金魚

2022年7月5日
おはなし

 

 まだ昼前だと言うのに、じわじわと蝕むような気温である。
 暑い、といっそ口に出す事すら憚られるほどのうだるような暑さは、行動の一切を阻む。朝食の後は隊の書庫から借りてきていた本を数冊読み、庭に植えている薬草の手入れでもしようかと思っていたのだが、全てやむなく中止した。
 庭に出るんじゃなかったのかい。縁側に腰を掛け本へ目を落とした浮竹は、何となしに言う。黙っていても汗が滲む暑さだと言うのに、彼はまるで秋風でも浴びているかのような涼し気な表情を、ぐったり団扇をあおぎ続ける千世へと向けた。

「まさか。この暑さじゃ無理です、日が落ちてきたらとは思っていますが…」
「そうかい」

 庭の干上がりそうな様子をちらと見た浮竹は、少し頷いて笑った。
 昨日の夜は少し風も吹いて過ごしやすかったから、意気込んでいたのだ。明日はあれをして、これをしてと、休日を充実させる予定なのだと昨晩浮竹へ語っていたのだが、この暑さで全てどうでも良くなった。
 今はただ、この先更に上がってゆくであろう気温を如何にして凌ごうかと考えるばかりだ。

「どうしてそんなに涼しそうなんですか…」
「涼しく無いよ、暑いさ」

 そうは見えない。畳の上にぐったり転がった千世は、そのまま力なく団扇を揺らし、そよ風以下の生ぬるい風で髪を揺らす。彼も暑いと言ってはいたものの、その肌に汗は見えない。だが長い髪を緩く後ろで一つに結いているから、確かに普段よりは暑いと感じているようではある。
 再び本へ目を落とした彼を、千世は畳へ横たわったままじっと眺める。本に目を通せるほどの余裕がある様子が羨ましい。流石にじっとりとした視線が居心地が悪かったのか浮竹は直ぐ顔を上げ、眉を曲げた。
 どうした、と彼はとうとう手元の本を閉じる。縁側から下ろしていた足を上げ、千世へと身体を向けると胡座へ直った。

「隊長、やっぱりまるで暑そうに見えないです」
「…暑いと言った所で、涼しくなる訳でも無いからな。諦めているんだよ」
「それは分かってますが…それでも、暑いものは暑いですよ」
「それなら、水風呂でも浴びてきたらどうだ。少しは涼めるんじゃないか」

 なるほどそれは良い案だ。最も簡単な手段のようで思いつかなかったのは、やはり暑さで思考回路が多少溶け出しているのだろう。
 冷たい水で体温を下げ、じっとりと不快な汗を流せばきっと多少は息もし易くなりそうだ。名案だと頭では思いながらも、しかし直ぐに身体を動かす気にはなれず、横たわったまま扇ぐ手元以外を微動だにしない。
 だが、きっと心地よいに違いない。想像せずとも分かる。冷たい水に頭の先まで浸かれば、その瞬間このうだるような暑さから一瞬でも解放されるだろう。

「金魚になりたいです」
「…金魚に?」
「はい。そうしたら、ずっと水の中で涼しいですよね」

 何を言っているんだとでも言いたげな、呆れたような表情を見せた浮竹に、千世は笑う。単なる冗談だ、水風呂に浸かる心地よさを思い浮かべたら、いっそ一生そのままで居たいと感じてしまいそうなものだと思ったのだ。
 水の中でゆったりと泳ぐ金魚に今日だけでもなれるというのなら、そんな一日があっても良いかもしれない。波のない金魚鉢の中で、鮮やかな赤い尾びれを揺らす金魚の涼しげな様子を思い浮かべる。

「それも良いかもしれないな」
「えっ、…な…何でですか」

 思っても居なかった言葉に、千世はつい僅かに身体を起こす。下らないと笑って一蹴されるかと思っていた。むしろ、それを望んでいたのだが。
 下らない、と恐らく一瞬は思っていたのだろう。何を言っているんだ、とそう喉まで出かかったように口を開いていた筈なのだが、何を思ったか腕を組み考えたような表情をして、それからまさか頷かれるとは思っても居なかった。
 自ら言い出した事ながら、怪訝な表情を浮竹へと向ける。普段ならば困ったように微笑まれ、早く水でも浴びてきなさいと促される場面だ。

「雨乾堂の、文机の横に棚があるだろう」
「…はい、あります」
「中段に並べている本を退ければ、丁度金魚鉢を置けるかと思ってね」
「…それは、…つまり私を飼うということですか?」

 そういう話じゃなかったのか、と浮竹はわざとらしく目を丸くする。
 そういうつもりで言ったのではない。えっ、と思わず声を上げた後に口ごもると、彼は脇に置いていた団扇を手に取りながら笑った。軽く扇ぎ、その柔らかい風を受けながら何を思い浮かべているのか目線をどこか遠くへ向ける。

「好きなように泳いでいるだけで、時間になれば餌が降ってくる。それに、定期的に綺麗な水へ入れ替えられるし、時々鉢を指つついて遊んでくれる相手も居る」

 ううん、と千世は唸る。彼が挙げる条件は、金魚としては何不自由ない生活だ。むしろ、金魚として生きるならばこの上ないほど恵まれた環境に違いない。
 悪くないだろうと、どこか得意げな浮竹に千世は咄嗟に首を横に振ることも、かといって頷くことも出来ずに首をかしげた。

「俺にとっても悪い話じゃない」
「でも、私が金魚になったらこうしてお話も出来ないんですよ。それに…一緒に庭いじりも出来ませんし、お団子も一緒に食べられませんし…」
「…まあ、確かにそうだ。ずっと千世を傍に置けるなら、それも良いかと思ったんだが」

 諦めるよ。眉を曲げて笑う様子は至って普段どおりの様子でそう答えるから、一体何の話をしていたのかと、まるで夢から覚めた時のような不可解さであった。
 傍に置けると言っても、それは金魚になった姿だ。話せるわけでもない、仕事を手伝えるわけでもない。ただゆらゆらと金魚鉢の中を泳いで、時折水面に出て口をぱくぱくとするだけだ。
 しかし彼の表情を見ても冗談で言っているようには見えない。至って普段どおり、至って正常な様子で、彼の言葉とあまりにちぐはぐであった。その不整合に、どこか感情の深い部分の裏側をまるで指先で掻かれるような、熱を帯びた違和感を覚える。

「へ、…変なこと言わないでください」
「言い出したのは千世だよ」
「だって別に飼って欲しいとか、欲しくないとかそういう話をしたかったのではなくて…ええと…何の話をしてたんですっけ…」

 口にしながら動揺し、思い返そうとしたもののこの会話に至った経緯をど忘れした。ふと浮かんだ余計な光景が、やけに頭にこびりついたのだ。
 つい、鉢の中に浮かぶ自分を想像した。部屋の隅の棚へ隠されるように置かれた金魚鉢の中から眺める風景には、彼の姿しか映らないのだろう。
 餌を与えられ気まぐれに構われ、彼の事しか知らないまま、彼だけの為にゆらゆら尾びれを揺らして泳ぐ一生は、それはそれで確かに悪い話ではないかもしれないと、僅かでもそう思ってしまったのだった。

2022/07/05