいるのかと動揺した。

「そういう所だよ」
「……どういう所ですか?」
「そういう所」

 そう言い切った浮竹に千世は顔を顰めると、彼は真逆に破顔する。
 まだ混乱を残した千世を尻目に、くすくすと笑いながら、寒いし戻ろうかと障子へ手を掛けた。空は徐々に朝日の色で満ちて鮮やかに白み始めている。誘われ、促されるように部屋へ身体を引っ込めれば、ぱたんと乾いた音がして框同士がかち合った。
 また庭を覗くのは、朝露が乾いた頃だろうか。

 

(2022.10.14)