処暑

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処暑

 

 清音によれば、今日は朝から一日浮竹が雨乾堂に篭もりきりなのだという。
 そうなんだ、と千世は団扇で大きく自分を扇ぎながら彼女ほどの深刻さは無く返す。今日は朝から各書類の提出に奔走していたから、すっかり隊舎の様子は知らなかった。
 まだ瀞霊廷の残暑厳しく、汗を滲ませながら執務室へ戻れば長椅子にぐったりと横になる清音の姿があった。既に菓子盆の横には煎餅の包装紙が二枚ほど広げている彼女に、恐らく何かあったのだろうという事は察しがついた。
 暑い暑いと千世は死覇装の袖と裾を捲くりあげてどっかりと椅子に腰を掛ける。机上の団扇を手に取りぐったり仰いでいれば清音が起き上がり、不安げに眉を曲げながら早速言うのは浮竹のことであった。
 だが、彼が一日篭もりきりになるというのは特別珍しいことではない。書類が山積みになる時期には大体一日篭もっているし、体調が芳しくないときも同じだ。そう返すが、彼女は違うのだと頭を振る。

「朝のお散歩も無いし、お昼ごはんだって食べてないよ、多分」
「暑いし、調子が悪いとか」
「今日はそういう訳でもなさそうなんだよ」

 余程調子が悪くない限り、朝隊舎を散歩して見回る事が多い。それから一度雨乾堂に戻り昼過ぎには食堂に顔を出して握り飯だったり茶漬けなど軽い食事を取るようだ。隊舎で浮竹の動向に一番敏い清音が言うのだから違いない。
 昼前に一度具合が悪いのかと心配で清音は声を掛けに行ったようだが、元気そうな声音が返りそういう訳では無いらしい。お茶でも淹れましょうかと聞いてはみたものの、今は良いと言うのだという。
 流石に昼を過ぎても全く出てくる様子がないから、再び茶を口実に声を掛けたがまた同じように今は良いのだと返るのみだった。
 どうしたのだろうかと、清音は唸りながら三つ目の煎餅を手に取った。確かに彼が茶を断るというのは珍しい。何かあったのかと彼女が眉を曲げる理由も分からなくはない。

「何か急ぎの仕事でもあるのかなあ」
「どうだろう、昨日全部書類は預かってるからそういう訳でも無さそうだけど…」

 だよね、と清音は頷きながら再び考えたように天井を見上げる。習慣が日々あまり変わらない浮竹だから、その妙な様子に胸騒ぎを感じるようだ。

千世さんも様子見てきてくれない?あたし隊長が心配で…」
「えっ、いや…大丈夫じゃないかな、具合悪かったら返事も出来ないだろうし…」
「お茶どうですか、って言ってくれるだけで良いから!顔をちらっと確認するだけ」
「清音さんもう一回行ってきたら…」
「流石に三回目はしつこいって!心配しすぎって呆れられちゃうよ…」

 お願い、と彼女は煎餅を握ったまま頭を下げる。そこまで懇願されては、別に断る理由もない。千世はようやく火照りと汗の引いてきた身体に冷めた茶を流し込むと、椅子から立ち上がった。
 心配しすぎではないかとも思うが、彼女からああも必死に頼まれると千世自身にも不安が芽生え始める。執務室を出て雨乾堂へ向かう中、そわそわと落ち着かず足が早まった。
 昨日は執務室での帰り支度を整えている頃、彼がふと顔を覗かせたから少し話したのが最後だったか。顔色はいつもの通り青白いが、調子が悪そうには見えなかった。だがその後急変したというのも、彼ならば有り得る話だ。

「隊長、いらっしゃいますか」

 部屋の前で不安げにそう声をかけると、何か微かに返事が聞こえたような気がした。しかしその後は暫く無言で、耳を澄ませていれば何か物音が聞こえる。咳、という訳でもない。
 かといって覗く事もできず待機していれば、次の瞬間には目の前に簾を上げた彼の姿が現れた。まさか突然顔を見せるとは思わず、びくりと反射的に跳ねる。固まっている千世に、入りなさいと一言浮竹は笑った。
 なんだ、死覇装に着替えているではないか。床に臥せっている可能性も考えていた千世は、隊長羽織にしっかり腕を通している彼の姿に多少の拍子抜けをした。
 清音も返ってくる声は元気そうなのだと言っていたし、何かしら作業に没頭していたというところなのだろう。
 室内に入ると、目に入った光景に千世は目を丸くする。畳の上一面に散らばるように置かれているのは葉書である。墨を乾かすために広げているようで、浮竹は間を縫うように爪先で歩きながら文机の座椅子へと戻った。

「お手紙ですか」
「昔世話になった人や知り合いに残暑見舞いをね」
「あれ、いつも書かれてましたっけ」
「普段は毎年暑中見舞いを出していたんだよ。ただ、今年は夏のはじめに体調を崩してしまっただろう」

 座れるような隙間もないからきょろきょろとしていれば、彼は適当に纏めてくれるかいと千世の足元を指差した。
 腰をかがめ、そのうちの一枚を手に取る。表面にはさっぱり読めない宛名と、裏面には数行に渡ってぎっちりと文字が連なっていた。
 まさかと思い他の葉書を手に取るが、全て同じように裏面は文字で埋まっている。これだけの枚数、この密度で文字を連ねていればそれは朝から飲まず食わずで過ごすことになるだろう。

「一枚一枚、手書きされているんですか」
「ああ、ほとんど手紙でしかやり取りしないような方ばかりだから。近況報告も兼ねてな」
「受け取られた方は、嬉しいでしょうね」
「どれも殆ど世間話だけどね。短く纏めようと毎年思うんだが…」

 纏めた葉書を手渡すと、浮竹はぱらぱらと何枚かに軽く目を通して微笑む。
 いつもならば早いうちから葉書に手を付け、七月の初旬には暑中見舞いとして出せるようにしていると言うのだが、確かにその頃浮竹は暫く体調を崩していた。間に合わないと今年は諦め、残暑見舞いで返す事にしたのだという。
 それにしても気の遠くなるような量だ。床で墨を乾かされていた葉書だけではなく、既に纏められている束が二つほど机上に重なっている。
 感心と共に、千世は一度目に入ったその葉書の厚みからどうにも目が離せなかった。

「すごい量ですね、本当に」
「年々増えているような気がするよ。だが、嫌いじゃない」
「お好きでなければ、そんな量書ききれないですよ。私は手紙が得意な方ではないので…気が遠くなります」
「そうか、そうだったな…だが、偶には良いものだよ。夏の挨拶に託けて、あれこれと好き勝手一方的に書き連ねてね。面と向かっては、あまり出来ないだろう」

 確かに、と千世は笑う。あまり互いに自分のことを多く他人に語るような性分ではない。彼なりに、この大量の葉書に手を付ける事は楽しみのようだ。その一枚一枚、相手の事を思いながら筆を走らせたのだろう。
 自分の知らない、知ることのない彼の生きた時間が存在している。理解していない訳ではないというのに、いざ目の当たりにすると胸の奥ががさざめいた。
 しかし至って当たり前のことだ。千世が過ごした時間など彼にとってはほんの僅かでしかない。だが、その傍に居るとつい忘れかける。彼を一番知るのは自分ではないかと、そう思う事すらあるほどに彼の眼差しは優しく向き、柔らかな声音は耳へ染み込む。
 この奇妙な感情に最も近い言葉は嫉妬というのだろうが、しかし嫉妬と言えるほど熱されても、燻っている訳でもない。
 ただどれほど傍にいようが、彼の恋人としてその場所に収まろうが、その時間を知ることは無いのだと思うと言い得ぬもの寂しさを感じた。なんと迷惑で煩わしい感情だろうかと、慌てて顔を上げ誤魔化す為に目をぱちぱちと瞬く。
 硯箱の蓋を閉じた浮竹は葉書の束を文机の上で軽く整えながら、彼は何となしに振り返って千世を見た。

「葉書が二枚余っているんだが、要らないか」
「そ、そうなんですか…?…でも、私は特に書く予定もありませんし…」
「予定が無いのなら、作ればいいんじゃないか」

 ほら、と浮竹は風鈴が隅に薄く描かれた葉書を二枚、千世へと渡した。その手元を見下ろしたまま、受け取ってしまったからにはまさか突き返すことなど出来まい。
 予定が無いなのなら作ればいいなど、確かにその通りではあるのだが案外強引なことを言うものだ。手紙ならば主に業務で、時折私的にしたためることはあるが、葉書なんて一年に一度年賀状で書く程度だ。
 余っているという二枚を貰った所で、突然残暑見舞いを出すような相手がぱっと思い浮かばない。浮竹のように遠く離れた友や世話になった相手がいる訳でも無いし、家族が居るわけでもない。
 ううんと手元を見つめたまま唸っていたが、ふと顔を上げると彼の背後の文机に重なる葉書の束が再び目に入る。あ、と千世はひらめいた妙案を一瞬飲み込んだが、数秒後には我慢できず口を開いていた。

「…では隊長に、一枚お渡ししても良いですか」
「一枚だけは、使うのかい」
「ええ、その…隊長宛に、書こうかなと……」

 千世はそう答えた後、彼をちらと見る。頭に疑問符を浮かべた様子で首を傾げる彼を前に、千世は口ごもる。
 まさかこの中途半端な言葉だけで彼が勘付いてくれるなど、思っても居ない。思っても居ないのだが、自ら言い出すことがどうにも気恥ずかしくて、察してくれないかと期待したのだが。

「もう一枚は…隊長に、書いていただきたいなとか…思ったのですが……」
「……俺に?」
「だから、その…私宛に書いていただけないかなと」

 千世の言葉に浮竹は一瞬目を丸くしたが、ほどなくして成程と細めた。下らないとでも思っただろうか。そう思われて仕方がないほど、情けない子どもじみた願いである。
 勿論、とそう快諾した彼は緩んだような表情を見せる。はじめからそう言いなさいとでも言いたげに、眉を曲げて微笑んだ。
 結局、ただ彼の手書きの葉書が羨ましかったというだけなのだ。彼が時間を割き筆でしたためた、自分だけに宛てた葉書が欲しかった。それがあの葉書の束に加わることで、千世の知らない彼の過ごした時間に食い込めるような気がした。そう言葉にしてみれば、消えてしまいたくなるほど手前勝手な話である。
 彼は千世の中に潜んだ感情を知ってか知らずか、葉書のまっさらな裏面を見て何か含んだように笑う。分かっているのだろう。むしろ分かっていないほうが恐ろしいほどの露骨さである。
 居心地が悪い千世はその姿から少し目をそらすように、むしろまるで逃げるように一枚の葉書を手にしたまま立ち上がった。

「…さて、俺も腹が減った。食堂にでも顔を出してみようかな」
「今日は本当に飲まず食わずだったんですか?」
「ああ…何だか時間を忘れてしまってね、今頃になって減ってきたよ」

 なにかあるかな、と独り言のように呟いた浮竹を背に雨乾堂を出る。本当はそそくさと逃げ出したかったのだが。その横を歩くにはどうにも気まずく、千世はそのまま彼の前をすたすたと渡り廊下を進んだ。
 突き当りまで辿り着くと、くるりと振り返り頭を下げた。執務室と食堂とは方向が逆である。では、と頭を上げたと同時に顔を一瞬見上げると、彼は千世を見下ろし目を細める。何か言いたげに思えた千世は、なんですか、と思わず尋ねた。

「少し嬉しかったんだ」
「…嬉しい……?何がですか?」
千世も、子供のような我儘を言うことがあるんだと思ってね」
「子供……」

 ぽつんとその言葉を繰り返す。自覚はしていた。自分が子供じみた事を言っているとは、自覚していたのだが。だからこそ図星を指された状況に、顔がかっと熱くなるのを感じる。
 何と返せば良いか分からず立ち尽くす中、彼は笑顔のままひらひらと手を振って食堂の方へと去ってゆく。千世の動揺などどこ吹く風か、彼は満足気で清々しいほどの爽やかな足取りであった。
 風に大きく揺れる隊長羽織の裾を眺めながら、手に持った葉書は端が少したわんでいた。

 

執務室にて(蛇足)
「おっそいよ!何してたの千世さん!隊長倒れてた!?」
「いや、普通に元気だった…」
「あ、そうなの!?よかったあー…そろそろ様子見に行こうかと思ってたくらい心配してたんだから……って、その葉書何?」
「ああ、ええと…貰った」
「そうなんだ、隊長から?なんで?……てか、元気無くない?どしたの?」
「いや……ええと……私今年いくつになるんだっけ……」
「え?何で?…あと、その葉書って何?」
「あのさ…私、いくつに見える?」
「えっ、年相応だけど…どうして急にそんな面倒くさい絡み方…で、その葉書は…」
「年相応ってそれ、良いの?悪いの?」
「えっ、どうしたの急にめんどくさ……!」

(2022.08.14)