白露

2022年9月14日
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白露

 

 もう大半の隊士が帰宅した隊舎は、澄んだ秋の夜の静けさに飲み込まれるようだった。
 白昼の賑やかな蝉の鳴き声は日に日に減り、反比例して夜は賑やかになってゆく。厠から雨乾堂までの帰り道に薄暗い中庭覗けば、そのままぼうっと過ごしてしまいたいほど見事な秋の虫たちの合唱であった。
 空へ昇る虫の音色を目で追いかけるように見上げれば、真円に近い形を描く月が浮かんでいる。もうすぐ満月か、とひとつ瞬きした。
 少し前まではこの時間でも、空はまだ藍色が広がっていたのだが。濃紺に浮かぶ月は黄金色の明かりを降らせる。良い夜だった。無風だった夏の湿った夜から、涼しい風の吹く秋の夜へと様変わりしている。
 浮竹は暫く立ち止まり柱にもたれながら空を見上げていたが、さてと身体を起こす。いつまで眺めていてもきりがない。この空が白むまできっとあれは美しく浮かび続ける。名残惜しさを振り払うように、廊下の板張りをぎし、と踏みしめた。
 その道すがら、あまり夏らしい事をしなかったと思い返していた。毎年のように思っている気もする。
 結局暑さにかまけて、休日はほとんど自宅で過ごしていた。せめて一度くらい、人目を忍んで無理にでも千世をどこかに連れ出してやればよかった。
 彼女は年齢不相応に素直で、そして根っから律儀だった。関係を人に知られてはならないと、それを忠実に守ってくれている。勿論それは浮竹も同じではあったが、それが苦でないのは昔ほどの若さはもう手放しているからだった。
 妙齢の女性ならばきっと何処へ行きたいとか、何をしたいとか、もっと色々とあるだろうと思う。
 何度か、次の休みは出かけてみようかと提案したにはしたのだ。だが暑いからとか、浮竹の体調を気遣うような言葉を口にして、やんわりと断られてしまった。
 出不精ということでもない。だが二人となれば出掛けられる場所は限られるし、そういう気にならないのだろう。家で過ごしたほうがよっぽど楽で良いようだった。
 隊舎でも人目をはばからず穏やかな逢瀬を楽しむ、公認されている恋人同士は無数に居る。街を歩けば茶屋で睦まじく過ごす二人や、これから遠出するのか大きな荷物を抱え浮足立つ男女も見かける。
 そういう何気のないことを、彼女には与えられていない。心苦しく思うのは何も今に始まったことではなかった。だが夏の終りになるとその後悔の念が肥大して、じわりと滲むのだ。

 どうせだから茶でも淹れていこうと、途中台所へ立ち寄るために廊下を曲がった。暖簾から漏れた明かりが廊下へ伸びている様子に、おやと首を傾げる。
 こんな時間に誰かがいるのは珍しい。夕飯を食べそびれた者が何か漁っているのだろうか。暖簾を手で避けて入ると、振り返った姿に浮竹は自然と表情が緩んだ。
 彼女の唇はゆるく弧を描き、こんばんはと少し他人行儀にも思える挨拶を口にした。近くに人の気配は無いが、いつ誰が現れてもおかしくない場所だから、気を遣っているのだろう。
 真っ先に傍へ寄ろうと踏み出しかけていた足を一歩戻し、小さく聞こえないくらいの息を吐いた。いやはや恥ずかしい。彼女のほうがよっぽど冷静だ。
 浮竹は彼女に背を向け、戸棚から自分の急須と茶筒を取り出す。

「珍しいな、こんな時間に。夜食の調達かい」
「はい。冷やしておいた梨を食べようかなと」

 浮竹は振り返ると、千世はそう嬉しそうにまな板の上に乗った梨を見せた。立派な丸々とした梨だ。そういえば今年はまだ口にしていない。
 茶筒から手早く急須へ茶葉を零すと、やかんへ水を流し込む。梨か、と浮竹は呟くように繰り返す。途端に舌にはあのさっぱりとした甘みと、しゃくしゃくと心地よい果肉の噛み心地を思い出した。
 やかんを火にかけると、そこから湯が湧くまで手持ち無沙汰である。戸棚へ軽く背を預け、距離を保ったまま彼女が梨を指でこすり洗う姿を眺めた。
 両手で持っても余るくらいの大きさで、元気に水を弾いている。果肉がその皮の下ではち切れんばかりの様子に、美味そうだと思わず感想を漏らす。

「切ってお持ちしようと思っていたんです。まだ雨乾堂にいらっしゃるようだったので」

 だから丁度良かったと千世は笑う。
 そうか、それなら茶など淹れずに雨乾堂へ戻っていればよかったと思った。そうしたら彼女と梨を口にしながら、人目も気にせずひとときの会話を楽しめたのだろう。
 そんな甘い妄想をまばたきで掻き消す。きっと、千世のことを考えている最中であったからだろう。頭の中に彼女を思い浮かべていたところに、実物が現れて少なからず動揺した。
 しかし、おそらく引き寄せられたのだ。普段ならば真っ直ぐ雨乾堂へ戻っていたところが、今日は珍しい気まぐれであった。だがこんな事、頭で思っているだけでも照れくさい。口に出すなど以ての外だ。

「どこでそんな立派な梨を買ったんだ」
「いえ、檜佐木君から貰ったんです。隊舎に梨の木があるようで、今年は沢山実ったからと」
「成程、檜佐木君もまめなんだね」
「ええ、そうなんですよ。ああ見えて。丁寧に箱に入れて持ってきていて、今日の副隊長会で配り歩いてました」

 月みたいだ、と思った。つい先程まで見上げていた真円に近い月のように丸い、黄金色の梨に千世は包丁の刃先を宛てた。
 くるくると実を回転させながら皮を落としてゆく。長く繋がったり短かったり、とぎれとぎれにまな板の上へと黄金色の皮は落ちていって、果汁を纏った白い肌が現れる。
 器用なものだと思わず眺めていた。職人のように上手くはないが、分厚くなることもない。じっと集中して皮を剥く姿を浮竹はひたすら、目に焼き付けるように見つめていた。
 ふと視線が気になったのだろう。どうしたんですか、と千世はとうとう手を止め、少し照れくさそうに顔を浮竹へと向ける。
 なにか特別な理由があるわけではない。ただその懸命な様子が微笑ましくて、ずっと眺めていたかっただけだ。べつに、と笑って返せば彼女は少し不本意そうに眉を曲げたものの、また手元へ顔を戻す。

「次の休みは、どこか出かけようか」
「…ど、どうされたんですか、急に」
「いや、ずっと思っていた。夏はどこにも行けなかっただろう」

 この場所でだけ聞こえるほどの、呟くくらいの声で言う。
 せめて秋らしいことでもしてやりたいと思ったのだ。すすき野原を見に行くとか、紅葉狩りに行くとか。彼女が望む所へ連れて行ってやりたいと。
 再び手を止めた千世は目を丸くして、ええと、と暫くその答えに迷っているようだった。

「でも私は…隊長とお家で過ごすだけでも、十分満足ですから」

 まただ。何に忖度しているか知らないが、そうしていつも一歩引く。その裏に何か思いが隠れているのではないかと、ひょいとひっくり返してやりたくなる。
 だが、あながちそれが嘘でないというのは、彼女の表情から分かる。照れたようにはにかんで、緩んだ表情を隠しもしない。だからそれ以上言えないのだ。
 しかしそれでも胸に蟠る不可解な感情を、浮竹は腕組みしながら探る。彼女の手から、ぽたぽたと汁が滴った。

「俺が、どこかへ出かけたいんだよ」
「は、はい?」
「どこか遠出をしよう。一日、日帰りで。外に良い場所をいくつも知っているんだ」
「一日…日帰り……」
「とにかく次の休みは、休暇の外出申請を取っておくんだよ。良いね」

 ぽかんとしている千世に、浮竹は名案だと満足気に微笑む。はじめからそう言っていればよかったのだ。
 きっと、夏らしいことをしたかったのも、どこかへ出かけたかったのも、自分の中でその思いが燻っていたからだった。
 彼女はきっと二人で出かけたいだろうとか、街の男女のように人目も憚らず睦まじくしたいのだろうとか。それはつまりただの予想で、さらに言えば己の願望であったのだ。自分の願望を、頭の中の彼女の慎ましやかな思いにすげ替えていた。
 どうして気付かなかったのだろうか。彼女の薄っすら染まった頬を見ながら思う。
 ようやく意味が理解できたのか、小さく頷いた千世は口元を緩ませた。

 千世は皮を剥ききると、丸々とした身をそれから半分に分断し、さらに半分。中心の渋い部分を取り除き、食べやすいくらいの大きさになった梨は、まな板に山盛りになった。
 千世はそのひとつをつまみ、口に放り込む。おいしい、と目を細めながらしゃくしゃくと、心地の良い音を口から響かせる。
 まだ頬を膨らませながら、千世はもう一つをつまみ浮竹へと差し出した。果汁が滴り見るからに甘そうな様子に浮竹は引き寄せられるように近づくと、腰をかがめる。
 梨をつまむ彼女の手首を軽く握ると、そのままぐいと上げ彼女の指から食んだ。しゃくしゃくと顎に響く噛み心地と、冷たく喉に流れ込む爽やかな甘さが気持ち良い。
 満足に微笑む浮竹の一方、え、と見上げる彼女の目はみるみる大きく見開かれ、顔は赤く色づいてゆく。

「た、隊長……!私は、その…手渡したかっただけで…!」
「どうせ俺が食べるんだから、同じだろう」
「お、同じ…!?同じ…でしょうか…」

 尻すぼみに千世は口を閉じる。もうひとつ、と浮竹は彼女の手首を離して言う。一瞬たじろいだものの、辺りを少し見回すようにしながらまた一つ欠片を指でつまんだ。
 それを浮竹の口へ差し出しながら、彼女もつられたように口を丸く開ける。その様子に、まな板からひょいと一つを摘んで彼女の口に運んでやる。驚いたように眉を上げたが、間もなくその甘みに目尻を下げた。
 彼女の指先に残る甘い汁を舌で舐め取りながら、これは秋らしい味だと満足に笑む。
 弱火にかけたやかんは、まだ沸騰まで時間が掛かりそうだった。

 

(2022.09.14)