小暑

2022年7月14日
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小暑

 

 もう夜が明けようかという薄暗い時分、乾いた石畳の上を進んでいた。
 この時間帯ともなれば流石に瀞霊廷もひっそりとしている。響くのは自分の足音と、微かに聞こえる鳥のさえずりくらいというものだ。まだ朝の爽やかな弱い風が肌を撫で、この数時間後に頭上へ昇る太陽のことなどまるで信じられない。
 寮を出たあたりでようやく空が青みを帯びてきたくらいで、目を覚ました頃はまだ行灯が必要なほどであった。昨晩は早く寝たというのにまだ目の奥は眠気を蓄えており、気を抜けばすぐに大きな欠伸が出る。閉じた口をぎゅっと結びながら目の端に薄っすら涙を貯めた千世は、眠たげにぱちぱちとまばたきを繰り返した。
 眠い目をこすりながら隊舎へ向かう理由は任務があるとか、仕事がある訳ではない。というのも昨日、浮竹から一番隊への提出書類一式を受け取りに雨乾堂へと訪れた時に誘われたのだった。
 一通り書類の確認事項を済ませた後、執務室へ戻る為部屋を出ようとした時に呼び止められた。何か思い出したことでもあるのかと振り返り首を傾げれば、特に理由を言うでもなくただ、明日の明け方頃また此処へ来れないかと言う。
 唐突な誘いにどきりと心臓が跳ねたのは言うまでもない。
 二人で過ごす時間も徐々に増え、もう慣れても良い頃だろうと分かってはいる。だが突然、あの声音で呼び止められることへの免疫というものは、どうにもつかないものだった。
 それに明け方に雨乾堂への誘いなど、何の用であるのか皆目検討がつかない。どうしてですかと、そう聞いておけば良かったのだが、考える間もなく反射的に頷いた後見せられた笑みで、すっかり疑問など蒸発してしまった。
 細かい砂利を踏んで歩きながら、まだ寝ぼけた頭で考えるのはこれからの事ばかりである。まるで検討がつかないから想像のしようもないのだが、想像しようもないからこそ落ち着かない。
 敢えて人の居ない時間帯に誘われて居るのだから、つまり二人きりでなければ意味がないという事なのだろう。それが具体的に何の為にとか、何をとかいう事は分からないが、ただ確実なのはどこか期待したように浮足立っているということだ。
 隊舎に近づくにつれやや空が白みはじめると、緩やかながらも頭は起動してゆく。隊舎の門を潜り抜けると、そのまま自身の執務室に寄ることもなく真っ直ぐ彼の居る雨乾堂へと向かった。
 昨日のあの口ぶりでは、恐らく昨晩自宅には戻っていないのだろう。
 今でこそ自宅へ帰る事がやや増えているが、以前までの彼はほぼ隊舎に住み込んでいるようなものだった。昔は夜遅く任務から戻ると、雨乾堂に淡い明かりが灯る様子を通りがかりに見かけるのが楽しみで、それまでの疲れなどどうでも良いと思えた。
 姿が見えずとも彼がそこに在るのだと思えるだけで満足で、その為だけに日々を過ごしていたと言っても良い。思えば赤面したいほどの盲目さである。
 だが考えてみればそう簡単に性質が変わるはずも無いというのは、己が何より知っている。昨日だって誘われてからというもの残業覚悟であった必死に書類を仕上げ、今日に備えいつもよりずっと早く床についた。
 だというのに、眠気はまだ頭の中でちらちらとし続けている。こう早くては彼もまだ眠ってはいないだろうか。彼の寝顔をふと思い浮かべ揺り起こす所まで想像を及ばせたが、間もなく見えた光景にあ、と一瞬立ち止まった。

「あれ、隊長……」

 池にひっそりと浮かぶような雨乾堂の傍に、まだ寝巻き姿の浮竹の姿があった。渡り廊下で腕を組み、池の様子を眺めている。
 ひとけのない隊舎ですぐ千世の姿に気づいた彼は、僅かに手を上げるとおいでと言うかのように手招きをした。慌てたように小走りに廊下を進みその傍へ寄れば、おはようと彼は笑んだ。

「こんな時間に呼び出して悪かったね」
「いえ、静かな朝の瀞霊廷も楽しかったですよ。ただ、欠伸が…止まらないのですが」
「勤務前にどうかとも思ったんだが…この時間でないとならなくてね」

 申し訳なさそうに眉を曲げ首を掻く浮竹を、千世は見上げる。この時間でないとならない事、頭の中で繰り返してみるがやはり一体何のことであるかやはり分からない。
 千世の戸惑ったような視線に気づいたのか、浮竹はほら、と池へと目を遣った。
 池の一画には、蓮が植わっていた。春頃に青々とした可愛らしい浮き葉が出てきていたことを覚えている。気づけば葉は高く大きく広がり、涼しげで夏らしい光景となっていた。
 葉よりも少し高い位置に伸びた花は、零れ落ちそうな程の見事な花弁を広げていた。花托を包む鮮やかな花びらは青々とした葉の中でよく目立つ。ぽつぽつと開きかけの蕾も見え、思わずその光景に微笑んだ。
 そういえばいつもこの時期になると大きな蕾を見つけて、いつ咲くのだろうと楽しみにしていたのだ。
 だが思い出してみれば、高く伸びた茎から落ちそうなほど立派な花が開いた様子を、目にした記憶がない。これほど立派な花があちこちで開いていれば、思わず立ち止まってしまいそうなものだというのに。

「昨日の朝、ようやく咲き始めた」
「あれっ、そうだったんですか?」

 昨日千世は雨乾堂へ顔を出していたはずだった。
 こんな鮮やかな花が咲いていれば、いくら急ごうとすぐ目に留まるはずだというのに。記憶を辿るように視線を上げていれば、浮竹はふっと隣で笑った。

「蓮は昼前には花が閉じてしまうんだよ」
「……ああ!だからどうりで…」
「特にこの池の蓮は、どういう訳か咲くのも閉じるのも早くてね。皆が来る前には全て閉じてしまう」

 浮竹はそう言うと目を細める。今日が一番綺麗なんだよ。そう呟いた言葉通り、確かに蓮の花はその花弁の先まで瑞々しく艷やかだった。先程まで閉じていた他の蕾たちも気づけば緩みはじめ、花弁を零してゆく。
 こんな美しい姿を、多くの人の目の触れないまま早々に閉じてしまうなんてあまりに勿体ない。だがそれは、自分が花を楽しむ側だから思うのだろう。花は別に沢山の人の目に触れたいが為に咲くわけでも無い。
 彼はいつも明け方に一度目を覚まし、外の空気を吸うのだという。丁度その時間に蓮の花が満開になり、暫く眺めるのがこの時期の楽しみなのだと笑った。

「なんだか、隊長の為だけに咲いているみたいですね」
「それは何とも、畏れ多いな」

 少し目を丸くさせた浮竹を見ながら、すみません、と思わず頭を下げた。
 まるで彼に愛でられる為に一生懸命に咲いているかのように思えたのだ。浮竹が見終えれば、隊舎に人が増える前にそっと閉じてしまう。
 羨ましい、と一瞬過ぎった感情に動揺した。まさか花に嫉妬した訳ではない。美しい姿を、清らかな心で穏やかに眺めてくれる相手が居ることをただ、良いと思った。自分が花だったならば、そんな人の傍で咲ける事が誇らしいに違いない。
 千世、とふと隣から聞こえた声に、暈けていた焦点を戻す。ぼうっとしていた姿が気になったのか、眠いのかい、と少し心配そうに眉を曲げる浮竹に慌てて首を横に振った。

「でも、どうして今日は呼んでくださったんですか」
「どうしても何も、見せたかっただけさ」

 それだけ、と思わず言いたいほど単純であっけらかんとした答えに、千世はぽかんとする。不満なわけはない。こんなに綺麗で、特別な景色を共に眺めることが出来たことは何よりも幸福であった。

「最近良い事を知ったり、良いものを見たり…美味いものを食べるとつい、千世にもと思ってね。この景色も、直ぐに見せてやりたかった」
「そ、それは、その……畏れ多いです」
「……嫌じゃないかい」
「え、…えっ!そんな、嫌な訳ないです!」

 どうしてですか、と思わず尋ねる。まさか嫌なはずがない。むしろ動揺するほどに嬉しい。彼の見た景色も、感じた思いも知ることが出来るなら全てを知りたいと思う。だがそれではあまりに強欲だと分かっているから、勿論口に出したことはない。
 その欲というものは、彼と過ごす日々が長くなるほどに増してゆくのを感じていた。今まで知らなかった顔を知る度に、その中に隠れた思考や感情を覗いてみたくて仕方がなかった。

「利己的すぎやしないかと、少し不安だった」
「そんな事言ったら、私だって…蓮の花に少し妬けたくらい、利己的ですから…」
「…蓮の花に……?」
「…ああ、いや…こちらの話です、すみません…」

 浮竹は、また池の方へと視線を戻す。徐々に日がのぼり、空は随分と明るくなった。花が開くのと同じくらいの速さで徐々に、気づかない間に大きく大胆に変化する。

「これから、千世も教えてくれないか」
「私もですか」
「そう。千世が思ったことを知りたいんだよ。綺麗だと感じた景色、美味しいと思ったもの、何でも良い」

 どうしてですか、とつい尋ねる。自分が彼に思っていた事を、そのまま返されたことに驚いていたのだ。自分が彼を知りたいと思っていた感情と同じほどの重さで流れ込む言葉に、千世は思わず息を止める。
 きっと自分ばかりでは無かったのだ。横に立つ彼の顔を恐る恐る見上げれば、彼もまた静かに千世を見下ろし微笑む。

「どうしても何も、知りたいだけだよ」
「そ、それだけですか」
「それだけだよ。…というのも、理由を言おうにも上手く言えそうにない」

 眉を曲げた浮竹は、そう言って笑った。
 千世はどう答えればよいのか分からず、ただ湧き出すような嬉しさに緩む口元にぎゅっと力を込めながら二、三度頷く。

「じゃあ、まず蓮の花に妬けた理由から、教えてもらおうかな」
「えっ、覚えてたんですか…」
「何言ってるんだ、当たり前だろう」

 少しいたずらっぽい笑みを浮かべた浮竹に、千世はぎくりと固まる。すっかりそんな話、遠くへ流れたとばかり思っていた。
 ええと、ともごもご口ごもる千世に、浮竹は腕を組みくすくすと笑う。しんとした早朝の池へ響く二人の声は、満開の蓮の花を僅かに揺らすようだった。

(2022.07.14)