君の恋はわかりにくい

おはなし

 

 浮竹が執務室の大掃除を始めたのは単なる思いつきだった。年の瀬という訳でも無いし、特別散らかっているということでもない。
 散らかるほど書類は溜め込まないし、物を増やす性分でもない。ただ、買ったり借りたりしていた書物が部屋の隅や本棚、押入れに溜まりつつあった事が長い間薄っすらと気がかりだった。
 寒い冬がようやく過ぎ、暖かい日が続く。近頃は朝から体の調子も良く、今日は幸いにも今直ぐに手をつけなくてはならないような仕事もない。今日ほど天候と体調と気力に恵まれた日は無いと、本を手にし始めた。
 一、二時間もあれば終わるだろうと思っていた。隊の書庫から借りていたものは全て戻して、もう手元に必要がない本は古本屋にでも引き取って貰って、軽く埃を払えば終わる話だ。
 だが誤算だったのは、押入れへ紐で縛ったり重ねて収納していた本の山がおよそ十はあったというところだった。読み終えた本が溜まると、そうして重ねて縛って後々また読むかも知れないからと押入れへ仕舞っていたのだが、まさか此処まで溜め込んでいたのは誤算だった。
 多くて二山、三山くらいだろうかと思っていたのだが、記憶とは当てにならない。押し入れから本の山を引きずり出しながら、紙の湿っぽい埃臭さに顔をしかめた。
 参ったな、と思わず呟く。もっとこまめに整理して書庫へ移動させておくべきだった。つい後でいいか、今は忙しいから気が乗らないからと後回しにし続けていたツケが此処で回ってきた。いずれにしても、いつかは自分が清算するのだから、早いうちで良かったと思うべきか。
 紐を解きながら、浮竹はその一冊一冊の表紙と中身をぱらぱらと捲くる。随分前のものだし、特に確認せずそのまま書庫へ回してしまうのが楽なのだろうが、そういう気にはなれない。
 表紙や中身を簡単に眺めながら、その本を手にした頃を薄っすら思い出す。感傷に浸る訳ではないが、敢えて思い出す機会も無かったような記憶が淡く蘇るような感覚が嫌いではなかった。
 ただ、この本を読んでいたのは海燕が昇進を渋っていた頃だったとか、丁度朽木が入隊した頃だったとか、その程度の薄っすらとした記憶だ。そうして本を手にして微かに思い出すことが、まるで栞の場所を開くように思えるのだ。

「……これは」

 おや、と手にした一冊の表紙を眺め暫し固まる。記憶が間違いでなければ確か。

「隊長、いらっしゃいますか」

 襖の外から聞こえた声に、驚いて思わず背筋を伸ばす。入室を許せば、空いた隙間から千世が顔を出した。本があちこちで積み上がる様子に、その目を丸くする。

「大掃除中ですか」
「少し時間が出来たからね、ずっと気になっていたんだ」
「では、昨日お願いしていた書類は見ていただいたんですね」
「昨日……」

 彼女の安心したような言葉を受けて、浮竹は記憶を探るように目線を上へ向ける。蘇る昨日の会話に、あ、と思わず情けない声を漏らすと同時に冷や汗が滲んだ。
 すっかり失念していた。昨日千世から明日までに、と手渡された書類があったのだった。目を通して問題なければ署名と押印だけで良いというから、後回しにしていた事をあろうことか忘れていた。
 恐らく千世はそれを受け取りに来たのだろう。まさか仕事を忘れて、呑気に本の整理などしているとは思うまい。頼まれたことに関して忘れることなど滅多にない筈なのだが、気でも緩んだか。しかし、手を付けていないものは仕方がない。
 妙な間と気まずい表情に彼女も察したのか、何も言わず眉を曲げる。まだ時間はありますから、と背後の机上にある茶封筒へ促すように目線をそっと遣った。

「直ぐに見るから、待っててくれるか」
「では、本でも読みながらお待ちしてます」

 本の山の中央に腰を下ろした千世が早速、一冊を手にする。浮竹は急いで書類を取り出し、目を通し始めた。よりによって隊内規則の改訂通知とは、昨日渡された時点で目を通しておくべきだった。
 確かに先日の隊首会で、一部文言に修正があるというような事を言っていたから、近々回ってくるとは意識はしていたのだ。みっちりと文字が並ぶ紙を指先でなぞるようにしながら目で追う。

「あっ」
「…どうした」
「ああ…すみません、読まれているのに…」
「いや、もう大体目を通したよ。署名と印影で良いんだね」

 はい、と千世の声を背中で聞きながら、書類の下部に確認の署名と、押印をする。息を軽く吹き朱肉を乾かすと、元の茶封筒へと滑り込ませた。
 ほっと一安心というようにひとつ息を吐いて振り返ると、彼女は一冊の本を手に中をぱらぱらと眺めている。それはつい先程、彼女が部屋へ来る前に浮竹が手にしていたものだった。
 そうそう、と浮竹は封書を手に彼女の正面へと腰を下ろす。

千世から借りていた本を、ずっと本棚にしまい込んでいたようでね…長らく借りたままで悪かった」
「ああ、いえ…良いんです。ただ、懐かしいと思って…まだ私が席官へ上がる前だったと思うのですが」

 彼女の言う通り、まだ千世をあまり知らない頃だった。丁度今くらいの、春と言うには少し早いような、日差しが暖かく日陰は寒い日だった事を覚えている。
 隊士達との交流も兼ね隊舎を見て回る中、野外訓練場へと立ち寄った。昼時という事もあって訓練をする隊士達の姿は無かったのだが、唯一ぽつんと日の当たる場所に腰を下ろす姿を見つけたのだ。
 その姿は直ぐ背後に立った浮竹の気配に気づくこと無く、口元を緩ませながら黙々と本に目を通していた。余程夢中になるような物語が繰り広げられているのか、興味の湧いた浮竹はその横へ腰を下ろし覗き込んだものだ。
 流石に飛び上がるように驚いた千世は、目を大きく見開きぱちぱちと瞬きを繰り返す。咄嗟に閉じられた本の表紙を見ればその頃話題になっていた噺本で、書店を何度か訪ねても売り切れが続いていた人気作であった。

「あの時は、隊長にお声がけいただいた事に驚いてしまって、上手くご説明できなくて咄嗟にお貸しするなんて押し付けてしまったのですが…いくら何でも失礼でした」
「失礼な事は無いよ、俺もつい気になってあらすじなんて聞いてしまったから。答えにくかっただろうと、後で反省したよ」

 千世から本を受け取った浮竹は、まだ読み途中だろうと慌てて返そうとしたのだが、逃げるように去ってしまったその背をぽかんと見送った。
 変わった子だと、思わず一人本を手にしながら笑ってしまったものだ。
 それから暫く、その場所で日に当たりながら彼女の言葉に甘え本を楽しんだ。一度読み終え、あともう一度だけ読んで彼女に返却をしようと思っていたのだが、その後体調を崩したり仕事が立て込む事が続き、返せぬままだった。
 本を開いて目を落とす彼女を見る。あの頃は、まさかこうして傍に居る存在になるとは思いもしなかった。それは勿論業務においても、そしてそれ以外においても。
 そう考えると、偶然とは無いのだと思う。彼女との出会いや、今まで交わした言葉のひとつひとつまでも、今に繋がる為の歩みだったのかも知れない。あの日偶々隊舎を見回っていた事も、彼女があの場所で読書に勤しむ選択をしたことも。
 彼女の細い指先が、薄い紙を一枚ずつ丁寧に捲くる。紙の端を爪先で遊びながら、その口元はあの時と同じように幸せそうに緩んでいた。

「…た、隊長……」
「どうしてか、俺は千世がこれを読む邪魔をする巡り合わせなのかもしれないな」

 彼女が紙を捲くるその手の甲を包むように手のひらを重ね、ぐ、と引き寄せる。顔を上げた彼女の先程まで緩んでいた口元は、今はぎゅっと結ばれ、見上げる瞳は真っ直ぐと浮竹を見返していた。
 どうして彼女を掴まえたのか、またあの時のように逃げられるとでも思ったのかもしれない。彼女のその濁りのない瞳を見つめたまま顔をそっと寄せる。鼻先が軽く触れると、間もなくその固く結ばれていた唇は解け、誘うように薄く開いた。
 此処が執務室である事を理解しながらも、一瞬だけとその唇へ重ねる。ぱた、と膝に落ちた本を拾い上げもせず、彼女の頬を手の平で包み愛しく撫ぜながら甘く交わした。
 一瞬だけ、とそう決めていた筈が、ずるずると引きずり込まれるような温い心地よさに思わず彼女の手を握る力が強くなる。この距離でさえ遠いと感じる、沸々と沸き出す彼女への思いは長い時間を掛け堆積したものに違いない。
 満たされたいと、その乾いた感情が顔を出しはじめた時、縁側からの風が薄く開いた障子の隙間を通りびゅうと吹き込んだ。春の柔らかな風は髪を揺らし、膝に落ちた本の頁を勢いよく捲くる。

「わ、私、もう一番隊に書類を持って行かなくてはならないので!」
「ああ、…そうだった」

 引き止めて悪かった。そう本を閉じながら千世に言うと、頬を赤らめたまま彼女は首を横に振る。封筒を手渡すと、彼女はまだ何か待っているかのようにきょとんとしていた。

「続きはいつにするんだい」
「つづき…続き!?」
「本のだよ」

 本を手にしながら、浮竹は千世にそう言葉を返す。少し意地悪だっただろうか。だが、彼女が慌てふためく様子が思い浮かびつい少しだけからかいたくなったのだ。
 あの時も、慌てふためいて逃げるように去っていったあの様子が可笑しかった。あまり人に対してそういう感情が芽生えることは無かったのだが、彼女は不思議とどこかつつきたくなる何かがあった。
 ころころと表情の変わるその素直で真っ直ぐな性分に、無意識にでも惹かれていたのだろうか。今思ってみれば、の話だ。

「まだ暫く俺が預かっているから、また読みたくなったらおいで」
「でも、それ私の……」
「まだ俺が借りているんだ、満足したらちゃんと返すよ」

 な、と有無を言わさず笑顔で彼女を見送る。何とも腑に落ちないような、かと言ってどう返せば良いか分からないのか酷く悩んだように眉間に皺を寄せ、ううんと唸りながら襖はぱたんと閉じた。
 その姿が消えていった襖を暫く眺めていたが、思わずふっと笑う。最後の渋い顔は、一番隊舎へ到着するまでに直っているだろうか。いつまでも飽きない子だと笑いながら、本を机上へそっと載せた。

 

君の恋はわかりにくい
2022/07/30
(偶然×触れる×風 3単語リクエスト)