おはよう

おはなし

 

 昨日の夜は予報にない風雨となった。夕方になって降り出した雨は、隊舎から帰る頃にはまだぽつぽつと可愛らしいものだったが、そのうち大粒に変わり、帰宅後は慌てて雨戸を締めた。
 やがて叩きつけるような大粒の雨と、更には風まで吹き始め、夜はがたがたと雨戸の揺れる音で時々目が覚めたほどだった。
 だがやがて風雨はいつの間にかに収まっていたようで、障子から差し込む穏やかな朝日で次は目が覚めた。朝か。夜何度も目が覚めた割には、やけに寝覚めが良い。
 瞼をゆっくりと持ち上げると、仰向けのままひとつ大きく伸びをする。伸び切った身体を緩めると同時に、天井に向け溜息を吐いた。
 朝の鈍い身体と思考が徐々に起動する中、千世、とその姿を確認するより前に、まるで口癖のように彼女の名前を呼んだ。何か用があるという訳でもない。ただ、朝目が覚めてはじめに彼女を呼ぶ事が癖になっていた。
 大体呼ぶと彼女は眠そうに掠れた声で返事をするか、すうすうと心地よさそうな寝息を返す。それを聞くと、今日もまた朝が来たのだと思えた。
 しかし今日はいつまで経っても返事も寝息も返らない。変に思って横の布団へと顔を向けると、在ると思っていた姿はそこになく、代わりにぐしゃりと退けられた薄い掛け布と、脇に避けられた枕が目に入った。
 おや、とその抜け殻の布団をしばらくじっと眺めていれば、何か庭の方から規則正しく擦るような音がする。ざっざ、と土を擦るような、引っ掻くような音。ようやく床から起き上がった浮竹は、薄く隙間の開いた障子へ手を掛けた。
 探していた姿は、案の定庭にあった。背を向け、寝間着姿のまま手には箒を握り地面を掃いている。辺りを見れば昨夜の風雨で枝葉が散っており、それを纏めてくれているようだった。
 障子から少し顔を覗かせ、千世、とまるで呟くように彼女の名前を呼ぶ。しかし塀の傍で竹箒を掃く彼女に声は届かなかったようで、まだ浮竹が起きたことに気付かないまま続けるのだった。
 喉元まで出かかった二度目の呼びかけは呑み込んだ。まだ何処か眠そうなゆったりとした、どこかけだるげにも見える動作で竹箒を動かす彼女を、少し眺めようかと思った。
 嵐の後の朝はひやりと涼しく、蝉の声も聞こえないもう秋にほど近い時節である。昨日まではまだ焼き付けるような太陽が昼までは中天に昇っていたというのに、夏の終りを感じるのはいつもそうあっけない。
 穂先は小枝や葉を飛ばす。穏やかな庭の風景の中、彼女の背はいつにも増して細く見えた。その華奢な背を見て、まさか斬魄刀を振り回す姿など到底想像も及ぶはずがない。
 千世は時折その手を止め、鳥の声に耳を澄ませたり、じっと盆栽棚を眺める。未だ浮竹の姿に気付いていないのか、まさか起きているとも思っても居ないのか。うろうろと自由気ままな様子は、やがて覗き見をしているようで僅かに後ろめたくもあった。
 だが同時に、永く眺めていられたらとも思う。長閑で平穏な風景の中、そのままやがて血の匂いなど、刀の握り方など忘れてしまえば良いのだと思う。
 死神としてきっとこれはかけ離れた思いなのだろうが、だがそう理解していようとも、この光景を目の前に滲み出す願いのような望みのようなものを、否定することは出来なかった。
 この屋敷で過ごす刻は、時折そうして己が使命へ僅か蓋をする。だが、此処だけこの瞬間だけでのことだ。彼女にも、誰に話すでもない。ただ己の中だけで浮かんでは、慣れたように掻き消すだけの夢想である。

「隊長」

 耳に入った澄んだ声に、暈けていた焦点を彼女へと合わせる。
 ようやく浮竹の起床に気付いた千世は、ぱっと顔を明るくさせ手にしていた竹箒を松の木へと立て掛けた。ぱたぱたと寄ってくる姿に床から立ち上がると、縁側の端へと移動し腰を下ろす。
 胡座をかいたまま目の前へ立つ彼女の顔を僅かに見上げると、律儀におはようございますと小さく頭を下げた。

「起きてらっしゃるなら、声掛けてくだされば良かったのに」
「悪い悪い。楽しそうだったから、邪魔したくなかった」

 そう浮竹が答えると、千世は何とも気まずそうな照れたような様子で口を緩めた。
 正面へ立つ彼女の顔へ手をのばす。柔らかい頬を両手で包むように捉えると、秋の風で、少し冷えたのか珍しくひやりとした。
 脈絡のない行動に一瞬は戸惑ったような表情を見せた千世だったが、すぐに手のひらで包まれる心地が気に入ったのか、くすぐったそうに目を細める。やわやわと頬を揉まれながら、どうしたんですか、と千世は聞く。

「今朝は涼しいから、冷えただろう」
「はい、少し…でもそんな事していたら、隊長が冷えちゃいますよ」
「そうかもな。だが、安心するんだ、こうしていると」

 そう答えた後に、少し後悔が滲んだ。それはやけに切実な声音であった。無言でじっとその濁りのない瞳を向ける彼女を、同じく浮竹は見つめ返す。
 そうなんですか。そう不思議そうにぽつり呟く千世に、浮竹はひとつ微笑みだけを返した。

2022/08/31